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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
39/89

第38回~昭和45年6月5日「サニー」(中)


 店内の音楽がイギリスのディープ・パープルからアメリカのドアーズに移り変わっても、二階席の会話に進展はなかった。秋田の人間が問うた言葉を兵庫の人間がもてあましていたからだ。『ハロー・アイ・ラブ・ユー』、しかしそんなに物事は単純じゃないだろう。


「そりゃまた……しかし、ずいぶんにありがたいお話だね」


 辛うじてそれだけ話すと、僕は煙でごまかしながらため息をついた。戸惑いは隠せなかった。距離を置いて話をしているつもりが、いつの間にか相手の掌中に引きずり込まれている感覚を覚え始めていたのだ。クライスメイトとして出会っては一年ちょっと、でもまともに話したのはこの数日のことにすぎない男の、「刎頸の友」の申し出をすんなりと受け入れるにはもっと、きっかけが必要な気がする。

 言葉の端々に軽い嫌悪感をまぶしていてもそれを意に介さず、なお、ぐいぐいと来る男は多分、外見どおりに変なヤツだ。ただ、おそらくだが悪意はないだろう。

 だから、困るのだ。


「そうでもないと思うね」


 にこやかなままの中田はウイスキーを飲み干すと、三杯目を注文した。軽やかに呑んでいるつもりかもしれない彼の眼は、その意図とは反してややトロリとした目つきになってくる。


「なあ波多野。僕らはさみしい人間同士だ。手を取り合っていこうじゃないの」


「傷の舐めあいならいいよ。まっぴらだ」


 嘔吐して泣きじゃくる石堂の姿がよぎった。傷を舐めあうとは、多分あの日のような結果にしか行き着かないのだ。


「そんなことを求めたりはしていない」


 彼は腕組みをすると否定の言を発した。が、程なくしてその恰好を崩すと、また、我が『わかば』を抜き取った。


「傷を舐めあうというのはその実、傷の原因を正当化するだけの作業だな、うん。まあ、学生運動をまだしている連中よりはマシだがね……。あいつらは、傷を負ったことすら認めたくなくてそろそろ引き返せなくなっている」


 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの『バッド・ムーン・ライジング』が軽快にはじまる。明るい曲調とは裏腹に、不気味な歌詞をもつ曲だ。

 カントリー調というのだろうか、温かみのあるギターのなかで僕はグラスを傾けた。そして、中田の顔を見つめる。


「まあ安保の自動更新で、大抵の連中は雲散霧消するだろ」


「だといいがね」


 中田はあいまいな同意をし、そして階段の方向を見つめた。三杯目が気になるらしい。その姿を眺めると、金に余裕があってアルバイトが控えていなきゃこちらも杯を重ねたいものだ、という気分がする。違和感は消えていない。しかし、この目の前の男と話し込んでみたい欲も出てきたような気がする。

 術中にはまったのかもしれない。


「でも何も創造せず、ただ破壊にまかせていた連中がシレっと日常に戻って来るのかと思うとやるせないなあ」


 残された僅かばかりのアルコールの分量を確認すると、僕は言った。話を続けたいが、これっきりの酔いでもつのかは心許なかった。

 

「あの手合いの話はそこまでにしておこう。今の俺にも……波多野にも縁のない世界だ」


 運ばれてきた新たなグラスを手元に手繰り寄せながら、彼はそうとだけ言った。


「知り合いや親友がそっちに行ってしまった人間など当世、珍しくもないよ……お前や俺みたいに」


 中田はグラスに口をつけた。大きめにカットされた氷が騒音の中で心地よく存在感をうち鳴らした。吾妻多英は石堂が今していることもこの男に話したのだろうか。


「俺の高校の時の親友なんて……何をトチ狂ったかねえ……」


 彼はそう言うとまつ毛を伏せ、今もっとも過激な集団として活動しているあるセクトの名前を挙げた。


「お互いに六大学に進学するってんで一緒の汽車で上京したんだ。でも、今は連絡先も知らねえ」


 しばらくの間、彼は僕と目をあわせようとしなかった。うつむいたままの頭は九十度曲がると、昼下がりの新宿の雑踏へと向けられる。僕も同じようにすると、初夏の何でもない雑踏が広がっていた。信号が変わる度に明るい色の服を着た娘や、主婦、重々しい和服の婦人が行き交う変哲のない光景だ。

 でも、中田にとっては違うのかもしれない。こちらに顔を向けない彼の肩が、突如小刻みに震え出したのだ。緩やかな振動に身をまかせた彼は、そのままの格好でテーブルに右手のみをさまよわせはじめた。手は緩慢に虚空をおそるおそる上下左右に動く。


「ほれよ」


 僕は全てを察した。そして、彼のさまよえる右手におしぼりを押し付けた。はじめてありったけの感情で彼にシンパシーを覚えたのだ。

 彼が異様にこちらに関心を抱く理由が、わかったのだ。


 ()()()()()()()


 程なくして中田は顔を拭いて足を組みなおすと、体勢を元どおりにした。アルコールのせいではない赤みが目元にあったが、僕は触れないことにした。そして、おしぼりに関する礼もなかった。それでいいのだ。 


()()()……お前とターが上手いこといく様を見られるなら、俺は特等席がいいんだ」


 無理なはにかみを作っているであろう男の言葉だった。


「しょうもない偽善者だなあ、中田」


 言った科白には後悔しかなかった。本音ではないはずの手酷い言葉だったのだ。

 なのに口をついてしまった理由は多分、甘えだろう。彼になら、長いつきあいの友人に試してみてナンボのドギツイ冗談を言っても許されるだろうという錯覚をおこしてしまっていたに違いない。

 僕は目を瞑った。何にせよ言い訳は言い訳だ。


 意に反して彼は怒らなかった。優しげな声が、おしぼりで顔の赤みを打ち消したあとに出てくる。


「まあな、波多野。その通りで……」


 中田はさらに何かを言いかけようとしたが、次の曲がかかることを知らせる店内放送がそれを遮る。彼はとぼけた様子でお手上げのポーズをとった。


”お次のリクは懐かしのデイブ・クラーク・ファイブの新譜B面『恋をあなたに』だぁ! フロアの坊ちゃん嬢ちゃん踊れぇ!”


 深夜放送のディスク・ジョッキーの物真似のような軽薄な口調と共に、いささか古めかしいビートが流れ始めた。ふと、フロアに視線を落としたがこの曲で踊ろうとする者は誰もいない。箸休めがわりなのだろうか。

 その昔、ビートルズとローリング・ストーンズと並んでデイブ・クラーク・ファイブがイギリス三大バンドだったことを思い出せば惨い光景だった。そういえば初めて会った時、おケイが手にしていたLPのグループでもあったっけ。

 しかし、そんな僕も階下で踊る連中同様に『恋をあなたに』を利用することに決めた。今までのグループよりは穏やかな曲調は、声のボリュームをあげなくとも会話をし易くしてくれるに違いないのだ。

 だが、最初の利用者は僕ではなく中田だった。


「ねえ波多野。お前、失恋にまつわる事象と肉親の死以外で今までで何が悲しかった? そこをお互いが打ち明けようや」


 周りの雰囲気からこれが大音量の曲でないらしいことを確認した中田は身を乗り出すと、言いかけていたであろう言葉の続きを発した。


「それは……必要なことなのか」


 僕は困惑を覚えた。彼が言う『さみしい者同士が手をとりあう』ための儀式なら、直近の出来事をいつか吾妻多英に話したようにとうとうと述べることがそれにあたるとばかり思っていたからだ。


「いいから、言ってみな」


 彼の表情も口調もいつの間にか真面目な、重いものに変わっていた。適当な誤魔化しを許さない、有無を言わせないものがあった。

 観念するしかなかった。


「……ケネディ大統領の暗殺だよ」


 そうとだけ言うと僕は目を瞑り、背もたれに思い切りよく身体をあずけた。



 あの梅田駅の光景は未だに目に焼きつくようにのこっている。

 ……僕が中学校に上がった年の晩秋の朝だった。祝日のその日、小遣いをやりくりした僕は昼から野球の練習がある石堂を連れて『バイバイ・バーディー』を観に行った。『バイバイ・バーディー』は確かロカビリーを使ったことが評判を呼んでいたミュージカルで、「不良のロカビリーなんか」と渋る彼をなだめすかして大阪に出向いたのだ。

 

 改札を出ると喧騒があった。先を争って号外を求める人々の群れで身動きが出来なかったのだ。僕と石堂は、これだけの混乱をもたらす情報とはなんだろうと顔を見あわせたが、中学生の体力ではその中心にいる配布する新聞社員の方へと割って入ることは出来なかった。もっとも、そんな必要はなかった。


「ケネディ大統領、暗殺される」


 と書かれた大見出しの記事が、ターミナルの柱という柱に貼り付けられていたのだから。


 ケネディ大統領の政策など分かったものではなかった。でも、彼はその若さでそこにいるという事実だけで、未来はひたすらに明るいと思わせてくれる人間だった。そんな存在が銃弾一発でこの世から消え去ったのだ。


 僕は腑抜けになった。世界にはどうにもならないものがあるとわかってもなお、そうだった。次の年の春にビートルズの曲を街で耳にし、デイブ・クラーク・ファイブがラジオで流れるまでそんな状態だったのだ。僕にとってロックとは音楽の強烈さに興奮するためのものだけではなかった。ケネディの空白を埋め、「世の中は明るくなる」と思うための道具でもあった。


 ……でも、それは暗示だったかもしれない。ロックに聞き惚れてもビートルズはいなくなった。デイブ・クラーク一行も色褪せた。キング牧師だって、大統領の弟だったロバート・ケネディだって同じように暗殺されてしまった。それに……いや、もう、よそう。



 中田は、背もたれに深々と身をうずめたままで目を瞑るこちらにたいして何も言わなかった。だから彼が口を開けたのは、曲が終わってからのことだった。


「ケネディ大統領か……懐かしいな」


 彼はまた、人のタバコに火を点けた。


「しかし……それに比べたら、俺の悲しみなんて大したもんじゃないな……」


「僕は打ち明けたんや。お前が言いだしたことやし、それに人のタバコ吸うだけ吸ったんだから、もったいぶらずに言えや」


 そう促すと中田は「確かに」と呟いた。そして次の曲を紹介する店員のアナウンスに続いて、彼のエピソードを話しはじめた。


「俺の小学生時分の話だ……」


 悲しいことを打ち明けるにしては口調は明るかった。


「知ってるかもしれんが俺は秋田の、青森との県境くらいの鉱山町の生まれでね。そこで学校の終わりにはクラスメイトと野球をやっていたのよ。西鉄が強かった頃だわ。で、ちょうど生産高が不安定な時期で、鉱山勤めの親父を持つ家の連中はみんな貧乏だった。だからバットは食堂のケンタのを毎回使って、軟球は薬局のセガレの俺か灯油店のジロウが差し出すのが決まりだった」


「グローブはどうしたんだ?」


「そりゃ、みんな親に布きれ何枚も重ねてもらったのを使っていたさ」


 分かりきったことを言うな、とばかりに彼は呆れ声を出す。入学祝にこぞってグローブを買ってもらえた僕の周りとはまた、違う世界の話らしい。


「野球の時間は町に終業のサイレンが鳴るあたりまで、というのが俺らの約束だった。夕餉やら、帰ってくる父親の為の用事があるからな。でもその日はついついゲームが長引いた。そこを銅山(やま)から降りてきた大倉さんっていう鉱山チームの四番打者が通りかかったのさ」


 そこまで言うと中田は、折しも流れ始めた『ホンキー・トンク・ウィメン』に聞き入り始める。


「先を言わんかい。ローリング・ストーンズは後回しじゃ」


「まあ、そうせかすな波多野……。まだ、テレビ電波が届かない頃でな、中西も豊田も長嶋も想像上の人物でしかなかった。だから俺らからしたら鉱山チームの四番なんて、直にみられる大スターだったのよ。……で、ケンタがバットをもって走り寄った。みんな試合を中断してヤツに続いたよ。どれだけ遠くまで大倉さんがボールをかっ飛ばすか、見たかったんだな」


「なんじゃ、それ」


 間延びしたドラムスの音の中で、今度は僕が呆れ声を出した。


「お前の話そのままやと、その大倉さんたらいう人が打ったら、ピッチャー返しでも喰らってベソかいたくらいの話にしかならねえぞ」


「だから結末を急ぐな波多野。それに俺はピッチャーじゃなくてセカンド守ってた。で、付き合ってくれた大倉さんはピッチャーやってたクニ坊の放った球をひっぱたいた……凄いスイングだったんだろな、ボールは真っ二つに割れたよ」


 そこまで言うと中田は長髪に手グシを一ついれ、フウと大きく息を吐いた。どうでもいい思い出をのんびり話していたようにしか思えなかった顔に、ようやく暗さが出てくる。


「……周りの連中は『流石、怪力の四番だ』とか何とか興奮して口々に語りあっていたけど、俺には絶望しかなかったよ。下手だったから『ボールを持っている』ことだけでメンバーに入ってたからな。そのボールがなくなったらもう明日からはジロウの球のみで足りる。……帰り道でもうお呼びじゃなくなると思った途端ワンワン泣いたよ」


「ハハハハッ! また大した『悲劇』だなあ! ええ、中田?」


「笑うなよ……あん時は本当に悲しかったんだぜ」


 中田は痩せこけた頬を無理に膨らませて不満の意を表明した。


「悪い悪い……で、それっきり野球には混ぜてもらえなかったわけ?」


「いや、その日の晩に泣きながら晩飯食っていたら大倉さんがやって来てな。……真新しいボールを二球もくれたよ」


 彼の表情はまた、明るくなった。十年も前であろう時に味わった悲喜こもごもを、この場で再現するとばかりに髭面の顔は安定をみせない。


「ただのいい話じゃねえか……」


 僕はウイスキーを飲み干した。アルバイトに出向くには、一杯とはいえ酒臭さをタバコとコーヒーで消しておく必要があるかもしれない。


「まあな。でも、『悲しかった』記憶には違いないんよ」


 ミック・ジャガーの歌声がフェイド・アウトしていく。中田は座席にもたれたまま両の手のひらで水割りのグラスを温めるようにもっていたが、すぐに曲間の静寂の有効活用と言わんばかりにこちらを見据えた。


「……波多野、こんなエピソードの披露しあいにも、何か意味があるとは思わないか?」


「知るかよ」


 僕はテーブルの下へと組んでいた足を投げ出した。先攻はケネディ暗殺、後攻がボールの破裂、それだけの話じゃないか。恋がお題でない以上、おケイも吾妻多英も出てきやしない、少年時代の想い出の話し合いにしかならない。


「本当に気づかないのか?」


「いいからさっさと言え。中田、お前さっきから前置きが長すぎるぞ」


 うんざりとした僕は彼を急かした。すると、中田は少し照れくさそうにも見える表情でグラスの中の液体に口をつけると、この不思議なお題の目的を明らかにした。


「『悲しい記憶』は、こうやって友達に話すことで遠い想い出になっていくってことよ。想い出って悲しくとも人に話せなくない代物だろ? だから失恋だってその例に漏れないはずなんだ」


 ビートルズの『カム・トゥゲザー』が次の曲だった。歌っているのはジョン・レノンだったか。


「なあ波多野、お前はこの数年を大統領の暗殺みたいにふり返る瞬間、乗り越えられるんだよ。()()()()()()()()()()()


 投げやりな歌声に包まれた中田は、「1970年にもなってケネディのショックを引きずってるわけじゃなかろう?」と言うとまた笑った。 

 確かにその通りだった。



「トイレに行く」といって中田は鞄を席に置いたまま階段を降りて行った。フロアを覗くと、酔っぱらっているのか、踊っている連中のど真ん中を便所に向かって悠然と横切っていくその姿が見える。

 詰る声があちこちから聞こえてくるが、彼は「ま、ま、お平らにお平らに!」とジョン・レノンに負けない大声で叫ぶと、両手をもってあたりを制しながらモーセのように歩いて行く。やはり、まるっきりの酔っ払いだ。昼間からたて続けに水割りを飲めば言葉は誤魔化せても、歩き方はあんなものだろう。

 僕は時計の短針が四時前にさしかかったのを確認すると、酔い覚ましのホットコーヒーを注文した。四時半にはこの店を出なければいけない。


 僕は、彼に吸われまくって残りが乏しくなった『わかば』を一本口に咥えた。中田の説いた「悲しみ云々」を、酔っ払いのたわ言として切り捨てるかどうかは自分次第だった。早速に自らを「友達」とまで言い切った男が言う「悲しい記憶を打ち明ける」ことが、以前に吾妻多英相手に話したことや、石堂との傷の舐めあいと違うところを探してみた方がいいのだろうか。


 フロアから女の子の軽い悲鳴があがった。ダンスを再開した途端、用を済ませた中田がまたもや旧約聖書の登場人物のように場内の中央を突進してきたのだ。二階席からその一部始終を呆れて見ていたこちらの視線に彼は気づくと大きく右手を挙げた。


「いよぉ!」


 秋田県人の大声がビートルズに勝った瞬間だった。しばらく迷ったが、僕も片手を軽くふった。たまにはナンセンスな蛮勇を褒めることだって悪くない。

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