第41回~昭和43年10月20日「太陽は泣いている」(後)
四
僕と石堂の受験勉強がたけなわになっても、三人で会った際に大貫恵子がどこに進学するかを彼女自らが口にしたことはなかった。言う必要もなかったし、僕らが確認する必要もなかったのだ。特に難関校向けの進学カリキュラムを組んではいないであろうお嬢様学校に通う箱入り娘の進学となれば、それはきっと今通っている女子校に併設された短大あたりに違いなかった。少なくとも、娘を溺愛しているあの初老の社長が男ばかりの総合大学へはやらせないだろうというのが僕と石堂の間の共通認識だった。
そんな単純な予想が一変したのは九月の終わりの事だった。甲東園の喫茶店でついばむようにプリン・ア・ラ・モードを口にしていたおケイは「ウチの学校の内部推薦、受けないつもりなんよ」とにこやかに宣言したのだ。
「それは、どういうことなん?」
まず声を発したのは石堂だった。動揺が見え隠れしていた。無理もない、既に彼の中では自らの大学進学と同時に内部進学を済ませた彼女と付き合うという青写真が九割がた出来上がっていただろうから。天気を訊くくらいの心構えでの問いかけをかわされたショックがあるに違いない。
「どうって……そういうことよ」
彼女は短いスカートの裾を少し気にしながらで再び微笑むと、サイダーだったかジンジャーエールだったかにストローで口づけた。一方、少女の鷹揚な応対とは真逆に、石堂は矢継ぎ早に質問を繰り広げた。進学をするのかしないのか、それは女子大か総合大学なのか、そして関西の学校なのかそうでないのか、といった具合だ。しかし少女は微笑みのうちに答えを与えることはなかった。
その日を境に僕に対する石堂の言葉は更に苛烈になった。大方のところは即答を拒まれ、こちらに対する完全無欠の勝利を確定させることが先延ばしになったからだろう。いや、ひょっとするともどかしいだけでなく、もっと不安な気持ちに気づいたのかもしれない。
でも、おケイはどうせ関西の女子大に進学して石堂とくっつくのだろう。ただ、彼の胸の中に不安が少しの間だけでも芽生えたかもしれないと考えるだけで、僕はどんなに強烈な嘲りを受けてもやり過ごすことが出来る。それは、悪い話ではない。
五
ゴールデン・カップスが『スプーキー』との取り組みを終らせた。おケイは「いい曲ね」とだけ呟くと、A面最後に控えている『ミッドナイト・アワー』を待たずに針を上げた。僕と石堂は黙って、オーディオを操作する少女の仕草に注視する。音楽を止めるということは、ようやくに以前の質問に対する回答がこちらに与えられるということに他ならないのだ。
おケイは紅茶で温まった広い居間を軽やかな足取りでソファへと戻ってくる。僕と~それから多分石堂もだが~の心境とは無縁の可憐さだ。石堂はまだ、爪を噛んでいる。
ソーサーとティーカップを手にしたおケイは柔らかなソファーに腰を深く落とした。まだ、話すそぶりはない。
「さてさて!」
少女は場を仕切り直すように声をあげる。僕はそれを黙って聞いていたが、小さな唇へと傾けられていく陶器を見守っているうちにふと、僕ら三人は実に傲慢な人間の集まりだと感じた。
まずは僕と石堂の単純さがそれだ。いずれかがおケイに選ばれ、それ以外の男になど彼女が見向きもしないという前提をどこか信じ切ってしまっている。特に石堂ときたら僕をねじふせてしまったら、それだけで明日はバラ色になるとでも思ってしまっているのだ。一方の僕だって、驕り高ぶる石堂の無礼を「彼だから」辛うじて許そうとしている。これが他の連中ならそうはいかないだろう。まるで人を上から吟味するのが生きがいの小姑だ。要は他の男が三人の前に現れるなどとは微塵も考えられないのだ。
そして恵子もだ。一年半も一緒にいたならば気づいてないはずないじゃないか。なのに、気づく素振りを見せようとはこれっぽっちもしない。こちらをもてあそんでいるのかもしれない。それを傲慢と言わずしてなんというのだ。
ああ、なのに、今までの状況からして万に一つの可能性もないのに、ひょっとしたらおケイに選ばれるかもしれないとどこかで思い続けている図々しさよ!
でも、実際の彼女は紅茶を飲み干すと共に関西の女子大に進学を表明し、春になれば石堂と付き合うのだ。東京に出てなお、おケイと付き合うという作戦が作れない以上はそういうことになる。そうなった時、僕は二人を妬まないで「役者」にでもなって祝福できるのだろうか。
おケイは空になったティーカップをテーブルへともどし、男二人の方に視線をあわせた。爪をかんだままの石堂は、格好を改めようとはしない。でも、僕はわずかにだけど姿勢をただした。どうせ「死刑」みたいなものの原型を受け取るにしても、格好くらいはつけておきたかった。
が、その口からは全くに意外な言葉が飛び出てきた。初恋なんてなすすべもなく終わる、と信じ込もうとしている僕にとっての福音みたいなものが舞い降りてきたのだ。
「私ね、東京の大学受験しようと思うの」
そう言うと少女は緊張に押し黙った男どもに同意を求めるようにぎこちなく微笑んだ。傍らから鈍い音がした。石堂が親指の爪を歯で噛み割った音だった。
「それはそれは」
石堂は、おケイに気取られないように素早く右手の滲みだした血をハンカチでぬぐい、コットンパンツのポケットの中に全ての証拠を突っ込んだ。が、負傷を隠すのは簡単でも、平静を装った声を誤魔化すことは出来ないようだった。ついさっき、道中の僕があげたような裏声にも似た哀れさがあるかもしれない。
「お、おケイが上京かあ……」
彼はいよいよ、先ほどまでの僕に似てきた。どこかに意識を飛ばしてしまったのだろう。声だけでなく、手まで震えだした石堂は揺れのままに胸ポケットから煙草を抜き出すと、ライターで火をつけようとする。どうやら、ここがどこかすら忘れてしまっているらしい。
「石堂君、タバコ吸ってんの?」
おケイは呆気にとられたように口を開けたが、やがて灰がこぼれぬようにガラス製の灰皿を彼の前に差し出した。
「アハハ……」
「おケイ堪忍な。イシのヤツ、勉強疲れで時々こないして前触れもなくタバコ吸いだしてまうのや……」
喫煙者はヘラヘラするばかりだ。僕は慌てて、驚いているだろうおケイの取りなしにかかった。動揺がおさまらない石堂への同情が全くにない訳ではない。が、それよりも不意打ちのタバコで、話題が変わってしまうのが嫌だったのだ。ふってわいてきたこちらの勝算すら隠された相手の意思表明を「はいそうですか」で済ませられるほどに無欲な人間ではない。
「しかし……なんでまた東京なん?」
浮かれる心を必死に出さないよう、つとめて冷静な面持ちで僕は尋ねた。
「うーん、それはね……」
おケイは無心にタバコをふかす石堂にチラと目をやったが、やがて僕一人に対して理由を述べた。
「だって……最近じゃ人生も七十年よ。長い人生、どうせなら一回くらい日本の中心に行ってみたいもの。学ぶ内容が同じでも、色々と得るものも多いはずだし……」
そうとだけ言うと彼女は少しうつむきながら、いくつかの在京の女子大と私大の名前を挙げた。いずれも富裕な家庭の子女が進学することで有名な学校だった。
「こりゃ凄い。僕が無事に早稲田に進学出来たら案外また、ご近所さんになるかもしらへんな」
「ウン……波多野君、その時はよろしく」
伏し目がちに恵子が答えた。僕は夢見心地のままに返事らしきものをしようとしたが、何となくそれを止めて頷くだけだった。余韻のようなものに浸っていたかったのだ。進学先を訊ねることが石堂への敗北の前段階と覚悟を決めていたのが、おケイの一言で勝負は五分五分、いやそれ以上の確率で勝ち目が出てきたのだから無理もないだろう。
傲慢だった石堂は灰皿があるのをいいことに二本目を手元にたぐりよせようとしている。彼は負け犬だ、遠くない未来の惨めな惨めな負け犬の姿だ! 僕だっておケイを分捕れる!
「いやいや、あまり我を張らないこの子がどうしてもというからね……。女子寮に入ることを条件に許したよ」
ゆったりとした和服姿に身を包んだおケイの父親が部屋に入ってきた。
「まあ君たちのうちの片方の波多野君が東京に進学するなら、悪い蟲もつかんやろうし安心だよ。もっとも、娘と君がきちんと試験に通ればの話だけど」
白髪まじりの豊かな髪をまじないのように数度軽く叩いた紳士は、静かに娘の隣に腰かけた。
「最近の大学受験は過酷だからね……。僕の若い頃は戯れ歌で『早稲田、慶応が大学ならば電信柱に花が咲く』なんて言われたもんだが、今や難関校の代名詞なんやからねえ。それにしても遅まきながらこの子に家庭教師をつけてはいるが、間に合うかどうか」
そう言うとおケイの父親はくつろいだ姿勢からほんの少しの笑みを溢したが、やがて自らも葉巻を取り出しつつ石堂の方に視線を寄せた。
「石堂君、珍しいな。今日はまあくつろいでいるのだろうが、二十歳前からあまりそうタバコをプカプカやってはいかんよ。何せガンになる……」
「へ……さようですな」
柔和さの中に有無を言わさない趣のある忠告だった。しかし、それを耳に入れた幼馴染は返事こそ返したが相変わらずにタバコを咥えたままで時を過ごしていた。
「ほうですなあ……ガン、怖いですなあ……」
天井を見上げながら、誰ともなしに石堂は呟いた。紳士は呆れたようにクビを軽く水平にふった。
六
呆けたように大貫家での時間を過ごした石堂は、辞去して学園通りまで戻ってきた瞬間に正気を取り戻した。
「ハタ坊」
こちらも見越してはいたが、やはり語気には厳しさがあった。トゲだけでなく怒気まで含んでいる。
「ん?」
紅茶とおケイの言葉でうんと身体を温めた僕は、歩みは止めずに彼の方を振り返った。
「お前がそんな卑怯なヤツとは思わなだで」
彼の細い目がさらに針のようになっていく。まるで目尻から綺麗に抜き出したら、肌でも突き刺せそうな勢いの細さだ。
「へ?」
僕は大体は分かってはいたが、それでも彼の怒りに気づかないフリを決め込んだ。
「とぼけるなよ……。一体、いつの間にお前、東京への進学なんかをあの子に薦めた?」
大きな身体は歩道上で動きを止めた。どうやら歩きながらでなく、立ち止まっての話が必要らしい。
足を停めた僕は、予想通りだな、と思った。石堂は、かねてから東京への進学を公言していた僕が、おケイを東京に連れて行こうとそそのかしたから今日の言葉があると信じ切っているのだ。
「いや、おケイだけやないな。この野郎、どないな方法でおケイの親父さんを説得したんじゃ!」
誤解だ。僕は何一つそんな運動などしてはいないのだ。ただただ、惨めにお前の嘲笑に耐えていたら棚からぼた餅が転がり込んできただけにすぎない。となれば、誤解は解かなければいけない。
しかし、それでいいのだろうか?
この数か月というもの、石堂は奢っていた。自惚れていた。僕を見下していた。おケイが自分に惚れこんでいるという確信を得てからずっとそうだった。そしておケイが上京しようと決めたならば、それは僕の入れ知恵だと決めてかかっている。親友に対する思いやりも信頼も、これっぽっちもない男になってしまっている。
本当に僕は誠意をもってそんな彼の思い込みを解く必要があるのだろうか? こちらをこれっぽっちも信頼しない男を? そんな訓話めいた作法ではなくて、勝ち目が五分くらいに巡ってきた僕は彼が酷薄にこちらに接してきた分、同じように接したって許されるのじゃないか?
僕はしばらく街路樹を眺めていたが、やがて薄笑いを浮かべて口を開いた。石堂、お前がそう接するならば俺だって嘘をもって同じくらいの仕打ちで応じてやるよ、と思いながら。
「ああ、そうだよイシ。俺が親父さんともどもおケイを説得した。いやあ、あの手この手で骨も折れたわ」
石堂の顔に朱がさした。所在無げに垂れ下がっていた両の拳が固く握られはじめる。
「テメエ……」
彼の眼は今まで見たことも無い程に大きく見開き、ところどころに赤い血管が浮き出ている。
「俺は……俺は……俺はいくら勝機があると思っても、以前お前とした『大学に入ってから勝負』という約束を守っていたのに。それをハタ坊お前は……」
「何抜かす。俺は別に『彼氏になれ』とおケイに言うたんやあらへんでぇ。単にあの子の進学相談に乗ったっただけや」
腹の底から一言一言を震えながら取り出すように喋る石堂に向かって、僕は平然と言ってのけた。
「それとも何や? お前今からおケイんとこ戻って『頼むから東京やのうて関西の学校いこや』とでも頼み込むんか?」
そう言った途端、僕は身体を固くして半歩ほど後ずさった。彼の固めた拳が飛んでくると思ったのだ。
が、拳は飛んで来なかった。呼吸を荒くした石堂はただただこちらを睨むと、一言だけ言った。
「そんな女々しいことはせん……。約束してしまった以上、俺はそれを反故にはでけん。……だから、ハタ坊もこれ以上はおケイに関してきな臭いことはすんなや」
「ああ、そうするわ」
こちらの適当な返事には反応せず、石堂は大股で家路を再び歩きだした。僕はどうしたものかと思ったが、やがて数歩遅れで彼の後を歩き始めた。会話はなかった。それぞれの家に程近い、いつも別れる角まで辿り着いても僕らは別れの挨拶すら交わさなかったのだ。
自宅への最後の直線を進みはじめる丸まった背中を僕は立ち止まって少し見つめた。後悔なんてなかった。驕った鼻をくじいてやった快感に酔うことがこれ程に楽しいとは知らなかったのだから当然だ。
が、程なくして僕は彼の憤りを知ることになる。どこかの家の開け放たれた窓からだろうか、哀切な歌謡曲が零れるように聞こえてきた瞬間、彼は夏の日の恋の物語をしばし立ち止まって聴くでもなしに凄まじい勢いで電柱にたてかけてあった防犯看板を何度となく蹴り出したのだ。
「アホンダラ!」
怒声とともに割れ鐘にも似た音が住宅街の小路に響き渡った。しばらくの後、石堂はまた背中を丸めての歩みを再開した。僕はそれを不思議なくらいウキウキした気持ちで眺めた。
石堂に追いついたなら彼の憤りなどどうでもいいし、軽い嘘への後悔など微塵もないのだ。僕もまた、角から離れ、家に向かい始めた。口笛で吹きながら辿る家路の心地よさったらない。




