第4回~昭和42年6月18日「ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・グッド」(後)
六
大貫恵子に案内されて、僕らは商店街から大劇場のある花の道へと歩いて行った。落ち着いた佇まいながら、メニューもそろった喫茶店があるというのだ。
程なくしてカラリと晴れた梅雨前の並木道に、ツタに覆われた瀟洒な喫茶店が見えてくる。
「大貫さんの言うてた店ってコレですかいな」
石堂は大貫恵子の顔を覗き込みながら尋ねる。それに対して彼女は、「ウン」とだけ小さく返すと店の白い扉を明けた。扉に据えられた小さなベルが短い音を立てる。
「確かに歌劇の街の喫茶店にしてはあまり派手な感じやないなあ」
道路に面したガラス窓のすぐ側の席に通された石堂は店内を見回すと、昼下がりの陽光を浴びながら独りごちる。
「俺は、もっとこう、二階から鳳蘭が降りてくるような派手な店や思ってたわ」
「そういう店は、むしろ甲東園の『ポンペアン』なんかちゃうかな。あそこは前を通っただけやけど、なんやルイ14世のベルサイユ宮殿みたいやった」
ウエイトレスから受け取った縦長のメニューに目を走らせながら、僕は世界史の授業で教わったばかりのうろ覚えの知識を交えて彼のつぶやきに反応する。店内は歌劇帰りや温泉客などの女性で混み合っている割に、確かにそこまでやかましくはなく、写真で見ただけの戦前のカフェーのように落ち着いていた。
しかし、飲み物の値段は落ち着いてはいない。店で買えば一本五十円のコカ・コーラがここでは百二十円、コーヒーも同じく、だ。僕はメニューの隙間からテーブルを挟んだ向かいの席にいる大貫恵子の様子を伺った。彼女はにこやかな表情を崩さず、手を膝の上に載せて僕たちが注文を決めるのを待っている。値段の張る店でごちそうをしようとするあたり、この娘はいよいよ金持ちのお嬢様なのかもしれない。
「僕はコーラかなあ」
確かに割高だが、まぁ、さっきのお礼と言ってくれてるのなら、あまり遠慮しても逆に失礼だろう。とりあえず僕はコーラに決め、メニューを隣の席に座っている石堂へと渡し、汗ばんだ黄色いシャツを少しでも乾かそうと最寄りの扇風機の方へ身体を傾けた。
冷風で滲んだ汗が冷え、心地よくなってきた頃に、横からとんでもない選択が聞こえてきた。もちろん、声の主は石堂である。
「俺はせやなあ、とりあえずジンジャー・エールにホットケーキ。あと、ソフトクリームや!」
驚いた僕は、姿勢を元に戻して彼の方に顔を向けた。これじゃあ、石堂の注文だけで五百円を超してしまう。自分の金でなく、人の金で、だ。
「お前なあ、ごちそうしてもらうにしても限度いうもんがあるやろ」
思わず僕はたしなめたが、彼は意に介さない。
「いや、そうかもしれへんけど、俺はこういう時は遠慮なくガツガツやるほうがええと思うんや」
「なんでまた」
「ん。その方が俺の英雄的行為の金銭的な価値が上がる」
彼はそう得意そうに言うと、白い歯を僕と大貫恵子に交互に見せて笑いかける。
僕は心の中で頭を抱えた。石堂が本気で自らの行為を「英雄的行為」と言うならうぬぼれもいいとこだし、何よりも元々無遠慮な性格の彼の注文が、彼女を呆れさせてしまうのが怖かった。弁当もらって「ん、すまんな」「ん、美味かった」の中学時代から女の子に対する接し方が多少変わったかと思ったばかりでこれだ。女の子への「度胸」は、注文の金額で決まるわけではないだろうに。
それに、第一に、だ。お前の「英雄的行為」には僕だって半分かんでるんやぞ!
「ええですよ。ホンマお二人ともあまり遠慮しないでくださいね」
大貫恵子は笑顔のままだ。それどころか、大男が沢山の注文をしようとしていることに興味深そうな顔をして、石堂に問いかけた。
「石堂さん、それで足りますか?」
「うん、ひとまずは大丈夫です」
満足そうに石堂はメニューを閉じ、ウエイトレスを呼ぶために手をあげた。まあ、このミニのワンピースの娘が不快でないならそれでいい。
ウエイトレスがやって来て、各人から注文を訊きはじめる。僕はコーラを、そして大貫恵子はアイス・ティーを注文した。一方で、三品に渡る石堂の注文は二品になってしまった。なんでもソフトクリームの機械が壊れているらしい。
注文も済んだところで、悲しそうな目でウエイトレスを見送る石堂を放っておいて、僕は音楽の事を改めて彼女に尋ねようと思った。彼女がポピュラー好きになった経緯を知りたかったのだ。ピーターとゴードンが僕と石堂のきっかけだった、と前置きしたうえで僕は切り出した。
「しかし、大貫さんはなんでまたエレキ好きになったんです?」
彼女は一瞬だけ小首を傾げて考えた。そして、やがて出た答えは完全無欠のものだった。
「ウチ、去年ビートルズ観に行ったんです。それがキッカケ」
僕は椅子の背もたれにのけぞりかえった。隣の石堂も、ソフトクリームへの追憶なんて忘れてしまったかのように、大きな目を見開いている。必要以上にピーターとゴードンを自慢しなくてよかった、と心から思った。
「それは……切符とるの大変やったでしょ」
口を開いた僕は、それだけ言うのが精いっぱいだった。まさか、あの公演を実際に観に行った人間が目の前にいるとは信じられなかったのだ。
「ええ」
彼女は僕に頷いた。石堂はもう、目だけでなく口もあんぐりとあけて彼女の次の言葉を待っている。
「読売新聞の抽選にも応募したし、東芝レコードとライオンの歯磨きの抽選もよ。……それで読売新聞の二次抽選で七月一日のがようやく当ったの」
大貫恵子は一枚の切符の獲得に狂奔した自分を恥ずかしがってるのか、少しはにかみ、俯いた。
「前から長髪でカッコいいな、と思っていたけど実際に聞いてファンになったの。それからポピュラーファンになったのね」
はにかんだ彼女に対して、開けた口をようやく締め直した石堂が一つ指摘をする。
「あれは……確か平日の公演やったんちゃうか? 大貫さん、学校休んで行ったん?」
「いや、もうそれがネ。パパの知り合いのお医者さんに『風邪』の診断書書いてもらってね、それをママが学校に持って行ったの」
彼女は舌を出して笑った。よく笑う子だな、と僕は思った。
「親にまで協力してもらわなきゃ、『ビートルズ公演の鑑賞禁止』を打ち出した女子校を騙せないわ」
そう言うと大貫恵子は小林にある小中高一貫の女子高の名を挙げ、自分はそこの高校二年生だと打ち明けた。
「なんや、大貫さん僕らと同い年かいな。僕らは上甲東園の県立高校に通ってるんですよ」
相手の年齢がこちらと同じと分かってホッとしたのか、石堂が上機嫌な声をあげる。僕だって同じような声を出したかったが、彼の方が早かった。しかし同い年とまでは思っていなかった。香水までつけているからてっきり年上だとばかり思っていたのだ。
「あら、私の家も上甲東園よ」
大貫恵子の声からも、残っていた硬さが取れてきた。同い年どうしなら、いよいよ三人の話は弾むかもしれない。
「ひゃあ、僕とハタ坊も家が上甲東園なんよ。僕が二丁目でハタ坊は三丁目。ガッコもそう」
石堂が返す。ただ、彼は何か疑問を感じたらしく彼女に問いかけた。
「しかし近所の割には今まで一度も大貫さんにも会うたことがないなぁ」
「ああ、それはね」
その時、三人分の飲み物が先に運ばれてきた。ホットケーキはまだもう少しかかるらしい。
アイス・ティーをストローで一口、口に含みながら大貫恵子は答える。
「私の家、一丁目よ。県立高校からは少し離れているわ。それに小学校から小林の女子校やさかい、二人が歩いて通学してる頃、私は坂を下りて毎日駅まで通ってたってわけ」
「知り合ったのは縁やけど、もうちょい早う知り合えていたかもしれへんなあ」
石堂はジンジャー・エールを一息に飲み干すと、腕を後ろ手に組みながら、どことなく惜しそうに話す。確かに、知り合うのがもう少し早ければ、彼の女の子に対する接し方はそれだけ早く洗練されていたかもしれない。
「本当にねえ」
大貫恵子は石堂に笑い返した。和やかな雰囲気の中、僕はふと、面白くない、と感じた。さっきから会話の主導権を石堂に握られっぱなしなのだ。挽回しなければならない。
「話をビートルズに戻すけど」
僕はコーラのグラスに少し目をやった後、大貫恵子の方に向き直った。
「家の人も協力してくれた言うたけど、家の人はビートルズ観に行くことに何もいわなかったわけ?」
「うーん、何もなかったかなあ」
顎に手をそえ、考える仕草をしながら大貫恵子は答えた。
「パパもママも、『ハシカみたいなもんやからしゃーない』って言うて送り出してくれたわ」
「理解あるんやなあ」
僕や石堂のような男が熱中するのと違い、女の子がロックに興味を持ったりしたら、眉をひそめられて強く叱られるものだとばかり思っていたから、それは意外な回答だった。
「でも女子校だと、周りにロック好きなんてあまりいないのとちゃいます?」
「そうね。あんまりいないわ。エレキを親の仇みたいに思っている教師の目がうるさいし、友達はいるけど余りそんな話できる子はそうねぇ、いないナ」
「やっぱエレキ・ギターいうだけで目の色変える教師はどこにもおるんやねえ」
僕はため息をついた。僕と石堂の高校はそこまで校則は厳しくない。それでも、学校内で軽音楽部の名を借りてロック・バンドの練習をすることは禁じられているし、去年にはテレビ・ショーのバンド・コンテストに出た先輩が停学まではならずとも厳重注意を受けた事件だってあった。女子校なら言わずもがな、だろう。
「だってウチのとこ、ホテルでテーブル・マナーの講習があるような学校よ。みんな、まあクラシックとかシャンソン、そうでなければ荒木一郎あたりよ。表だって話題にするのは」
そう言うと、大貫恵子はアイス・ティーを飲んだ。ストローで氷をかき混ぜる音がかすかに響いた。
「じゃあ、大貫さんは音楽と女学校の異端児やな」
僕は笑った。石堂だけじゃなくて、僕も彼女に冗談を言って笑わせてみたかった。
「そういうことになるのかなあ」
予想に反して大貫恵子は笑わなかった。その代わりに、少しばかり天井を見上げた後で堰を切ったように喋り出した。女の子が熱っぽくエレキを語ることがおかしい、とこちらが思ったと受け取ったのだろうか。
「でも、ギターは大抵男の子が弾くけど、それを観に来たり聴いたりするのって女の子よ。現にビートルズの時だって、会場の半分は女の子やったわ。だからみんな口に出さないだけで、結構隠れてラジオなんか聴いているんじゃないかなあ」
「そりゃ、確かにそうやなあ」
「だから、今は表で聴いたら不良扱いかもしれないけど、ちょっとしたらみんな表で聴くようになるわよ。だって、ロックのビートってなんか、こうイイじゃない? 若い人間の『言葉』みたいじゃない? だって、もう戦争から二十年も経つのよ。女だから、みたいにおしとやかにするだけやなくて、こう、リズムにのって踊ったって咎められないような世の中に今になるわ」
「その通りやな大貫さん、ハタ坊も別に他意があっての言葉やないんよ。ただ、お嬢様学校とロックとの取り合わせが何となくおかしかったんやろ。なぁハタ坊?」
石堂が横から助け船をだす。まったく、竹馬の友っていうのはありがたいものだ。こちらが言いたかった真意を代弁してくれた。
「なんや波多野さん、そういうことやったん?」
「そうそう」
僕は慌てて言葉を続ける。
「日中はこう、ベートーベンなんかしたり顔で話して、家に帰ったらビートルズの『ベートーベンをぶっとばせ』を聴いてる大貫さんを想像したら何やおかしゅうてな」
ようやく大貫恵子は笑った。しかし、石堂の救いの手がなかったらどうなっていたことか。僕は、少しでも石堂に嫉妬したことを軽く後悔した。何も知らない石堂は、こちらに続いて冗談を繰り広げる。
「そういやベートーベンのオッサンて、髪形だけならローリング・ストーンズあたりでベース弾いてそうやな」
僕たち三人は、ようやく笑いあった。場を和ませることに関しては、僕は石堂の足元にも及ばないな、と心の奥で思いながら、僕も気持ちよく笑った。
紺の制服に白いエプロンのウエイトレスが、石堂のホットケーキを運んでくるのが視界に入った。
七
それからどれくらい花の道の喫茶店で三人で話をしただろうか。学校のこと、受験のこと、そして何よりも音楽のこと。
大貫恵子はビートルズ狂だった。LPも大半は揃えている、と胸を張った。僕と石堂は雑多に色んなバンドを聴いていたが、それぞれローリング・ストーンズとキンクスについて熱っぽく話をした。
三人で甲東園駅から上甲東園まで続く長い坂を登りきった頃には、そろそろ日は傾こうとしていた。二丁目と三丁目に帰る男二人と、一丁目に帰る大貫恵子の分かれ道はこの、坂の上にある僕らの高校の正門前だった。
「いやー、今日はオモロかったわ」
石堂が満足そうに伸びをした。
「人生ではじめて酔っ払いを撃退したし、大貫さんと音楽の話も出来たし」
「そうやなあ」
僕も彼に続いて言葉を繰り出す。
「近所にこんなにポピュラー好きな女の子おるとは思うてなかったわ」
「それはコッチのセリフや」
大貫恵子も笑った。西日の中に浮かび上がる、彼女の整った鼻の影が美しかった。
「二人はエレキやってるいうし、また今度はそこら辺の話もしたいわ」
「と、いうと?」
石堂が尋ね返す。
「二人の電話番号教えてよ。また、連絡取り合ってレコード買いに行ったり、それを聴いたりしようよ」
「ええのんか?」
石堂が目を丸くして聞き返す。
「ええのって、それしか方法がないじゃない。ウチやなくて二人がこちらに電話かけて来たらパパがビックリするわ。『ケイコ、お前ボーイフレンドおるんか?』ってね」
「それもそうやな」
僕らは今日一日の締め括に笑いあって、そしてそれぞれの家路についた。
八
その晩、夕飯の後、結局僕らはギターの練習をしなかった。代わりに、僕の部屋のステレオで、石堂が買ったばかりのバッキンガムズの『ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・グッド』を繰り返し繰り返し聴いた。大貫恵子が買う後押しをしてくれた一曲だ。座布団に頭をのせ、寝ころびながら僕は歌詞カードを宙にかざして眺めた。
サビの歌詞の大意を日本語に訳してもなんということはない。ひたすらに上機嫌であるとくどいくらいに繰り返す、スロー・テンポなエレキとオルガンが主体となった穏やかな曲にピッタリの感じだった。
「オレ、女の子に番号訊かれたのはじめてや」
レコードの針が上がった後、深刻な顔をして石堂が呟いた。「せやな」と僕は相槌をうった。
「デートもしたこともないのに、そんなんすっ飛ばしていきなり番号やもんなあ」
「俺、今日は無我夢中やったけど、次また大貫さんに会ったとしても無我夢中なんやろなあ」
石堂は寝ころんでいる僕の横に、同じようにして寝そべった。
「ええやないの、イシ。毎回無我夢中で。昔みたいに『速球』をビュンビュン投げ込んだらええのや」
「そうなんかなあ」
不思議そうな声を出しながら、彼は僕の方にからだをもたれ、一緒に歌詞カードを覗き込んだ。
「ハタ坊、俺もさっき歌詞読んだで。エエよな」
「本当にな、イシ」
僕らはレコードを再びかけようとはなかなかしなかった。僕は歌詞カードの中の世界の余韻にひたっていたかったし、きっと彼もそうだったのだろう。
昭和四十二年の初夏のことだった。僕と石堂一哉はそんな風にして大貫恵子と知り合った。
り合った。