第35回~昭和43年8月14日「君はいずこへ」(4)
十二
迎え盆をナイターですっぽかしての遅すぎる帰宅を両親と兄に叱責されてから床に入った僕は、そのままでぼんやりと昼を迎えた。長く続く寝床は、予備校が今日は休みだからということのみが理由なのではない。昨日の石堂の笑顔と、矢野の劇的な逆転ホームランを布団の中で反芻していたら自然とそうなってしまっているのだ。
昨日のナンバ球場は、「お前には消し炭すら渡さん」という石堂の言葉が全てをさらってしまったように思えた数時間だったが、十年選手の大アーチがそれを打ち消してくれた。と、なると布団から起き上がれない理由など明白になってしまう。要は、僕は大貫恵子というただ一点において、不安定な石堂と正面きって勝負するという近い将来を確認し、結論を考えあぐねているうちに布団を抜け出せなくなっていた。
「あかん、ええ加減暑いわ」
だが、昼の気温がそんな時間を遂に途切れさせる。いくら扇風機がまわっているとはいえ、盛夏の天気は掛け布団をまとったままの格好を許してはくれない。仕方がない、僕はようやくで勝算に思いを馳せることを取りやめて、服を着替え顔を洗い、家族がいるであろう食堂へと足を向けた。母が昼の支度をしていた。隣の居間からはテレビの音が漏れてくる。どうやら父が高校野球を観ているらしい。が、兄の姿は見あたらない。
「兄さんは?」
僕は菜箸を持ってガス台の鍋を見つめている母に尋ねた。こちらの声に母は少しだけこちらに視線を寄せたが、やがて鍋の中身へと視線を戻すと、こちらに背中を向けたままで返事をする。
「啓一郎ならちょっと前にゴルフの打ちっぱなしにいったわ」
「そうですか」
食堂の窓から庭先のガレージを覗くと、確かにセドリックはなかった。
「まったくウチの息子たちときたら……。せっかくお盆で家族揃った思うた途端に、迎え盆をナイター見物でつぶしたり朝からゴルフの練習に行ったり、御先祖さんが呆れてはるわ」
小言を言う母はこちらを振り向かない。家を出るということは、家族の繋がりが薄らいでいく予兆であることに戦前育ちの母はまだ気づいていないようだ。僕はその後ろ姿に少しばかり視線をやったが、居間へ身体を移すことにした。
「ああ啓次郎か」
「お早うございます」
「お早うて、お前もうそんな時間やないがな」
浴衣姿の父は冷えた麦茶のグラスを片手に、クーラーの効いた空間でソファに座りながらでぼんやりとブラウン管を眺めていたが、時間のあわない挨拶をしたこちらを軽くたしなめた。
「ええ……まあ。野球、どこの試合ですかいな?」
「三重高と延岡商や。……どうやら三重が勝ちそうやなあ」
「そうですか……」
僕は一旦食堂に戻りグラスを用意し、麦茶を入れて父の横でしばらくテレビを見ていた。だが、せっかくの休日にしたいことはそのようなことではなかった。
どこかをさ迷わなきゃいけないような気分が湧きあがっているのだ。かつてのような怯えではく、むしろ興奮がそうさせているのだろう。受験も大事だが、石堂という大きな存在をいかにかわすかの方法を探し出すことも同じくらいに重要なのだ。
もちろん、勝つ方法などは布団から這い出しただけで分かるものではない。きっと一朝一夕に舞い降りるようなものではないのだ。でも、漫然と家でテレビを眺めているうちに閃くようなことは絶対にないだろう。僕はどこでもいいから一人だけの空間に身を置いて、矢野のホームランから続く熱狂の根源をつきつめきたくなっていた。
僕は二階へと駆け上がった。そして財布を掴むと、もう一度父のいる居間へと舞い戻った。
「ちょっと父さん、少し出かけてきますわ」
「出かけるてお前、どこ行くんや?」
おだやかだが、どこか怪訝な表情を含んだ顔がこちらを向く。
「さあ、甲子園かもしれませんし、近所の公園かもしれません。晩飯までには帰ってきますわ」
「さよか、まあ詰め過ぎた根気をほぐすにはブラブラするのがええかもしれへんな。あと、出かけるならこれでタバコ一箱買うてきてくれ。釣りはええ」
「『ハイライト』ですな」
「せや」
父から体よく小遣いがわりの五百円札を受け取った僕は、母の小言を背中で流しながらで表に出た。曇り空にもかかわらず、昼の外気は家の中以上に季節を自己主張し始める。
僕はとりあえず大学前のバス停まで歩くことにした。暑さの中、山を下って甲東園の駅に行くのが面倒くさかったのだ。バスで西宮北口まで出たら、後は梅田でも三宮でもはたまた甲子園でも、気分しだいに向かえばいい。
家で父に言ったとおり、行くあてなどなかった。僕はただ、石堂とおケイの間に割って入る算段を考えられる一人ぽっちの空間を求めていた。そして、それは自室に籠ることでは得られないのだ。街に出て、この嫉妬と羨望と憧れがごちゃ混ぜになった心をもった状態で大勢の人の中をうろつかなければ落ち着きそうにもなかった。なんなら酒を飲んだっていい。
だがそんな僕の午後の検討は、バス停を視界に入れた瞬間に打ち消されることになる。
バス停の先にある横断歩道を横切って、ギターケースを抱えて大学の正門へと入っていく石堂の姿があったのだ。
「イシ……」
思わず声が漏れる。視線の先の石堂はこちらには気づいてはいない。しかし、バツの悪い感情だけは否応なしに出てきた。心の奥底で何とも言えない感情を抱き始めたばかりの相手が目の前に姿を現したのだ。嫉妬と羨望の入り混じった心のうちをぶつけてやりたいとはいえ、彼は親友なのだ。親友へのそういう感情に基づく算段をするために出かけた矢先に、顔をみてしまった一方的な気まずさといったらない。
それに、彼の行動にはそもそもの疑問があった。
なぜ石堂はバリケード封鎖中の大学にエレキギターを持って入ろうとしているのだ?
さまよいながらでおケイをさらうことを考える午後は打ち切られた。小走りになった僕は、石堂の後を気づかれないように追いかけることにした。
十三
大学が学生達による断続的なストライキとバリケード封鎖によって本来の機能を停止してからしばらくの時がたっていた。だが、機能を失っても学園は無人ではない。ベニヤでこしらえられた刺激的な文字に彩られた無骨な立て看板に彩られた構内には、ヘルメットを被った共闘委員会の連中と思しき面々が棒など片手にして所在無げに立っている。夏休み期間中なのに季節感を感じさせない彼らがそこにいるのは、バリケード封鎖した校舎群の封鎖を解除しようとする職員や体育会の学生に立ち向かうためなのだろう。近所に住んでいる身として、この光景について分かるのはそのあたりまでだ。
ストライキも、バリケードも、そしてそれを実行した大学生達の心のうちも知りようがない僕は、各学部の校舎の入り口に無造作に積み上げられたイスや机の山を見てため息をつくことしかできない。ヨーロッパ風の美しい建物の用途を封じるそれらは、部外者からすれば醜悪な代物にしか映らなかった。美だろうが何だろうが、積み上げる苦難と違いその意味を破壊するのは至極簡単だという事実を僕は初めて見た。少なくともこの場所は去年、おケイの誕生日での余興の演目を石堂と考えた時のような穏やかな空間でないことだけは確かだった。
だが、石堂は特に何も感じないのだろう。彼は後ろを振り向かず、だから僕に気づこうともせず、ひたすらに大学内を奥へ奥へと進んでいく。
ギターケースをぶら下げた石堂が、敷地内の池のほとりを右に曲がった。その後を続いて校舎の角にさしかかった時、右肩に強い違和感を感じた。
「お前みない顔やな」
肩への来訪者は、ヘルメットを被った共闘委員会の学生だった。不審者でも見るように目を細めてこちらをにらみつける彼は、闘争学生のご多分にもれず季節を無視したジャンパーを羽織り、ヘルメットで蒸れた髪を僕と同じようにほお骨あたりまで伸ばしている。
時代は変わった。少なくとも男の髪型に関しては。去年、福村さんの髪を「キリスト」と評したのは、外見もそうだが、それくらいその格好に希少なものがあったからだ。それが今じゃ十二使徒に百をかけたくらいの数の連中が似たような長髪だ。
「社会学部の学生か?」
十二使徒の一人であろう学生が改めて問うてくる。石堂を抜き足差し足でつけていたこちらの格好が余程怪しかったのか。長髪にジーンズの出で立ちをして、公安にしては幼く、体育会にしては貧弱な顔と身体のこちらを信用できないらしい。
角を曲がった石堂は緩やかな坂を登りながら、徐々に姿を小さくしていく。
「ちゃいますちゃいます。高校生ですわ」
「バリ封の警備になんで高校生がおんねん。誰ぞに駆り出されんか?」
遠ざかる石堂を視界の片隅に留めておきながら、僕はなんとかこの場を切り抜けなければならない。敵対者でないことをアピールしても、連中の部外者か、あるいは内通者として捉えられたら何にもならない。
うさんくさい人間を見る素振りをもってこちらの顔からつま先までをしげしげと見つめる大学生に対し、僕はつまらない嘘で場を切り抜けることにした。
「いや、兄貴が文学部おるんですが、お盆で親戚も集まっとるいうのになかなかストライキじゃなんじゃ言うて帰ってきよらんさかい、親が呼んでこい言いよりましてな」
大学生の手が肩を離れた。昨日までの「役者」の修練はどうやらいい方向に出たらしい。
「ああ、そういうことかいな。文学部もスト継続中やしなあ……ご苦労さん」
解放された僕はその途端、懸命に走り出した。坂のはるか先の石堂が、とある校舎へと消えていくのを大学生の肩越しにみとめたからだ。
「ボウズ、そっちは経済学部や!」
ヘルメットの声が後ろから僕を追った。が、僕は聞こえないふりをし、彼に向かって礼替わりに片手を挙げると、いっそうスピードをあげた。石堂がこの学校に何用でいるのか、それだけが興味の対象だった。
矛盾はないはずなのだ。彼が「道化を続けてやる価値のない」人間であったとしても、親友は親友だ。学生が揉めている空間にとうに練習を辞めたギターをもって立ち入るとなったら、気になる以外の感情が湧いてこない。
十四
「B号館」と銘うたれたクリーム色の瀟洒な建物の入り口は、何故か他のところと違ってそこだけ封鎖されていなかった。ホコリくさいその中に飛び込んだ僕は廊下から教室から、首を三百六十度ばかりひねることでちょっとだけ前に入ったはずの石堂を探しはじめる。
建物の中は意外な程に穏やかな空気ではあった。ヘルメットを被った学生もいるにはいるが、大部分の連中は男女問わず、夏らしい薄手のシャツやカーディガンに身を包んで僕の横を行き交い、談笑している。「要求貫徹」や「大衆団交」といった言葉が聞かれることもない。誰も彼もが、単に夏休み返上で研究に来た勤勉な学生といった面持ちだ。
不思議な気持ちになった僕は、やがて自分の眼だけをもって石堂を探すことを諦めると、大学生の一人に「エレキギターのケースをもった大男を見なかったか」、と尋ねた。
「ああ、七番教室でやる経済のゴーゴー大会の方とちゃうか?」
黒縁のメガネをかけた実直そうな学生は愉快そうにそう答えると、階段の先を指で示した。
「ゴーゴー大会ですて?」
「二時からや。多分、ギターもっとるヤツならそこにしかおらんやろ」
礼を言い、言葉のままに階段を駆け上がると、果たして石堂は大勢の大学生と共に七番教室にいた。ひろい教室の壇上は即席のステージとなっているらしく、その奥に据え付けられた見たこともないような巨大なヴォックスのアンプの前でヤマハの赤いギターを抱えていた。チューニングをするために視線を落としていた彼はやがてこちらの存在に気がつくと、よそ行きの気配をもった屈託ない笑顔で会話をはじめる。
「なんやハタ坊、どないしたんやこんなところに」
「どないしたって……イシこそ大学で何しとるのや」
「見りゃわかるやろ、ステージやがな。客も、おる」
そう言うと彼は壇上から教室全体の光景を手でさらった。確かに、大勢の学生が見物人としてタバコなんざふかしながらにざわめきの中で開演を待っていた。
「大学当局が退学生の復学を認めなかったさけ、バリ封の中をエレキで騒いだるのや。共闘委員会の主催らしいが、風流やろ?」
「風流ねえ……。しかしなんで高校生のお前がギター弾くのや?」
抗議の意を込めて、当局を挑発するように大学教育の場にふさわしくない事を行うという意図はわからないでもない。でも、その主役の一人がなぜ石堂でなければならないのだろう。
「俺が呼んだんや」
壇上に新たな声の主が現れ、甲高い声でこちらの疑問に答えようとする。
「軽音にもコイツくらい巧いリード弾けるやつおらんからな」
福村さんだった。教室の扉にもたれた彼は、ドラムスティックを持った小柄な身体を引き戸に軽くもたれかけさせながら、ヤニで黄ばんだ歯をむき出しにするとニカッと微笑みかけた。




