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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第33回~昭和43年8月13日「君はいずこへ」(2)


 五回の表も杉浦は零点に抑えた。キャッチャーの野村と何か言葉を交わしながらでベンチに彼が引き上げて行く頃、レフトスタンドの僕もようやくで返事をこしらえることに成功した。

 その間、石堂は返事を促さなかった。おそらくだが咥えタバコの彼は、こちらがどれだけ苦しい言い訳をするのかを身長だけではない高い視点から心待ちにしていたのだろう。それでも、話を途切れさせてはいけなかった。答えられないことは、暗に敗北を認めてしまうだけの所業だ。

 ゆっくりと彼の方を振り返った僕は、中断させていた会話の続きを始める。


「映画会社でもどこでも、入るなら学閥の強いとこがええ。東京に出たら早稲田に明治に日大、卒業生が映画会社で腕をふるってる学校がひしめいている……早稲田はその中の最上や。だから東京に行かんとアカン」


 苦し紛れにしては上出来な部類の弁だろう。それに、この言葉は嘘ではない。東京の私大から映画会社に入るという夢は、おケイに会う前からずっと温めているものだ。だからこの返事には、ただただ、彼女の存在をどう想っているか、という視点が欠けているだけにすぎない。

 僕は上目づかいに石堂を見上げる。彼は黙って喫茶店から失敬してきたであろうマッチでまた、タバコに火を点けると妙な言葉を口にした。


「ハタ坊、関西の学校からでは映画会社はアカンか」


「ええ……」


 意外な言葉だった。こちらが上京することは実質的におケイを独占する絶好の機会になる以上、それを少しでも引き止めるような言を彼が言うなどとは思いもしなかったのだ。彼の言葉の意味は三択で選ぶしかないような代物だ。

 すなわち、「一・お互いが関西でおケイに関して勝負をする」か、「二・古い友人がいなくなるのは寂しい」か、もしくは「三・最早勝負が見えてきたんだから無理に上京までして逃げようとするな」のどれかなのだろう。

 まず「一」ではないな、と感じた。そんな悠長な思いやりを抱くなら、ここ最近のように、不意に冷たい態度を見せる必要もないのだ。すると、「二」でもないだろう。引き止めておきたい人間の癇に障るような言葉を投げかける必要はない。と、なると、三択の答えは一つにまで削られてしまう。

 タバコを半分まで吸った石堂へ、僕は言葉を返した。もちろんそれは「三」に拠るものであって、そしてそれを否定するだけの説得力を持ったものにしなければならない。状況は苦しくても、「役者」を受け入れつつあるにしても、「諦めかけている」ことを匂わせたくなかった。最後の意地みたいなものだ。逃避ではない上京の理由を提示しなければならない。


「数学でけん僕は私文しか無理やからな……。銀行や商社なら関西の私立は強いが、僕の行きたいところなら東京の学閥のが関西より大分強い」


「ほうか……」


 試合は六回を前にしたグラウンド整備に入っていた。腕組みをした石堂は、『ピース』の灰を緩慢な仕草で落とし、そしてしばらく声を出さなかった。こちらが「敗北」を認めるような言葉を使わずに話を逸らしてしまったことを意外に思っているのかもしれない。そうだとすればいいのだが。

 だが、グラウンド整備の作業員を尻目に、ベンチの脇で野村相手に速球を投げ続ける杉浦を少し見やった彼は、少し夜空を見上げると、こちらの「上京」に関する話題の切り口を変えた。追い込みをかけそこねたから、趣向を変えるというのだろうか。


「早稲田、明治、日大……みんな闘争が凄いところやな。全部が全部、闘争のメッカやないか……。何度も聞くけど、ハタ坊は大学闘争についてどない考えている」


「どないって……。そんなん東京の大学引き合いにせんでも、俺らの近所の大学で何が起こってるかを覗けば大体分かるがな」


「言われてみたら、せやな」


 石堂は燃えカスを座席の下に放り込むと、久しぶりにこちらの顔を見つめ返し、少しだけ笑った。彼が、プールで社会情勢だったかベトナムだったかを憂えていた時から一年が経とうとしていた。



 気がつけば辺りは闘争の季節だ。日本大学の使途不明金に始まった日大闘争と、東京大学での医学生のインターン制度の問題に端を発した東大闘争が新聞の紙面までも賑わせるようになってしばらく経っていた。しかし僕らは、別に夜ごとに朝刊を待って情報が入るのを待つ必要はない。それぞれの家の眼と鼻の先にあるプロテスタントの私立大学もやはり、学費の値上げを原因として揉めに揉めていたからだ。一昨年には年五万円だった授業料が今年度の入学生は七万五千円、さらに来年には八万円に値上がりすることが元凶らしい。既にこの春の卒業式も入学式も中止となっていた。大学本部が学生に占拠されてしまっていたからだ。大学は首謀者の学生十一名を退学にしたが、一方の学生も処分に対抗し、スト権の確立を模索したうえで校舎をバリケード封鎖すると、授業のストライキに踏み切っていた。


「暇で仕方がないわ」と、芳村さんは言う。この前、借りていたレコードを返しに行った時のことだった。


「授業どころか試験もあらへん。せやさかいレポート出したら単位だけくれよる」


 ガレージでブルーバードを洗いながらの彼は笑った。


「見てみぃ波多野。お蔭でこんなにテニス焼けや」


 金に不自由しない男は、得意げにこんがりと焼けた二の腕を僕に突き出した。彼は紛争に微塵の関心も持ってはいなかった。多い時には一千五百万近くを年に稼ぐという腕利きの弁護士を父親に持つ彼は、諸経費をあわせた学費が年額十万円を超えることなど、どうでもいいのだ。大学が機能を停止したことは、長期休暇の付与くらいにしか思わないのだろう。だから彼は連日、女の子とのテニスとドライブと()()()()()()()()に明け暮れている。

 

「はあ」


「福村もしたたかなヤツや……。仲間うちで『無関心』と詰られるのが嫌だから全学集会にはマメに顔を出しとるらしいが、その実、教授の家に日参してはおべっか使うて指導を受けとるらしい」


「福村さんが?」


 意外な言葉だった。かつてギターの練習の際に、僕と石堂に「平和を、現実を考えろ」と煽るだけ煽った男じゃないか。そんな人が本腰を入れていないとなると、あの言葉は本心からのものじゃなかったというのだろうか。


「『馬鹿』どもに無関心と非難されようが石投げられようが俺みたいに気楽にやって白痴扱いされりゃええのにな。アイツはどうも体面を気にするからなあ」


「うーん」


 曖昧な返事と共に、僕は借りっぱなしにしていたビートルズのLP『ラバー・ソウル』を差し出した。手に余る話を長々とするつもりはなかった。紛争に加わる人間が切実な問題としてからか、それとも義憤から参加しているのかは分からない。だが、悔しいが僕は芳村さんや福村さんと同じ種類の人間なのだ。不自由なく育った身として、数万の学費の値上がりが切実な問題になる人間の心情は分かっても、それが身を切られる傷みとはなりえない。衣食が足りるなら闘争に過度なシンパシーなど持てないのだ。


「はい、ご苦労さん……『ラバー・ソウル』ええやろ?」


「ええ、凄い良かったです」


「何が良かった? やっぱり『ミッシェル』あたりか?」


「『ミッシェル』もええですけどな。僕は『君はいずこへ』がええなあ思いました」


「ふうん……『君はいずこへ』か……」


 濡れた手をタオルで拭いた後にLPを受け取った芳村さんは、ほんの少しLPの表紙に印刷された歪んだ写真のビートルズのメンバーに目を落とし、それから視線をこちらに向けた。


「なあ波多野」


 軟派を自認する彼としては珍しく改まった表情だった。


「お前、思いつめるなよ?」


「思いつめるって……何にですか?」


 問い返した僕に対する芳村さんの答えは簡潔かつ抽象的なものだった。


「そらお前……()()()()()()


 

 夜風の中、僕らは無言だった。ダイアモンドでは南海のセカンドを守るブレイザーが身振り手振りで内野手に守備位置の指示を送り出している。それに応じてサードの国貞とショートの小池が数歩程お互いに歩み寄り、微妙な立ち位置の調整をはじめる。試合は一対ゼロのスコアのままで六回に移ろうとしていた。だが、元大リーガーの的確であろうアドバイスの出し方に感心する余裕はなかった。石堂が大学闘争の話題を持ち出すと決まっていつも熱を帯びだすことを知っている以上、試合の戦況を気にかける暇がないのだ。この前おケイに会った時も、彼は音楽や受験の話題をそっちのけに、大学生達のストライキにいかに自分が賛同するかを熱っぽく語っては座を白けさせていた。


「まあ、学費値上げに反対する気持ちだけは分かるけどね」


 ようやくに僕は、持ち出された話題に限定的な共感をもって答えた。彼は僕が答えることをじっと待っているからこそ、あえて何も催促をしてこない。親友として、乗り気でない話題でもその期待を無視するわけにはいかなかった。

 たとえ、回答に対する彼の反応がわかりきっていたとしても、だ。何せ僕とは違い、横の男は衣食が足りてなお、大学生の闘争に興奮しだしている。まあ、闘争の主体の大学生も、大抵は衣食に問題がない家庭の出ではあるのだが。


「それだけか?」


 彼はこちらに身を乗り出してくる。予想通りだった。石堂は、さらに何かを言ってほしそうにこちらを見つめる。彼の期待通りに答えることは簡単だが、それは僕には出来ない。


「せや、それだけや」


 彼の顔を少しだけ見返すと、僕はそう断言した。すると、いつものように相手の顔には落胆の色が浮かんだ。彼はもっと大枠への共感を欲しがっているのだろう。

 大学闘争には学費値上げ以外の様々な事象が付随している。それは例えば、マスプロ教育の在り方についての疑問であり、ベトナム反戦の意思表示であり、二年後の日米安保の自動延長阻止であった。このうち、マスプロでなくミニマムな専門教育を望む気持ちくらいは辛うじて分からないでもない。しかし、ベトナムや安保は学生が動いたからどうなるというものでもないだろう。効果を伴わない義憤の意思表示など、空しい自慰行為にすらならない。エンタープライズが入港したといえば佐世保に出向き、沖縄デーだといえば全国で暴動を繰り広げる大学生達の行動には、意思表示以外の何の実体もない。近所の商店の商売をあがったりにしたうえで機動隊に殴られて検挙されて、それで終いじゃないか。

 それに、マスプロ教育への批判だって怪しいものだ。学費は上げるな、しかし教育の質は今以上のものにしろ、では道理が通らない気がするのだ。


「そうか……」


 石堂は意外な変化を見せた。その顔が失望から、いきなり不自然な程の笑みへと様変わりしたのだ。

 不気味な光景だった。昔から笑顔の千両役者である彼のエクボは、面倒な話題の時ですら安心感をもたらしてくれていた。でも今日は、この「笑顔千両」を額面通りに受け取ってはいけない。彼の「闘争」に対する憧れは、かつての売布神社のプールの頃とは比べ物にならない程大きくなっているのだろう。そして僕はそれについて、ほんの一部しか理解をしようとはしない。普通なら、不満の色合いが出ていいはずなのに、彼の顔はまったくに真逆のものと化しつつある。


 裏があるな、ということだけは足りない頭でも理解できた。問題は、この夜風の中、笑顔の下の本音が僕に狙いを定めた時、それを打ち返すバットを僕が持っていないことだった。


 石堂は微笑みのままにグラウンドへと視線を移した。試合はとっくに再開されていた。杉浦はまた、速球を投げ込みはじめる。

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