第30回~昭和45年6月1日「あの娘のレター」(3)
六
階段教室での映画論の講義を、僕は吾妻多英の背中を遥か前方に見ながらで聞いていた。「宿題」の期限が来た以上は傍へ行って受講しても良いのだが、そうはしたくなかった。話すことはたやすいが、距離を作ったのが向こうである以上、その距離を詰め直すことは僕の役目ではないという感情をどこかで持っているのだ。
くだらない意地だ。吾妻多英に考えを吐きだし、その意見にすがりつきたい感情があるのに、痩せ我慢なのかそれが出来ない。いや、違う。彼女が本当にこちらを気にかけているのなら、このコマが終われば向こうが近づいてくるはずなのだ。
教壇では老教授が延々とアベル・ガンスの『ナポレオン』の映像美について解説している。この春からの授業において、彼が題材としてとりあげる作品はヨーロッパとソビエトのものが専らでハリウッドについては大して言及がない。多分、華美なアメリカが嫌いなのだろう。だから毎度毎度ハリウッド映画と、東映と日活のギャング映画に痺れてこの道を選んだ身にとってはズレた題材ばかりが提示される。しかし、嫌なものや難しいものから目を逸らすという点においては彼と僕はどこか似ている。
教授の指示によってカーテンが閉じられる。そして教室が暗くなりスライドが映し出された。小舟のナポレオンが荒波に揉まれているカットに、国民公会の議場に集う人々のカットが繋げられる箇所らしい。暗がりの中で、この一幕の技術的な凄さについて教授は熱弁する。確かに大したテクニックと発想がそこにあった。いや、それだけではない。何よりもそこには「感動」があった。
思わず低い声で唸ってしまう。そうだった、言うまでもないことだが、こういう自然な「感動」に近づく努力を僕は万事避けていたのだ。頭に妙な興奮が沸き起こってくる。ノートに教授の言葉とアベル・ガンスの名前を書きつけた僕は、一方でさっきまで頭をよぎっていたくだらない自尊心をうち消した。誰だって、頭の中には消しゴムの一かけらくらいは常備しているものだ。
距離なんてものは自分で詰めたらいいに過ぎない。もしくは全てにおいて、無かったのかもしれない程度のものなのだ。
大事なのは「会いたい」ことを臆面もなく話して、そしてすがりつくことだけだ。
七
講義の後、昼飯を思い描いてざわつきながら階上の出口へと向かおうとする同級生をかき分けながら、僕は空腹など二の次で階段を駆け下りるようにして吾妻多英の下へと向かった。もちろん、「宿題」の発表のためだ。弾む足のどこかに興奮があった。それは、例えば小学校の時に読書感想文か何かをクラスメイトの前で発表しようとする時の高揚に似ているのかもしれない。さしずめ彼女は教師みたいなもので、だから解答にしたがってこちらをどこかに導いてくれる指針を教えてくれるはずなのだ。「先生」に伝える内容は単純だが、そこに考えが至った二週間の思考から何からまで僕は伝えたたいのだ。
「ああ波多野クン…………。いよいよ期限来たわねえ」
「ああ、なんとか用意出来たよ」
こちらが用意した精一杯の微笑みに反応する少女の瞳は、こちらからすればその黒目を視野に据えるだけで懐かしさみたいなものを思い出させた。彼女がこちらに視線をあわせようとすると、その恰好を気に入っているのかポニー・テールの後髪が鮮やかに宙を舞う。
ただ、彼女は一人ではなかった。生き物のようなお下げ髪が振り下ろされた先、要は吾妻多英のすぐ横の席に陣取っている人物が、こちらのやり取りから間をおかずに甲高い声を発する。
「こりゃこりゃそこの。期限だ用意だって、ターに波多野、一体全体何の話をしているんよ?」
演劇学科の同級生である中田一誠の野次馬的な興味をたたえているであろう癖の強い大きな目がこちらの顔を覗きこんでいた。どうやら、「先生」への添削の提出の前にはちょっとした障害物があるらしい。僕は吾妻多英の小さな瞳と、中田の、そうだ、死んだ福村さんを思い出させるようなギョロ目と濃い眉毛を交互に見返しながらもう少しだけ微笑みを作ることにした。邪魔者を前にしたとなると、解答のタイミングはまだ少し先なのかもしれない。
秋田の山奥の鉱山町出身の中田は、変わった人間として学科どころか学校内で専ら評判の男だ。熊のようなひげ面と肩までの長髪、痩せた身体という出で立ちは否応なしに人目を惹き付ける。これで女性物の花柄プリントのシャツを垢でテカらせた態にしながら一年着込んで、酒に酔わずとも素面で女言葉の駆使までするとなれば、これはもう外見だけは全学変人オール・スターチームの四番打者候補といってもいいだろう。
「あ、中田君か」
評判のややこしい男を前にして意気を削がれてしまった僕は、まるでお天気を話すような間抜けた声を秋田生まれのひげ面に返してしまう。
一方の吾妻多英はこちらほど優しくはないようだ。のんびりとした返事をかえしたこちらを横目に珍客に厳しい口調で言葉を与える。
「一誠! 人の話に首を突っ込む癖、いい加減にどうにかしたらどうなの?」
「ター、そんな冷たい科白を言うんじゃないのよ。惚れた女子の一挙手一投足を見つめたいのが男の性なのよ」
他の学生はとっくに食事をとりに行ってしまった。誰もいない階段教室の中で、厳しい吾妻多英の言葉と、どこかノンビリとした面持ちの中田の声が交互に反響していく。
「一誠、『男』なんて自称するなら、髭か髪か服のどれか何とかしなさいよ」
「まあまあ。いつも言ってることだけど、同じ東北人同士、優しくしてよね」
「私の故郷とアンタのところは何百キロと離れているじゃない! 同郷でもなんでもないわ」
「相変わらず冷たいなあ。俺だって波多野の話、気になるというのによ」
「冷たいわよ。さ、アンタに関係ない話をするんだからサッサと引っ込みなさい」
「ターは手厳しいな。かなわないねえ」
「何回断っても懲りずにデート申し込んでくるバカに優しくなんて出来るわけないでしょうが。さあ、いったいった!」
「分かった分かった」
中田は苦笑しながら手をヒラヒラと情けなくふると、僕と吾妻多英に背を向けて教室中央の階段を昇りはじめる。が、数段足を進めたところで立ち止まると、もう一言だけ彼女へと提案をする。
「じゃあさ、ター。二人の話にクビを突っ込まない見返りに俺と『やくざ刑事』を観に行ってくれない?」
「美少女を誘うとするならスマートな題の作品をもってこない時点でお断りだわね」
「ドゥハハ。また、ターに失恋だわ。なので痛手から立ち直るためにパンでも食うとするかね」
八
何回目かの少女の罵倒に笑い声で対した中田は、間の抜けた高笑いを発し、今度こそ階上の通路へと消えて行った。靴音が遠ざかるのを確認すると、吾妻多英はため息を一つこぼした。
「東北は広いのよ波多野クン。だから私みたいな美人からあんなアホウまで人材が揃ってるのよ」
「白河の北は魔境なのかね」
「さあねえ」
少しクビを傾げた吾妻多英は中田に関する話をそこで打ち切った。そして、机の上の一切合財を鞄へと詰め込みはじめる。
「ま、アイツには色々と面白いエピソードがあるからね。以前、東北人の会で耳にしたことがあるわ」
「へえ……例えばどんな?」
「波多野君、それは今はどうでもいいことよ。もっと大事な話が先にあるでしょうが」
ショルダーバッグの荷造りを終えた彼女の眼がじれったそうにこちらを見据えている。
「ああ……」
「で、どうなの?」
座席から離れた彼女はこちらの横にたつと発言を促す。
「その……、もう一度だけ会おうと思うんだ。それでこの恋はおしまいにしてしまいたい」
「ふうん」
予想に反して「先生」の反応は鈍かった。吾妻多英は僕の脇をすり抜けるようにして階段へと向かうと、もう誰もいない大教室を静かに昇り始める。あわてて後を追いかけると、その歩調はこちらを避けるかのように上がっていった。どうやら昼飯でも食べながら話をする雰囲気ではなさそうだ。
「ねえ、波多野君」
彼女が次に僕に向かって言葉を投げかけてきたのは、第二校舎を出てしばらくたってからのことだった。最早、「先生」に導いてもらうなどといった悠長なことは言ってられない。『ナポレオン』も吹き飛んでしまっていた。原因の分からない、彼女を不快にさせた理由を探すことだけで精いっぱいだった。
理由など分からないし、見つけようにも時間はかかるだろう。おもむろに『クール』を口に咥えた吾妻多英は、初夏の空に煙を漂わせるとこちらを射るような眼差しで見つめた。いや、睨んだとでも言い換えた方がいいのかもしれない。
小さな唇がゆっくりと開かれ、この二週間の葛藤に対する評価が始まる。
「一体全体、あなたはいつまで大貫さんを苦しめたら気がすむの?」
彼女は相変わらずの表情でこちらを見つめている。その瞳を見つめる僕の胃袋からは、空腹なんて消え去っていた。




