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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
35/89

第34回~昭和43年8月13日「君はいずこへ」(3)


 石堂は微笑みのままでしばらく杉浦を見つめていた。僕はそれを黙って眺める。コイツの笑顔がこうも薄気味悪いものであった記憶がないのだ。何か声をかけた瞬間、とんでもない牙に襲われそうだという妙な恐怖だけがあった。

 上京するこちらに対して、おケイへの優越性を確認して見下げようとするだけなのかと思いきや、次の瞬間には学生運動へと話を切り替える。彼が繰り出す二つの話題の間の関係性が分からなかった。そして、二番目の話題への僕の回答への明快な反応も見せていないことが気になって仕方がなかった。

 意図の分からない薄ら笑いの横顔を、僕は改めてうかがう。視線に気づいているだろうに、彼はプレーが続くグラウンドから目を離さない。

 祈りたいような気持だった。その笑みが突き放したような薄ら笑いでなく、純粋に目の前のヒーローを応援する自然なものであったなら、と願うしかないじゃないか。

 僕は歯を食いしばった。そうでもしなければ石堂の言葉に耐えられるかの自信がないのだ。


 それは六回の表が終わろうとした時のことだった。杉浦がまた、速球で三つ目のアウトをとった瞬間、石堂は座席を立ち上がると大きな伸びをした。「ああ! ハタ坊!」という大音声が客もまばらなレフトスタンドに響き渡った次の瞬間、その言葉は出た。


「俺も東京に出てみたいなあ!」


「は?」


 僕は思わず座ったままで彼を見上げた。驚くしかなかったのだ。石堂は笑いながらで、こちらのことをいつものように、「闘争に無関心なお前には呆れる」と評するような類の言葉を送り出してくるものだとばかり思っていたのだ。それがいきなりの上京願望だ。


「イシがか?」


 奥歯に込めた力はどこかに消え失せてしまった。想定外の言葉には僕を狙うような意図は見えなかったと感じたし、何よりも彼の中に上京志望があるなど今の今まで知らなかったのだから。

 問い返した言葉に対して彼は一つ満足げにうなずくと、立ったままにまた新たな『ピース』を咥えた。


「出りゃいいんだよ」


 僕は言葉を続けた。こちらが怯えなきゃいけないような話題ではないみたいだ。

 チャンスだと思った。その言葉が願望か本気かはわからない。それでも、彼が自らその優越の一部を捨てる余地を持っているというのなら、全力でそれを奨めた方が良いと感じたのだ。おケイを置き去りにして上京するという、そんな後ろめたさを味わう人間が二人ならば最高じゃないか。

 だが、石堂はそんな期待を一言で握りつぶそうとする。


「いや、それは無理や」


「何でやねん。お前のオヤジさん支店長やし、おまけにマンション建てられるよな土地を川西に持ってはるらしいやないか」


 必死だった。彼がこちらを小馬鹿にするような不安定な会話を途絶えさせるには、上京するかしないかという、その一点のみにこだわらなければならないような気持ちがして仕方がなかった。実際にコイツが東京に進学しなくてもいい。ただ、心のどこかで僕の上京という選択に納得さえしてくれたらそれでよかった。


「アホ」


 彼は重ねて否定した。座席に座り直した千両の笑顔はゆるやかに、実にゆるやかに、彼の言葉の角をとろうとする。が、眩しい笑顔はその裏で、親友に縋ろうとする僕の指を一つ一つ切り落としていく。僕の期待なんて実に空しいものじゃないか。


「俺は東大かて、行ける思ってるよ。でも、おケイの傍を離れとないんや」


「…………」


「離れたくないねぇ! 全く! 立身出世が先にくるお前と違うて!」


 汗で滲んだ青いシャツの大男は、戸惑う僕を見つめた。弾むような声の主の眼は、笑みの中にあって涼しげなものに見える。


「お前が東京出たら、容赦はせんで」


 僕は言葉が取り出せない。頭が鈍り始めているのだ。だからナンバ球場のレフト外野席には、南海ファンの声だけが陽気さを増しながらひろがっていく。


「おケイの髪から乳房から足の爪先まで全部俺のもんや」


「そら、どういう意味や」


 何とか僕は、返す言葉を探し出すことが出来た。ただ、その言葉には多分だけれど何の意味もない。


「どうって…………そのままの意味やで」


 咥えタバコの石堂は、相変わらずの表情を崩さない。

 彼は変わったのかもしれない。そして、僕よりも先のところへ歩み始めたのかもしれない。はばかられるような「性」の部分にまで、彼の涼しげな眼は視野を広げ始めている。そういう感情に踏み出すことから逃げようとする僕と彼とは違う。


 石堂はもう、勝った後の世界を想像しだしているのだ。


「お前には()()()すら渡さん」


 石堂が新たな動きをした。僕の目の前に吸いつくし、灰だけといってもいい吸殻を突き出したのだ。が、やがてそれをこちらから遠ざけると、コンクリートの通路へと放り捨てる。


「なあ! 消し炭すらお前は手に入れられんよハタ坊!」


 返す言葉は最早見つからなかった。僕は、石堂が荒々しく靴で『ピース』をすり潰していくのを黙って見守るしかない。

 僕の心のうちなど、見透かされているとしか思えなかった。


 

 杉浦はついに力尽きた。七回の表、ワンアウトから住友にフォアボールを与えたところで降板となったのだ。緩い変化球主体のピッチングを、中盤から全力の速球に切り替えた彼のスタミナは試合終了までもたなかった。故障に苦しむこの数年を考えたら、確かに今日は素晴らしいピッチングではあるのだろう。ただ、強打の阪急を抑え込んでいるという興奮に流されずスタミナに気を配ったら、あるいはどうだったのか?

 マウンドには佐藤が向かっていく。


「いやー、杉浦、久しぶりの快投や……なあ、ハタ坊?」


「ああ……」


 佐藤がウォーム・アップをする中、僕は石堂に生返事をする。もう、杉浦の力投の記憶だけにひたるという気分でもないのだ。

 憧れのスターの力投に楽しげな彼とは違い、惨めさだけがあった。僕は馬鹿だ。六月のおケイが、楽しげに石堂の為にプレゼントを選ぶ光景から目を逸らすことが出来ないし、彼女の想い人の挑発からも逃げられない。ただただ、お互いが惚れあっているなら、どんなに石堂が思い上がっても、僕は「役者」をやり続けるしかないと思い込むしかないのだ。二人の間に割って入りこむ度胸も自信もない。

 会話はまた、途切れた。

 

「イシ、タバコくれや」


 しばらくが経ってから不意に、苦手なタバコを求める言葉が出た。福村さんに奨められた時以来、殆んど吸ったためしもないのだが、無性に吸いたくなったのだ。慣れない香りにでも包まれなければ、もうこの球場と帰路を素面でやり通すことなど出来ないような気がしてたまらない。


「ハタ坊吸わんやろに、無理すんな」


「ええから!」


 怪訝な顔で石堂は『ピース』とマッチ箱を差し出した。僕は礼も言わず、奪うようにそれらを受け取ると、火を準備し、吸い込んだ。


 去年と同じような強い違和感に喉が拒否反応を示すまでには時間など要さなかった。


「な、だから言うたやろ」


 煙の中、また涙を浮かべて咽る僕を見ると、石堂は笑った。


「ハタ坊にはタバコなんざ無理や」


 そう言うと、彼は僕の右手からタバコを抜き取ると、それを自らの口に咥えなおした。


()()()()()()()()()()って、慣れないモンに頼るんやないよ、スカタン」


 咳き込むばかりの僕は、その言葉を反撃の意思すら表情に浮かべられずに聞くしかなかった。負けるのは僕だろうか、それともグラウンドの阪急だろうか。もしくは、両方なのだろうか。



 だが、言い負かされるだけの僕と、優勝を視野に入れている阪急ブレーブスには違いがあるようだ。八回の表の阪急は、大熊がヒットを放ち、長池が四球を選んでいた。彼らはツー・アウト一、二塁のチャンスをこしらえたのだ。そして、バッターボックスには四番打者の矢野がゆっくりと向かう。八回ということを考えたら、阪急はこのチャンスをモノに出来なかったらいよいよ敗北濃厚となるだろう。


「矢野か……四番やけど訳分からんポッと出のバッターやないかい……」 


 勝ち試合()()()に気を良くしているであろう石堂が呟いた。僕はその嘲りをまた、黙って聞いた。祈るような気持ちだけで、右打席で構え始めた矢野へと視線を向けることが今できる全てだった。

 今シーズンここまで十四本のホームランをかっ飛ばしている矢野は、去年までは阪急ファンの僕ですら大して名前を聞かない選手だった。今年で十年目だというが、その大半を二軍暮らしに費やしていた以上当然だろう。高校からプロに入った選手は芽が出なければ三年、長くて五年で整理されていく。なのに彼は九年間の間、クビを切られることはなかった。クビにするには惜しい何かがあったのかもしれない。


「今は三割打っとるかもしらんがね……長池やスペンサーに地力が及ばんマグレの四番打者()()


 石堂がこちらの様子をうかがった。が、沈黙しか能がない僕は上気した言葉を受け流した。今は矢野をみくびる石堂の言葉に対して、暗い期待だけを持って応じようと思ったのだ。

 祈る僕はもう、この十年目の四番打者が目の覚めるような一撃をもって石堂の、少なくとも野球に関する興奮だけでも奪い去ってくれたらそれでいい。

 こちらのささやかな祈りなど知らない石堂の声援を受けて、佐藤は振りかぶった。


「頼むで佐藤! 杉浦に勝ちがつくのはお前次第や!」


 矢野はバットを振りぬいた。佐藤の投げた五球目を打ったのだ。打球は高い軌道で星空に浮かび上がり、そのままの勢いで星座のひとつにでもなるのかという程小さくなったが、やがて強烈な勢いで僕の視界の中に大きさを増しながら近づいてきた。レフトの柳田が必死の背走を始める。


「アカン!」


 隣の座席から悲鳴のような絶叫が響くと同時に、柳田の足が停まった。追いつけない打球だった。矢野の一撃は口をあんぐりとあけた僕と石堂の頭上すら越え、レフトポールを巻き込むようにして、こちらが座っている場所から二十列は後ろの座席へと飛び込んだ。線審がプロペラのように景気よく手をまわし、フェアを宣告する。


「うわぁぁぁぁぁ!」


 逆転のスリーラン・ホーマーだった。シーズン十五本目の大アーチを放った矢野がダイアモンドをまわりはじめた。


「ファウルやがな! 絶対にファウルや!」


 勝ち試合が一転、苦しい戦況になってしまった石堂が声を張り上げる。確かに、ポールの右か左かの見極めの難しい打球ではあった。グラウンドでも野村が審判に歩み寄り抗議をはじめ、鶴岡監督もベンチから名捕手の加勢に飛び出した。が、一度下された判定は覆らない。

 結局試合は、その裏からエースの米田をリリーフに使い、九回の表にさらに一点を加えた阪急が四対一でモノにした。七回まで力投した阪急、石井に通算百勝目がつく劇的な勝利だった。

 惨めな僕の、小さな願いは叶ったのだ。


十一


「杉浦さんの勝ちが消えてしもうた……」


 難波から梅田へと戻り、阪急電車で家路をたどり始めても石堂の文句は止まらない。僕はその悔しがる様を見ながら、顔には出さないまでも心の中でほくそ笑むような余韻をしつこく味わっていた。南海ホークスと阪急ブレーブス、それぞれが応援するチーム同士の試合にはまるで代理戦争の趣きがあるのだ。そして矢野が打ち、阪急が勝った。僕の勝ちだ。

 でも、電車が闇夜の淀川を渡り、十三駅を過ぎて神崎川を渡る頃にはささやかな喜びは暗い感情にとって代わられた。実際の「戦争」では、今日もそうだが僕は石堂に何一つ勝ってはいないのだ。学力も肉体も、そして距離も彼に敵う部分が見つからないじゃないか。だから戦意も喪失して「役者」稼業に夢中の日々だ。僕はもう何もできない。密かに慕い続けて、それで二人が交際しだしたら、作り笑いの祝福をしておしまいだ。ブレーブス(勇者たち)の応援をする癖に意気地のない人間であることに変わりはない。


「矢野め……二軍あがりの苦労人かもしらんが、何も俺が陣取る方向にホームラン打ちこまんでもええやないか……」


 吊革につかまりながら外の風景を眺めている石堂がまた呟いた。


「苦労人!」


 僕は彼の独り言に反応すると、低い声で三文字の言葉を喉から押し出した。閃くものがあったのだ。突然の発言に、石堂が驚いたようにこちらを見返す。


「なんやハタ坊、いきなり……」


 僕は少しだけ彼を見返した。が、やがて返事もせずに車窓へと顔を向けた。奇妙な物でも見つめるような彼の視線は最早どうでもいい。


 矢野選手の有り様こそ僕が範にしなければならないものじゃあないのか、という思いで頭が一杯になったのだ。 


 六月から猛然と打ち出した矢野が、この先何本のホームランを打つのかは分からない。眠っていた才能が爆発した彼は、空白を取り戻すのに夢中だろう。

 でも、それは九年間を耐えたからこその幸福と栄光じゃないか。

 僕も同じだ。今を堪えなければならない。堪えることが出来さえすれば、いつか機会が巡ってくる。それに矢野の九年に比べたら、僕が辛抱するのはせいぜいが半年から一年というところじゃないか。高校を卒業し、大学に入った瞬間におケイに想いの丈を告げて掻っ攫ってやればいいだけの話だ。楽にも程がある話だ。

 彼我の差を認識しつつも石堂はきっと、一回言い切ってしまっている以上は卒業までは何も動かないだろう。彼の性格からしてそういうところだけは義理立てをするはずだ。実にいい男じゃないか。


 そして、彼には悪いが「役者」など辞めだ。おケイはいざしらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なあイシ」


「どないしたハタ坊?」


()()()()()()()()


「へっ……」


 電車は武庫川を渡っていく。もうすぐお互いの自宅への乗換駅の西宮北口だ。黒くそびえる六甲の山肌に灯りがチラホラと瞬いている。どれがおケイの家のものだろうか。僕はそれだけが気になりはじめていた。

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