第40回~昭和43年10月20日「太陽は泣いている」(前)
一
日本シリーズ第六戦。熱投を続ける堀内を前にした阪急は代打に石井を繰り出したが、ベテラン選手の打球は力なくセカンドの土井の目の前へと転がっていった。それが今年最後のプロ野球のプレーだった。巨人は六試合のうち四つを勝ち、四年連続のチャンピオンとなった。今年もパ・リーグは巨人の牙城を崩すことが叶わなかったのだ。
はしゃぎまわる巨人ナインをぼんやりと石堂家のカラーテレビで見つめる僕は十八歳。迫ってきた大学受験を前に合格も不透明なら、その他のことにも大した展望が見えない冴えない男だ。
でも、巨人との日本シリーズにこそ敗れたものの、二十八歳の阪急ブレーブスの矢野選手は違う。初夏に突如として才能を開花させはじめた彼は、優勝争いの最後においてその冴えを最高のところにまで押し上げた。それほどまでに今月十一日のナイターにおいて、矢野のバットは神がかった一打を次々と叩き出したのだ。
南海と阪急に絞られた今年のパ・リーグの優勝争いは混迷を極めていた。南海が日生球場で近鉄と、そして阪急が西宮球場で東京と戦う最終戦を前にして二つのチームは同率の首位だったのだ。一方のみが勝てばそれでそのチームの優勝だが、両方とも勝つかはたまた両方とも負けた場合は巨人との日本シリーズを延期してまで行う過酷な優勝決定戦を戦わなければならない。
が、そんな重苦しさの中で四番を打つ矢野はまず、一対二と負けている九回の裏に二十勝投手であるオリオンズの成田から二塁打を放った。一塁ランナーのスペンサーを一挙にホームへと迎え入れる同点のヒットだ。そして延長十一回裏、再び成田と相対した矢野が振りぬいた一撃は、いつかのように遥か夜空に舞い上がるとレフトラッキーゾーンを越えていくサヨナラホームランとなった。
彼がダイアモンドを一周した八分後に森ノ宮の南海が敗れ去り、阪急の優勝が決まった。僅か九十四試合のうちに二十七本ものホームランを放った彼の快進撃があってこその優勝だった。
「でも、野球は九人の競技やて。矢野一人が打ちまくってどうなるというものでもなし。それに第二戦以降のスカタンぶり、何やアレ?」
石堂はカラーテレビのツマミを捻ると、満足気な巨人の川上監督が大写しになった映像を僕たちの視界から打ち消した。確かに、矢野に憑いていた神秘の力はシリーズが続くにつれ、どこかへと消えていってしまった。ペナントレースの勢いそのままにシリーズ初戦で金田から逆転のホームランを打ったまではいいが、六試合を通じた打率は虫眼鏡が必要なくらいの九分五厘にすぎない。
「ホンマに阪急。去年に続いて関西代表として恥をさらしよってからに……。こんなんやったらホークス出たら良かったんや」
「お前ンとこ、最終戦で近鉄なんかに負けた癖にガチャガチャいいな」
そう言うと、僕は座布団の上ででアグラをかいたままにひとつノビをした。自宅と違い、座敷でテレビ観戦をするという動作はどうにも疲れるのだ。
「南海かて三年前、一昨年と続けて巨人に完敗したやないか。人のチームをどうこう言えたガラかいな」
「ほざけ。今年やったら三十勝した皆川おるさけ楽に勝てたわ」
石堂はあくまでも優勝を逃した贔屓をかばう。そして彼の母親がだしてくれていた煎餅とビスケットをつまらなそうにつまむと、冷えた煎茶で流し込んだ。
「タイガースだってなあ……なんで巨人ごときに負けるのや。バッキーも肝心なとこでケガしよるし」
「まあなあ。しかしここ何年か毎年三位だったわけやし、それ考えたら今年は優勝争いも出来たし上出来やて」
僕は際限がないように思える彼の悪罵をたしなめようとする。野球にとどまっている分にはいいが、この数ヶ月を思い起こせばいつ何時、他愛もない話題から産まれたトゲのある言葉がこちらを襲ってくるかも分からないのだ。
なだめるようなこちらの言葉を無視した石堂は、目を細めると苛立った表情をつくる。どうやら僕の自衛策は後手にまわる結果となったようだ。
「ぬるいこと言うんやないよ。何事も勝たなきゃ無価値やでハタ坊」
「まあな」
「まあな、やあれへん。現に負けかかっているお前が、そんな呑気なことを言う資格これっぽちもあれへん」
僕は会話を続けることを諦めた。つきあいが長いだけに、じゃれあい以上の重みを今の彼の言葉が持っていることくらいは察せるのだ。野球の話題ですらこうだ。阪急の敗北に端を発した彼の毒気のある矛先が向かってくることを警戒はしたが止められなかった以上、心の中で苦笑するくらいにしか気力がわかない。
石堂は座卓の隅から灰皿を取り寄せるとタバコを吸いはじめようとする。こちらの「弁解」を待つ間の暇つぶしにでもするつもりなのだろう。僕がその様をうかがおうとすると、石堂は右手の二本の指で軽くタバコをゆらした。煽っているのだ。
「ハタ坊、早うなんぞ言わんかい」
僕は黙って彼に背を向けると傍らに畳んでいたジャケットを羽織り、デパートの紙袋を手に持った。親友の「期待」に応える気も、一服の間なんてものを与える気もなかった。冷え切った言葉の応酬は面倒くさいし、辛い。
「さて、そろそろ行こや。おケイも待っとるやろ」
やっとのことでそれだけを言うと僕は精一杯に笑って、彼の前に紙袋をかざしながらで座敷から廊下へと出た。野球も終わった以上は無駄な会話など省いて、今日一番の用事に向かわなければならない。
「まあ、そりゃそうだが」
不服そうな石堂の声が聞こえ、続いて彼が上着や紙袋を用意するガサゴソとした音が背中越しに聞こえた。
舌打ちの音が微かにした。僕は何も言わずに靴を履くと三和土に腰かけ、奥を振り返らずに彼の登場を待った。
二
僕らは夕暮れ近い四時すぎに、大学前の広い一本道を大貫恵子の家へと歩いていた。模試があったせいで先週開かれた彼女の誕生日祝いに出席することが出来なかったので、遅ればせながらプレゼントだけでも渡しに行こうとしているのだ。それに、そろそろ僕も石堂も彼女に確認しておかなければいけない事もある。
いい日ではある。でも、同道者の事を考えると、待っているはずの楽しいひと時への期待なんてゴムマリから空気を抜くようにしぼんでいく。僕と石堂の関係は、見かけとは違い多分に冷え切っていた。
おケイの感情が石堂に傾いているかもしれないという憶測は、二人の間の暗黙の認識になっていた。もう三人で会ったともなれば、一方はニヤケ面の下で驕りと浮かれを隠すのに余念がない。そしてもう片方~要は僕だ~は、そんな男に対する劣等感からの嫉妬の感情を隠すのに必死になるだけだ。肉体、スポーツ、志望大学に劣った僕は、おケイを前にしての見下された態度と、そして何よりも少女に彼のようには想われていないのかと思うと「役者」を辞めたとて勝ち目などないと思わざるをえない。それでもふと、この屈強な幼馴染を後ろから蹴り上げたいような衝動にかられてしまう。
「お前がマフラー、俺がLPか。被らないで良かったわ」
石堂は、それぞれの紙袋に交互に視線を落とすと少し笑った。彼のプレゼントはゴールデン・カップスのアルバムで、そして僕のものは梅田の阪急デパートで買ったマフラーだ。多分、値段は同じくらいだろう。
「冬を迎えるからいうて防寒具なんか重なったら、僕ら揃って間抜けやもんなあ」
僕は呑気な言葉でもって大貫家への道中に冗談を添えようとした。石堂の言葉の暴力性を避けるには、前もって話題を彼の毒が及ばない方向に持っていく必要があるのだ。
石堂は白い歯をチラリと見せると薄ら笑いを浮かべ、大きく頷いた。
「せや、間抜けは一人でええ」
言葉のあやを瞬時に見つけ出すことは彼の賢さの表れかもしれないが、今の僕には呪わしい。
「ハハッ」
僕は声を出して笑った。そうでもしなければ二人きりとはいえ、彼の軽蔑に耐えることが出来ない。ひきつった裏声が学園通りに響いた。
彼の僕への軽蔑は三つの要素で構成されている。そのうちの二つは分からないでもない。まず、理数の苦手な僕が早々に国公立を諦めて私大専願となったこと。次に百七十三センチの身長に対し体重が五十キロしかない貧弱な肉体に対してだろう。まあ、ここまでくらいならばからかいの範囲といえるかもしれない。
しかし肝心なのは三つ目、すなわち大学闘争に対して僕が全くに関心を寄せないことについてだろう。男なのにただのボンボンとしての身分に甘んじているだけの人間は、彼にとってどうにも歯がゆい存在らしい。
無関心を憤る彼の気持ちは分からなくもない。それに、一応は僕にだって大学当局の使途不明金や、インターン制度の改善といった諸問題に大学生が怒ることへの共感くらいはある。ただ、こちらから言わせれば頻繁に近所の大学に出入りしては何かしらの集会の準備やバリケードの警備を買って出る石堂が異常なのだ。大学生という身分で大学内の事象に声をあげる資格すらもなっていないただのボンチなのに、伊達か酔狂で頭を突っ込んでいるだけじゃないか。
日本全国の若者が一斉に声をあげることで学費値上げからはじまり、ベトナム戦争から成田問題に至るまでの諸問題が解決すればそりゃあ、いい。でも、すねかじりの集団がいくらシュプレヒコールを挙げても世界は老獪に対応するだろう。
そんな石堂の侮りに対する僕のささやかな復讐は、いつだったかの矢野のホームランをこれみよがしに喜んだりすることか、福村さんの本性を教えないことくらいのものだ。あの小柄なドラマーが言うとおりに大学の揉め事が学生の敗北に終わるというのなら、コイツもそこに巻き込まれて一度でいいから「挫折」をしてほしいと思うことくらい許されたっていいだろう。何なら機動隊に小突かれたっていい。成熟していない正義感なんて、警棒で殴られなければ治らないだろう。
三
言葉が途切れたままの僕たちは、学園通りを左に曲ると大貫家に着いた。ガレージのメルセデスと洋風にあつらえられた庭を脇に見ながらで石堂が呼び鈴を押すと、程なくして暖色のカーディガンにジーンズという格好の恵子が玄関に出てきた。
「二人とも忙しいところをいらっしゃい。……パパとテレビ観ていたけど阪急、残念やったわねえ」
おケイがエクボを作って笑う。それにつられて僕らも笑い返し、そして邸内へと迎え入れられた。
「ホンマなあ。阪急も奮闘して毎試合接戦やったけど、結局ダメなんやからもどかしいもんやなあ」
居間に通されながらに石堂がおっとりとした口調で答える。先ほどまでの僕との会話とは打って変わった内容だが、悪い兆候ではない。彼も、おケイの前ではこちらをけなさない程度の「礼儀」は持ち合わせ続けている証拠なのだ。場の雰囲気を重んじる、実に美しい友情である。
「じゃあ、とりあえずこれで野球のシーズンも終わり?」
「いや、後は大リーグのカージナルスとの日米対抗戦があったんやないかなあ」
すすめられたソファに座りながらに、今度は僕が答える。
「ふうん」
愛想よく相槌を打つと、おケイはテーブルに置かれたポットからティーカップに三人分の紅茶を淹れる。石堂は僕の右横にかけながらその手際をのんびりと見ていたが、やがてこちらを振り返ってゆるりとした表情を送ってきた。
僕はこういう時、石堂という男が分からなくなる。まだ、彼に生かされているという気分にさせられるのだ。
「それにしても二人とも、受験忙しくなってきてるのにわざわざプレゼントなんか買うてくれてホンマありがとう」
「いやいや! 僕らそれぞれおケイからプレゼント貰うたしな。こっちもなんぞ贈りかえさんと恥やて」
この訪問にふさわしい話題をおケイが引き出した途端、石堂は僕に対しての表情そのままに少女へと向き直って照れくさそうに頭を掻いた。そして、それを合図がわりに僕は二つの紙袋をテーブルの上に置いた。
「てなわけで、これがプレゼントや。こっちのがイシから。ほいでこれが僕からのや」
「ありがとう!」
おケイが包装紙を破ろうと二つの紙袋を手元に引き寄せる。良い光景だ。どんな状況になったとて、彼女が『ショット・ガン』とか『ミッドナイト・アワー』の入ったLPを早速にハイファイにかけるて喜んだり、紺のマフラーをタッグのついたままに首元に巻いて「この冬からはこれで登校するわ!」などと弾むように話をするのを眺めていることに勝るひと時などない。
でもおケイの喜びとは逆に、僕の顔は緊張でひきつり始めた。傍らの石堂も自分が贈ったばかりのLPに入っている『ウーマン・ウーマン』を聴く余裕もないのか、右手の親指の爪を噛み始めていた。荒い呼吸を押さえようにも、流石にこの場ではタバコを吸えないのだ。
それくらいに今から僕らがこの場を利用して問わなければいけない事項は重要だ。たとえ九分九厘返ってくる言葉が予想できるにしても。
石堂が僕の脇腹を肘でつつき、顔を少し覗き込んだ。そしていつもの嘲りの笑みを浮かべたが、次の瞬間にはもう、「よそ行きの顔」に戻すと恵子へ話しかけた。どうやら彼は既に己の満足の範囲にある回答が見えているらしい。
「ところでやな、おケイ。お前、進学はどこにするのや?」
咳払いの後に石堂が控えめの声量で話を始めた。
マフラーをクビに巻いたままにゴールデン・カップスの演奏を楽しんでいた少女は、小さく頷くとゆっくりと防寒具を解き、そしてレコードを止めるために腰をあげた。
プレーヤーに向けて歩んでいく後ろ姿を見ているうちに、僕はふと、タバコが吸えたらどんなにか楽だろうと思った。




