第37回~昭和45年6月5日「サニー」(前)
「一度こうして二人で話したかったんよ」
昼下がりの新宿伊勢丹に程近いロック喫茶、通りを見下ろせる二階窓側の席に座ると中田一誠は笑った。
「ふん……」
僕は観念して買ったばかりの『わかば』の封を開けると、真新しい一本を口に咥えた。すると間をおかずに同じ箱から中田もタバコを抜き取る。手癖の悪いヤツだ。
「ゴメンなさいね。タバコ切らしちゃっていて」
「レジカウンターで売っとるよ。『ケント』以外なら」
僕は階段の方を指差した。
「それじゃあ駄目よ」
中田は首を振った。
「ひと箱のタバコで芽生える友情だってあるかもしれないじゃないの」
「けっ」
怒る以前に呆れてしまった僕は、喫茶店のマッチで火を点けると通りに目をやった。
気怠い午後だ。吾妻多英の姿が見えず、その代わりに中田みたいな男に学校からつきまとわれた日は特に。
午後の授業が休校となったのでアルバイトの前にロック喫茶で時間を潰そうと思った僕は、大学を出てすぐにその存在に気づいた。気づかない方がおかしいのだ。駅までの路地を、忍者のように電柱やら商店の柱やらに隠れながらで距離をとりつつこちらに視線を送る肩までの長髪、髭面、花柄シャツの男が後ろをつけていたのだから。
でも、分かっていたのに僕は追い払わなかった。鬱陶しく思いつつも、話しかけられるのを期待していたのかもしれない。
長い尾行を終え、彼が「話がある」と言って僕の肩をつかんだのは、明大前のホームでも新宿の改札口でもなく、こちらの目当ての喫茶店の入口でだった。
「話ってなんだよ」
僕は怒鳴った。別にそこまでの怒りがあったわけではない。客のリクエストに応じて外国のロックを流すこの店で、レッド・ツェッペリンの『コミュニケイション・ブレイクダウン』が四方のスピーカーから流れ始めたのだ。ニュー・ロックの中でも特にやかましいことで有名なこのバンドがかかったとなると、こうでもしなければ会話が伝わらない。
「何もないわ。ただ、アンタとは何でもいいから話してみたいと思ってね」
「はあっ? 俺は、お前と話すことなんて大してないよ」
「波多野、そういう気のない返事をしなさんな。大してってことは少しはあるみたいだしね。それに……興味をもたれることは興味をもたれないことよりも素敵なのよ」
タバコの煙で目を細めた中田は、少し口元を緩めて吹き抜けに身を乗りだした。彼の視線の先には階下のダンスフロアで踊り狂う化粧の濃いミニスカートの女がいる。昼の三時から夜の出で立ちをしてても実際は短大生だったりするのだろう。しかし、その相手をするアフロ・ヘアの白人が何者かとなると分からない。以前はバンドが実演するジャズ喫茶だったここも、グループ・サウンドの下火のために様変わりした瞬間、客層まで変わるらしい。
中田はしばらくの間、上手いとも下手ともつかないゴーゴーを眺めていたが、やがて曲がフェイドアウトする頃になってこちらに身体を戻した。
「まあ、『何でも』ではなかったわね……」
「用件があるならさっさと言えよ」
僕は発言を促した。「騒音こそ美徳」といった趣のこの店は、決して会話に適した場所ではないのだ。店員が新しいレコードに針を落とすまでの僅かな時間のみがそれである。
「波多野。アンタ、ターのことどう思ってるの? ……あれだけの娘が、アンタに惚れているというのに」
下目使いに彼は言った。ザ・バンドの『ザ・ウェイト』が流れはじめる。
僕は黙った。音が言葉の邪魔をするからではなかった。
気づいているからだ。それどころではない、僕自身が彼女に惹かれはじめているのだ。
だが、それを認めたくはない。認めるということは、この数年が全て終わってしまったことを自ら認めることになるのだ。
それに、好意を抱くことはあっても、抱かれたことがない僕は何もわかったものじゃない。
今は、手紙だけが日々の糧なのだ。
「いい友達だと思ってるよ」
ザ・バンドののんびりとしたコーラスの合間をついて僕は答えた。中田はこちらを大きくのぞきこんだ。が、やがて新たなタバコを断りもなく掴み取ると呟いた。
「波多野……アンタも不誠実な男ねえ」
「なんとでもほざけばいい。今はそういうことを考える余裕はねえ」
こちらの言葉を聞くや否や、中田は騒音の中で咥えタバコのままにソファにもたれこんだ。時代おくれのサイケ調に彩られた天井を睨んでいた彼は、やがてそのままの格好で喋りはじめる。
「考えることが出来る余裕はいつになるの? でも、その時になればもう『今』なんて取り戻せない『過去』の一つでしかないわあ。アンタのこの数年と同じように」
僕はそのだらしない格好を眺めていた。この男を求めはしているかもしれない。しかし、おおかた吾妻多英から~口の軽い子だ~事情を聞いたらしいこのオトコオンナみたいな奇妙な秋田人に、自らの逡巡を一気に打ち明ける必要などないはずなのだ。
ボブ・ディランの弟子筋だったはずのザ・バンドが曲の〆をコーラスで飾ろうとしている。
「中田。お前、何が言いたんや」
「そうねえ……」
中田は、天井を眺めるだけのアゴを突き出した格好のままで言葉を連ねる。
「アタシが恋焦がれたターが惚れた男に、覚悟くらい持ってほしいってだけよ。アタシ」
まだ髪も生え揃わないような高校生が、一階のフロアで踊り狂う連中を縫うようにして店員にリクエストカードを渡そうとしている光景に僕は視線を移した。いずれは天井なりどこぞなりを見ているだけの男と目をあわせなければいけないにしても、そうしたのだ。とにもかくにも僕は、虚空を見つめる無精髭の持ち主に何かを話して誤魔化さなければいけない。言葉が必要だった。
いや。誤魔化す必要はない。僕は、貝のように黙りたいだけだ。話す義理などない。
眼前のオトコオンナの唇が動いた。
「じれったいわ」
中田は起き上った。
「アタシじゃなく、こんな煮え切らないクソみたいな男にターが心寄せるなんてホント、世も末!」
ファッションが世も末な男の言葉だった。
「ま、お前の格好と話し方で『オーケイ』いう女の子はそんなにいないだろうな」
中田が吾妻多英に惚れこんでいるらしいことは知っているが、僕はこの男をぞんざいに扱った。ジーンズ穿きのソバカスの多い女の子が注文した品を盆に載せて現れる。
僕はアイスコーヒーにストローを突き刺したが、秋田男は昼から水割りを飲み始めた。話がしたいという割には、酔いがなければ話術の披露も無理らしい。
「波多野、まさか俺が素面で女言葉を使ってると思ってるんじゃねえだろうな?」
グラスに浮き上がった水滴を指でなぞっていた男の口調が変わった。
「素面じゃ、ないだろお前」僕は苦笑した。
「酒の話なんかじゃない。だいたい東北の人間は一杯も呑んでないのに我を失わんよ」
中田はグラスを煽った。言葉とは裏腹な、すわった目つきだった。
「俺はもう、ターには三度もふられているよ。だからせめて、あの子の記憶に強烈に焼きつき、墓場まで忘れられない男になりてえんだ」
僕は店員を呼んだ。唐突な打ち明け話に対する行動の最善は、中田にもう一杯飲ませて喋り倒させるにつきる。
水割り二つのオーダーを受け付けた女の子が立ち去ると、今をときめくジミ・ヘンドリクスの『ファイア』がかかった。あの高校生のリクエストだろう。
「好きな女の記憶にきっと、こびりついてやる」
中田は視線を僕から逸らすと、呟くように言った。偏執的な言いぐさをためらっているのだろうか。
僕はアイスコーヒーを少し口に含んだ。彼の喋り方が変わったことに、驚きはなかった。入学時の中田が、比較的普通の格好と東北訛りでしゃべっていた姿を思い出したのだ。
「後ろ向きだの」
「波多野に言われたくはないけど……まあ、そうだろうね」
中田は少しだけ虚ろな目になると、また『わかば』を抜き出した。そして、真新しいタバコを『ファイア』の激しいドラムスにあわせるようにテーブルの盤面にトントンとたたきつけ、咥えた。
「いずれは秋田に戻って、親父の薬局をつがにゃならん。断られた時、ターに言われたよ。『喜多方よりもさらに北で過ごす一生なんてゾッとするわ』ってな」
「演劇学科の人間が薬の調合出来るのかよ?」
僕は至極当然な疑問を発した。マッチの擦れる音とともに、答えが煙の向こうからやってくる。
「卒業後、薬学部に入り直すことになっている」
中田は寂しそうに笑った。
「どうしても文学部…………喜劇映画を学びたいから無理言って四年の時間をもらったんよ」
「理解あるお家やないか」
可もなく不可もないであろう返事をする。
僕は、なんとなくだが、中田という男に不快感を覚え始めた。彼は吾妻多英とは違う。他人の領分に土足で入り込むことが、そのままの意味しか持たない男にみえてきたのだ。
この男は、自分の持ち味であろうピエロみたいなキャラクターすらいきなりかなぐり捨ててまで、市をひろげては僕の世界に入り込もうとする手合いじゃないだろうか。吾妻多英に惚れていた。そして、彼女が好意を抱くのが僕だとわかったから情報を得たい、という感情があるのなら理解できなくもない。しかし、既に彼は諦めているのだ。
「何ぬかす」
はかない笑みが中田から消え、代わりに刺々しい目が僕をみつめた。
「死ぬまで山奥の鉱山街で薬剤師やらなきゃいけないんだぜ?」
彼は残り少ないタバコを名残惜しそうに灰皿に捨てた。
「今は栄とるが……もう、銅も鉱脈つきかけてるらしいしな」
「無視せえ無視を! 薬剤師にならんでも、お前なりの人生が送れるやろ」
僕はうんざりとした気分だった。悪い直観があたり、中田がクドクドと身の上を語り出したからだ。でも、適当な反応くらいはしなければならない。
そして、適当さは意外とバレる。
「ふざけるな……適当な言い回しはやめな波多野」
鋭い視線のままで彼は僕の言葉を否定した。
「町が貧乏になろうと、町で唯一つの薬局を守らなきゃいかんのよ……。ターは、この髪と髭と服だけじゃなくて、そんな人生も嫌なんだとさ」
中田の指が顎鬚のなかをいとおしそうに何度も往復する。
「だからせめて、文学部にいる間くらいは『おつきのピエロ』になりたいんだな、俺」
運ばれてきた二杯目の水割りを彼はそっとなめた。
「道化はお嬢さんの恋を見守る資格があると思わないか? 波多野」
「まるで『無法松』だな、お前は」
僕もウイスキーを手に取った。シンパシーでも感じたのか、中田への不快感は薄らいでいた。
でも、違和感を全てぬぐうことは出来ない。
「ただお前は……綺麗にすぎる。感情を殺して綺麗さに殉じる演技なんて出来やしない」
「出来るね。試みる価値のある話だと信じてるから、こんな青臭いにもほどがある話をしたのよ」
「無理だね」
僕はウイスキーを煽った。そして、強い度数のアルコールの衝撃が頭に響く快感を確認しながら言った。
「僕は出来なかったからね」
店内の音楽はいつしか、ジミ・ヘンドリクスからディープ・パープルに変わっていた。
「そう」
彼はほんの少し、ウイスキーを続けた。
「じゃあさしずめ、『元』役者と『今』役者の楽屋だな、ここは」
「そういうことになるかね」
新宿の片隅はけたたましいオルガン演奏の中だった。そして、話し相手はディープ・パープルのオルガンの鍵盤のようにケタケタと笑声をつくりだした。
「波多野」
彼は上体をテーブルに乗り出した。長い髪に包まれた今日一番の笑顔が盤面のグラスや灰皿をなでつけながらでこちらに迫ってくる。
「俺らはお互いが墓場に入るまでずっと友達になろう」
スピーカーから届けられる流麗なオルガンの喧騒の中で三時半をさした時計は、唐突な申し出からアルバイトを理由に逃げ出すことを許してはくれなさそうだった。




