第31回~昭和45年6月1日「あの娘のレター」(4)
九
「苦しめるだって? なんでそんなことを言われなきゃいけない!」
思わず強い口調で彼女に問い返す。しかし、語気を強めても吾妻多英には何の感興も催さないようだ。彼女は残り少なくなったタバコから灰を落とすと、改めてこちらを睨むように見つめる。
「波多野クン、悪いけどあなたにはもうチャンスなんてものはないのよ」
その言葉と同時にタバコが宙を舞う。『クール』が照りつける太陽の中、くるくると舞いながら第二校舎前のプロムナードへと落ちてゆく。
「大貫さんにとってあなたの記憶なんてもう、忌まわしい過去の一部かもしれないでしょ?」
空腹はなく、タバコを吸いたいとすら思わなかった。ただただ、途方にくれながら吾妻多英がまくしたてる言葉の一つ一つに戸惑うしかなかった。僕自身が「忌まわしい」存在の一部だという考えなんて、今までどこにもなかったのだから仕方がない。
「そんな……。吾妻さん、まさか僕はあの馬鹿野郎と同じくらいの存在価値でしかないってのか? 僕が?」
「そうよ」
吾妻多英は色気のないズック靴で吸殻を踏んでねじ消すと、当然のことだと言わんばかりに大きく首を縦に振った。
「私がその子と同じ立場なら、結婚まで決めてから目の前に波多野クンが現れるなんて、考えただけでもゾッとするわ。あなたは苦い思い出に酔えばやがて忘れるかもしれないけど、彼女からしたら波多野君を思い出せば漏れなく石堂君がついてくるの。苦すぎて消し去れないものかもしれないでしょ」
「なあ……。ひょっとして、本気でそう思っているのか?」
必死に会話を続けようとする、傍から見たら哀れであろうこちらの言葉に、彼女はさっきと同じように素早く首を動かす。
「あなたは八百長もしたし、最後まで向き合う勇気もなかった。大貫さんの気配りにすら、怯えて気がつけなかったわ」
初夏の太陽が緊張と怯えを煽るだけ煽っては、身体中から汗を絞り出そうとしていた。昼を食べた連中、これから食べる連中、暇にあかしてギターをかき鳴らす連中に六月末の安保自動延長阻止に向けてのシュプレヒコールをあげる一団で雑然とする噴水前にあって、僕は少女と出会ってから何度目かのこの場所において、また少女から突き放されようとしている。
「前に『卒業』を気取ったら、と言ったわね。あれは嘘よ」
吾妻多英はほんの少し、薄笑いにも似た表情をこさえるとこちらに笑みをふりまく。
笑みなんて、今、もっとも欲しくない表情だった。それは、同情でも共感でも何でもない、単なる嘲りの為に用意されたものだと感じたからだ。まだ、醒めた目線の先で軽蔑されていることを意識するだけの方が救われるというものだ。
「この前は、『冗談なんかではない』と言っていたじゃないか!」
「ええ、冗談ではないわ」
手元に準備していた新たな『クール』を口元へと運ぶと彼女は、薄笑いをもっとハッキリとしたものへと変えた。女性の表情が笑顔で満たされていくことがこうも面白くないどころか、鬱陶しいものにもなるということを僕は何となくで思い知らされた。
「あの時に私が言いたかったことは波多野君、あなたが何かを取り戻すにはハリウッドなみの離れ業、ウルトラCが必要だって例え話よ」
周りがくつろいだ昼休みを楽しんでいるであろう中、僕は一人、全身から力が抜けていくような気がした。吾妻多英は励ましてくれていたのでも、発破をかけようとしていたのでもなかった。彼女はただ単に、弱ってしまったこちらをもてあそび、何と形容したらいいのだろう、要はその気にさせたところで一気に突き放そうとしているだけの女にしか見えなかった。
悪女だ。無条件でいい、その膝元にすがることで心を落ち着かせたかった僕を拒絶するという狙いだけで、もっとも効果的な方法をこしらえていただけじゃあないか。
「誰もがダスティン・ホフマンみたいに惚れた女の子の式場に飛び込めるとでも思っていたの? 馬鹿ねえ。白人にも黒人にも日本人にも無理な話じゃあないの」
笑顔と煙がこちらを襲う。ウルトラマンか鉄腕アトムあたりに変身出来ないのなら、どうにでもなる話ではない、ということなのだろうか。「馬鹿ねえ」と彼女は言うが、まあ、僕は確かにそうだった。一瞬、いや、厳密には二週間ではあるけれどこの少女の一言一句が自分の考えに合致することだけに期待をもって生きてしまったのだから。
ただ、それでもだ。どこかで彼女の容赦ない言葉の数々を受け流そうとしている自分がいることに気づいた。それは、ロープの際に追いやられて一方的にパンチを浴びせられるだけ浴びせられても決して倒れようとしないボクサーのようなものだろう。
十
吾妻多英からは予想に反した言葉ばかりが僕に投げつけられてくる。甘える妄想はとっくにどこかに消えてしまっていた。しかし僕は、彼女にすがることを願うだけでこの最近を生きてきた訳ではないかもしれないのだ。
何故なら、事態は十人並みの顔をした自称『美少女』が現れる前から僕の手元にあった。途方に暮れながらも僕だけで、時にはあの石堂に長距離電話をすることで何とか痛みを抑えようとあがいた時だってあったじゃないか。
そう感じた瞬間、何かはわからないがある種の覚悟のようなものが僕の中で醸成された。福島の少女に甘える前に自分で何らかの見解を出し、そこへ突進することは不可能な話ではないはずだ。
言葉を発する前に僕は『わかば』を胸ポケットから取り出した。吾妻多英を睨むでもなく、ただ見つめながらで、ゆっくりとマッチの火を口元へと持っていく。そして煙を一つ燻らせた瞬間に、僕は彼女に向かって問いかけた。
「じゃあ手紙は?」
「ん?」
自らの言葉で、こちらが萎れるだけ萎れてしまうとでも思っていたであろう女の子の顔に、驚きのような表情がほんの少しだけでも浮かび上がる。それを確認した僕は、心の中でほくそ笑んだ。彼女は、こちらがこの期に及んで反撃するなんて予想もしていなかっただろうから。残り少ない昼休み、あたりで繰り広げられている他愛もない会話に紛れて僕は続けざまに彼女へと矢を放つ。
「記憶から消し去りたい相手に手紙が届くかよ! 俺だけじゃない、石堂にすら手紙が来ているんだ!」
吾妻多英と実質的に知り合う前に、阿佐ヶ谷の下宿のポストには手紙が届いていたのだ。不安は、彼女が目の前に現れる前から半年に渡ってあったのだ。僕は水先案内人として彼女を欲したかもしれないが、そんな人間がこちらに現れる前だって、おケイはこちらに便りを寄越してくれた。
すがるものは吾妻多英だけではない。一通の手紙にだって、同じくらいにすがりたいような何かを期待させるものがあるかもしれないじゃないか。
「それは…………」
吾妻多英の顔から笑みが消えたように思えた。ただ、僕にはそれを確認する余裕なんてない。ただただ、自分が今、感じたことを少女に伝えるだけで精一杯だった。昂ぶった感情に、口と喉がかろうじてついていってくれる。
「ダスティン・ホフマンになんてなれないさ。それに、SFものみたくタイム・マシンで十七にだって戻りようもないしな。でも、何もしてやれなかった日々を謝るくらい、許されたっていいだろうが!」
格好をそこまで気にしないで扱うにしたら、それが精一杯の言葉だった。最早、すぐ先の少女の目元からは笑みが消え失せていた。どうやらこちらの科白は、相手の厳しかった口調を食い止めるくらいの言葉の数々にはなったらしい。
吾妻多英は吹き上がっていく噴水を背に、ほんの少しだけ腕組みをした。渋い顔の彼女は、今までと同じように『クール』の準備をしようと胸元に手をやったが、やがて、その動作を放棄してこちらに向き直った。
「なら、会うために手紙でも書くの?」
「ああ…………」
「彼女、もう返事なんて寄越さないかもしれないわよ」
「かまわないよ。その時はそれまでさ。でも、会わなきゃ…………」
「会わなきゃ?」
「会わなきゃ、きっと忘れることだって出来ないと思う」
三限が間近に迫るなか、新しいタバコを口に準備しながら僕は答えた。ほんの少しだけ、役者のように吾妻多英のために寂しげな笑みでも作れたらどんなにいいか、という思いが頭のどこかを駆け抜けていった。そんな表情をモノに出来たのなら、それは挑発的な言動を繰り返した彼女をいたわるためのものだけにはならないはずだった。そこを通り越したものになってほしかった。「会う」という行為は、何にせよそこから物語が始まっていくためにあるわけで、だから可能ならば「物語」を終わらせる最後の儀式として会うという行為を求めている自分への寂しい自嘲にでもなってほしかった。
「分かったわ。私は止めない。ただ…………」
あたりにたむろしていた学生が、男女問わずに教室へと流れていく。授業を屁とも思っていない連中は、サボタージュを決め込むために学生棟へとデモの打ち合わせなりビラのガリ版刷りの為に消えて行こうとする。色々な種類の連中が色々の目的で足を忙しなく動かしはじめようとする中、その人波を小柄な身体で平然と受け流した吾妻多英は僕との間の距離をほんの少しだけ詰めて、こちらへとにじり寄った。
「結果を教えてくれる?」
こちらの鼻先にまで彼女の額が近づくと、百五十センチの身体が僕を見上げる。
「ああ……約束するよ」
『わかば』を吸い込んだ後に僕はそう返した。目の前の女の子がこちらをどう評価しようかはもう、重要なことではないかもしれない。それでもこちらを気にかけているところがまだあるというのなら、それを拒む理由もないのだ。
「よく言ったわ、波多野クン」
突然、吾妻多英の表情に笑みが戻った。それは余りに急なものだったから、思わず僕は吸い始めたばかりの「わかば」を口から落としてしまう。
「は?」
「少しあなたを試してみたのよ。こちらに罵倒されても願望がぶれないか、くらいは確認してもいいでしょ」
軽やかなとりなしの言葉を、僕が額面通りに受け取ることが出来なかったとしても責められはしないだろう。何せ、ほんの少し前までの彼女は、その言葉で僕を一方的に殴ろうとしていたのだ。こちらから意外な反撃が来たから狼狽して、繰り返していた棘を誤魔化す方に回ろうとしたと感じても無理のない話だ。
それでも、僕はこの昼休み中の彼女の全てを許そうという気分になっていた。僕に向けての軽蔑からくるものではないであろう、不思議な笑みが包み込もうとしていたのだ。
そんな笑顔の主は、その表情にあまり似合わない注意を繰り出す。
「ただ、手紙を出したらダメ。大貫さんに、あなたを思い出す力があることを願って毎日を過ごしなさい」
意外な「忠告」だった。当然だ。彼女の本音は分からないが、建前ではこちらの「再会」に賛同したと思っていたのだから当然だろう。
「一回きり、最後の機会だぜ? 僕からねだっても彼女から申し出があっても同じじゃあ……」
言葉を言い切ることは出来なかった。吾妻多英は小さな手を精一杯に伸ばしてこちらの頭をゴムマリでもつくように二度ポンポンと叩くと、ゆっくりと頭を横に振った。
「あなた達は両方が惹かれあっていたわ」
「…………」
返事はしなかった。それはどうしようもない、取り戻せない過去をふり返るには本当にどうしようもない科白なのだ。仮にそうだとしても、僕はおケイのそんな感情に気づけなかった以上、消え入ってしまいたくなるだけの文句だった。
彼女の足を伸ばしてまでのマリつきが再開される。ふと、「甘える」とは今のような瞬間を言うのではないか、と思った僕はされるがままにすることにした。
「あなたが手紙を出しても、確実に彼女の手元に届くかなんて分からないわ……。だから、もう一度、最後くらい大貫さんを信じなさい。ついでにこの『失恋学者』のことも。彼女、絶対にこの夏あなたに手紙を寄越すわ」
嘲りがない、穏やかな笑顔からの言葉だった。断言するだけの根拠があるのだろうか? いや、ないだろう。単に彼女は大学生をやりながら「失恋学者」もやっていて、挙句は「占い師」まで兼務していたのだろうか。
「嘘やろ? あの娘がこちら……」
「信じなさい波多野クン!」
こちらの頭で遊ぶことを止めた彼女はほんの少しだけ間合いをとると、相変わらずの表情のままでこちらの話を遮った。よく響く声だった。
にこやかな表情の彼女には、カンのようなものがあるのかもしれない。そういえば、侘しくパンを齧っていただけの僕のことを一言で「失恋した」と当ててみせた女だ。だとすると、その直感に信頼をおいたって大して間違っていないのかもしれない。
「そうすることにするよ」
そう伝えると、僕は小脇の鞄を抱えなおして次の授業へと向かおうとした。吾妻多英も同じように校舎への足取りをあわせる。
「舞台芸術論、始まるわね」
肘をまげて左手首につけた腕時計を覗き込むと、おどけたように肩をすぼめながら少女は言った。
「ああ……結局、昼を食べなかったなあ」
話にケリがついたところで、僕は何も腹にいれていないことを思い出した。朝に食べかけのチョコレートを齧っただけで午前中をやり過ごしてしまった以上、空腹の虫どもが一斉に不満の音を奏で始める。
「三限くらい我慢しなさい。で、終わったらまた一緒にスパゲティでも食べに行きゃいいわよ」
「またご馳走してくれるのかい?」
「バカ。今日はアンタが払いなさい」
次の講義の部屋へと続く階段を登りながら、吾妻多英はまた笑い、命令した。
「この昼休みの診察代よ」
悪くない、と思った。吾妻多英という人間は「学生」で「学者」で「占い師」でもあって、今度は「精神分析医」だ。四足の草鞋を履いてまでこちらにかまってくれるなら、スパゲッティにコーヒー代くらいはお礼したって無駄遣いにはならないだろう。
いつ以来なのだろう。清々しい気分を僕は感じはじめていた。甘える、だとか、すがりつく、という意味をはじめて知ったのからなのかもしれない。
「ね、ね、波多野。話は終わったの? ター! また後で聞かせてちょうだいね」
甲高い声が、感興を粉々に打ち砕く。声の方を振り向くと、教室へと学生がなだれ込んでいく扉の脇に立っている中田一誠がこちらに大きく手を振る姿が視界に飛び込んできた。
「一誠!」
廊下に吾妻多英の大きな、それでいてうんざりとした声が響き渡る。僕は苦笑し、中田に軽く手を上げて応えると、その脇を通って教室へと入っていった。三限の後にこの奇人がレストランまでついて来てもご馳走はするまいと思いながら。




