第32回~昭和43年8月13日「君はいずこへ」(1)
一
「ハタ坊、これからナイター行かんか?」
予備校の模擬試験が終わって張りつめた気分を少し崩そうとしていた僕に対し、そんな提案を石堂が持ちかけてきたのは、帰りの電車に乗り込もうと阪急梅田駅に向かって茶屋町の雑踏を二人して歩いている最中のことだった。
「ナイター? 今日は西宮球場やったか?」
「いや、ナンバ球場や」
「ナンバ球場やて!」
思わず僕は聞き返した。帰る方向と真逆に位置する場所じゃないか。帰り道の途中で見物をするならともかく、夕方の六時をまわった今からミナミに出るというのか。
「な、行こや。今日は確か南海・阪急戦のはずや」
にこやかな笑みの石堂はこちらの肩に手をまわしながらで、関西球団同士によるパシフィック首位攻防戦のカード名をあげるとしきりにミナミ行きを促す。去年初めてのリーグ優勝を達成した勢いのままに今年も首位をひた走る阪急ブレーブスと、去年の不振がウソのように二位でブレーブスを追いかける強豪、南海ホークスとの三連戦の初戦があるというのだ。
いいカードだ。でも、おケイと会うためだけにやりくりを続けるこちらの懐には、入場料をまかなうだけの五百円札一枚もありゃしない。それに、評判の『卒業』を近々見物するための金だって工面しなければならないときたら尚更だ。
「しかし明日も予備校やでぇ。そんな暇あらへん。それに先週おケイと会ってそれぞれレコードも買うたんやさかいお互い金、あれへんがな」
「心配すなハタ坊、奢ったる。昨日、お盆やさかい叔父さんがやって来て小遣いくれはった」
そう言うと石堂は鞄の中から封筒を取り出すと、そこから真新しい千円札を一枚抜き取ってこちらの眼の前に突き出した。夕暮れの風に、伊藤博文の顔がはためく。確かに、外野席でなら二人がかりでナイターを見てコーラを飲んでもお釣りの来る額ではある。
「しかし受験生がそんな頻度で遊んでええもんか? お前京大志望やないか」
金はとりあえずはいいだろう。しかし肝心なのはこちらが受験生だということだ。予備校の講師が言うように、入学試験への試金石となる模試が終わったこれからこそが合格のための肝心な時期になる。僕はもっともらしい理由で上機嫌な彼をたしなめようとした。
それに、勉強への姿勢だけではない。今日は迎え盆なのだ。兄も赴任先の長野から帰ってきているだろうし早く帰る必要があった。大男の家だって、親戚が来ている以上は似たようなものではないのだろうか。
「まあまあ、知恵絞って火照った頭を夜風で涼ませるのも風流な休憩や」
遠回しに繰り返す拒絶は、どうやら模試が終わった解放感からかこちら以上に上機嫌になっている石堂には通用しそうもなかった。
「分かったよ。要は観たいんやろ? 付き合うでぇ」
「流石やハタ坊!」
石堂は満足そうに声を張り上げ、伊藤博文を宙に高く掲げた。まあ、受験生らしくない行動をした挙句、迎え盆をすっぽかしたことで親と兄には叱られるだろう。その一方で優勝を賭けた大一番の試合を観たい色気はこちらにもあった。何よりも、彼と数時間を余計に過ごすことは悪くはない話だ。
家路を急ぐ白い開襟シャツの人々の中にあって、学校でも予備校でも、受験の話題以外を目の前の男と久しく交わしていないことに僕は気づいたのだ。だとすれば外野席で夜風にあたって野球を見物しながらとりとめのない雑談にふけるのは、悪いことではないだろう。
「健全娯楽は明日への活力!」
パチンコ屋の呼び込みスピーカーのような大声の文句とともに、大きな手が背中を二、三回軽く叩く。それを合図に僕らはお互いに少し表情を緩めて阪急線に上がる階段を素通りし、近くの地下道入口から難波へ向かう御堂筋線のホームへと身体を潜らせていった。
二
ナンバ球場、だから大阪球場は地下鉄なんば駅から程近いところにそびえ立つ南海ホークスの本拠地だ。石堂の財布の中身で外野自由席の切符を入手して場内に入っていくと、七時のプレーボールを控え、既に右中間の外野スタンド上のスコアボードには両チームのラインナップが発表されていた。石堂はレフトポール際の席に陣取るや否やで南海の先発ピッチャーの名前をスコアボードで確認すると、喜色に満ちた嬌声を発する。
「杉浦や! 見てみハタ坊! 今日のホークス、杉浦が投げよる!」
「ええ?」
こちらも驚きの声を出さざるをえなかった。意外な人選なのだ。かつては一シーズンに三十八勝したこともある南海ホークスの杉浦が、腕の故障によってエースの地位を失ってからもう何年も経っていた。完投どころか、最早五十球放っただけでドクターストップになりかねない彼は専ら短いイニング専門のリリーフ投手となっていて、今シーズンもここまでわずかに二、三勝しただけである。息詰まる首位決戦の先発をつとめるだけのスタミナがあるのかは分からなかった。
しかし杉浦という存在は、その流麗なフォームを真似してピッチャーをやっていた石堂にとって、未だに眩しすぎる存在なのだろう。お盆のナイターとしてはいささか少ない五分入りの観客の視線を集めながらで、照明に照らされて往時と変わらないサイドスローでウォーミング・アップの投球を繰り広げるその姿を、彼はフェンスから身を乗り出して食い入るように見つめだす。
「杉浦や……杉浦さんやぁ……」
試合の時間となり、一回表のレフト守備に就こうとするホークスの柳田が、その守備位置から思わず石堂の方を見上げる程の声援だった。それほどにまで「杉浦教」信者の叫び声は大きなものとなっていた。何せ、杉浦のフォームの真似が出来ないとなったらそれを契機にアッサリと大選手に殉じて野球を辞めてしまった男の叫びだ。ベテラン選手が仕事中に思わず声の方向を振り向いてしまっても仕方のないことだろう。
試合が始まった。が、僕は杉浦でなく、一心不乱に崇拝の対象に声援を送り続けている男の背中を、帰宅後の言い訳を考えながら見つめることにした。この親友に、これほどまでに無邪気な部分が残っていたことに不思議な安心感を覚えながら。
三
「知ってるかハタ坊。『ナイター』は俳句の季語らしいぞ」
「へえっ」
四回の表の阪急の攻撃が終わり、両チームともに点が入らない序盤戦が終わった頃、石堂はおもむろにこちらに話しかけてきた。変化球を中心に投げ込む杉浦は、強力な阪急打線をここまでは見事に封じている。
「しっかりせんかい。芸術に精通せな早稲田にも映画会社にもお前行けんぞ」
野球に関係するとはいえ、今日の試合についてではない話題を持ち出された僕が生返事を返すと、石堂は苦笑しながらからかうような口調で話を続けた。志望大学と志望業界にダメを出されたように感じた僕は、ムキになって弁解する。
「しかし、ホンマ知らなんだよ」
石堂はこちらの言を待たないようなそぶりをした。こちらの弁解などどうでもいい、といったように彼は満足そうな笑みでグラウンドを見下ろしながら自らの知識を披露し続ける。
「高名な俳人かてナイターで詠んどる」
「廃人?」
言った瞬間に後悔した。我ながら大したバカを言ってしまったものだ。聞き違いは、このひと時のこちらの無教養さをより浮き彫りにしてしまう。石堂の顔に先ほど以上の軽蔑の表情があらわれた。彼は夜空にため息をひとつ吐くと、一言だけつけ加えた。
「こんなんが万が一にも映画会社に潜り込んだら、日本文化の悲劇やなあ」
からかうような口調で彼の言う「悲劇」とは、教養溢れた話題を交わすにはこちらが役不足だったことへの失望なのかもしれない。
いや、それだけですむのならまだいいだろう。本音とも毒舌ともつかない彼の言葉が、ここしばらくのうちに目立つようになってきている以上、そこには更に意図があるのかもしれなかった。学校でも予備校でも、おケイと日曜毎に会う時にすら、ともすればこちらを侮り、突き放すかのような冷笑を彼がつくるようになってからしばらくの時間が過ぎようとしていた。
僕は何も答えなかった。一方の石堂も発言を促さなかった。ただ、今日くらいは杉浦を稚気のままに称揚する姿だけでいてほしかった。そうでなければ帰宅して小言まみれになるのが分かっていつつも、何かを彼に期待してミナミに足を運んだ甲斐がないというものだ。
四
試合の均衡が破られた。四回の裏、南海は無死満塁のチャンスから国貞の犠牲フライでようやく一点を先取したのだ。周りから拍手や応援の掛け声が上がる中、僕らは黙って見物を続けた。二人ともセ・リーグは阪神を応援している。が、パ・リーグなら地元の阪急を贔屓としている僕は南海の得点に無反応を決め込むしかない。しかし、南海ファンであるはずの石堂もまた、何の声もあげなかった。
南海の攻撃が一点どまりで終わると同時に、石堂は鞄から『ピース』を取り出して火を点けた。去年の秋に福村さんから教わったタバコを、いつしか彼は教師や親の眼の届かないところで吸いだすようになっていた。一口吸い込んだだけでむせかえってしまう僕とは違い、今日も彼は十年来の喫煙者であるかのように気持ち良さ気に煙を吸い込み、そして吐き出す。
大人びた風情を気取る石堂とは裏腹に、僕は煙の行方を見守りながらで次の彼の行動に身構えなければならなかった。彼の一服は、大抵がこちらに「真面目な」話題を持ちかけてくる前の儀式でもあるからだ。
「お前、なんで東京行くんや」
予想はあたった。タバコの火種が尽きようとする頃、グラウンドを見据えたままの状態の石堂がポツリと漏らしたのだ。
「離れたら今以上に俺に遅れをとるだけやで……」
こちらが返事をする前に、石堂は言葉をたたみかけた。そして、そのたたみかけた二言目こそが、ここ最近の彼の、冷笑めいた態度の根本だった。
石堂の視線の先には僕はいない。五回表のマウンドに立った杉浦のみがある。彼は彼で突如として、変化球ばかりのピッチングから直球主体のかつてのようなピッチングに切り替えていた。序盤の巧いピッチングを経て、日本一のピッチャーだった往時を思い出すような余裕が出たのだろうか。
誕生日祝いとして恵子からネクタイを贈られた石堂は、チョコレートのみを贈られたにすぎない僕と自身を比較して、少女の気持ちが自らに傾いているという自信を持つようになっていた。ネクタイの代金の半分は僕が負担したものであるという事実などは、彼にとって些細なことでしかなかった。四千円近くの洋品と、五百円札でお釣りがくる菓子の価値に差異を見出したのは僕だけではなかった。
三人で会う時、僕が積極的な人間として行動することを控えて「役者」として微笑しながら貝のように押し黙る中、彼がおケイに向かってそれとなくではあるが、自らの学業と肉体を誇示するような光景はしょっちゅうだった。石堂は贈り物に端を発した優越を持て余してはじめていた。
「毎週の文通と、たまの電話と、それから休みごとの帰省で何とかなるさ」
僕はそうとだけ告げると、新たなタバコを咥えた彼の横顔をうかがった。
彼はようやく、マウンドの杉浦から視線をこちらへと移動させ、ニタつきながらウンウンと少し頷く。
「せやな、ああ、せやな」
本心からの言葉などでは、決してないだろう。僕の言葉が本音でないのと同じようなものだ。
夢をよく見るようになっていた。石堂と恵子が連れ立って歩いているだけの単純なものから、彼が少女の細い肩に手をまわすもの。それだけで済んだらまだ上等だが、時にはその先の行為が展開されることもあった。
おケイと石堂が惹かれあっているとするならば、夢の中であってさえ、そこにいるであろう僕は彼らの世界をぶち壊すことが出来ない。だから夢の中でも二人の傍らでウドンを啜ったりしているうちに目が覚めてしまう。
ウドンに何かの意味があるかは知らない。しかし、こちらが五百キロ以上離れた東京に進学したとしても、石堂はおケイの家から五百メートルと離れていない場所に残るのだろう。上甲東園、上ヶ原から大学へ通うのだろう。そして週末は彼女に会うのだ。夢はそこまで来ている。
おケイと共に石堂への贈り物を選んでからというもの、それ以前から温めていた東京への進学という希望には、夢の実現以外の意味合いが与えられた。そう、見たくないものからの逃避だ。
僕がこうしてナンバ球場の外野席におケイの想い人と並んで腰かけていられるのは、単に石堂が「大学に入ってから勝負をつける」という約束を不思議な程に愚直に守ってくれているからでしかない。おケイに関する事象となれば途端に驕り出すようになった彼が、その自信のままに取り決めを反故にしないことが不思議でたまらなかった。
すり鉢のような急な傾斜の内野スタンドを背に、マウンドの杉浦は低く沈み込むとしなるような速球でストライクをとった。アンパイアのコールが場内に響いた次の瞬間、「杉浦教の信者」も僕に向けて振りかぶった。
「本当にそれで勝てると思てんのか?」
余裕のある言葉に相対する僕は必死だった。石堂を納得させるにふさわしい言葉をどこかから探さなければならないのだ。声をかけられても僕は、その方角に顔を向けられない。嘘を探す卑屈な面構えとなっているであろうからだ。仕方がない僕は、石堂に表情が分からないよう、レフトスタンドから杉浦を見つめ続けながらで返事を考える。
石堂によるナンバ球場での数時間は、模試の解放感から招待されたものだけではなかった。それぞれがおケイに対して残している距離を、彼が優越感に浸りながら再確認する場でもあったようだ。
彼方の杉浦は新たに振りかぶった。試合の先は長いのに、阪急相手に全力の速球を投げ始めた彼の肩とスタミナはどうなってしまうのだろう?




