第3回~昭和42年6月18日「ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・グッド」(中)
四
ミニのワンピースの少女と僕ら以外の人間が、殆ど競馬の重賞目当ての客だった電車から、仁川駅で男性客がどっと降りて行った。仁川には阪神競馬場があるのだ。逆に、この時間にこの駅から乗り込んでくる男ともなれば、近所の人間でないなら最終レースの重賞を待たずに大負けした連中ということになる。眼鏡をかけた小柄な、若いサラリーマン風の男性はまさにそういった部類の人間だった。
負けた腹いせに酒をあおったのか、赤ら顔で少しフラついたような足取りのその男は、与しやすそうな客を見つけて憂さ晴らしに絡もうとするつもりなのだろう、車内の乗客をじろじろと眺めはじめた。客の少なくなった車内にあって、足を長く出したミニのワンピースの少女なんて存在は、そんな男にとっての格好の標的となりやすいことは明白だった。
電車が次の小林駅に向けて動き出す中、僕は今座っているクロスシートから一番近いドアの傍らに立っている少女の顔をチラリと見た。酔漢の登場のために緊張で曇った顔は、それでも口を真一文字に結んでいる。男は、少女の白い足をじろじろと眺めはじめ、ドアにもたれて立っているその姿に近づくと、やがて口を開く。
「おい、姉ちゃんよう。暑いからいうてそないに太もも出してええ気分か? ええ?」
その時だった。
「おう、ハタ坊、昨日阪急勝ったんか?」
突然、石堂がほとんど怒鳴り声といった感じで僕に向かって声をあげた。野球部で一年間、ベンチから声を出し続けていた彼の声は野太く、高校生とはいえ周囲を威圧するものがあった。
「あー、ああ。ウィンディが木樽からホームラン打ってオリオンズを7対5や」
僕は、大音声が石堂から出るとするならば、きっと男に向けてだろうと思っていたから、突然の問いに驚きを隠せなかった。もっとも試合結果自体は今朝新聞で確認してたから答えられはしたが。
「ほうか。いや、今年の阪急強いなあ。今、確か首位ちゃうんか?」
石堂が続ける。彼はカラーを緩めた制服で、女の子の方を見ることもなく、さっきから変わらずに腕を組んで前を見ている。それでも、酔っ払いにとっては十分だったのだろう。少女に絡もうとする次の声は聞こえてこない。
「せやな。今年はいよいよ優勝狙えるかもしれん」
初優勝に向かって快進撃を続けるブレーブスの現状を答えながら僕は察した。きっと石堂は、大声で他愛もないことを張り上げることで、男に対して暗に『客が他にもいることを忘れるな』とアピールしようとしているのだ。そうだとすると、僕も一つ、彼の企みに乗っかってもいいだろう。
しかし、どうもそれは早計だったようだ。石堂は僕の言葉が終わるのを待っていたかのように男の方に振り向いて、ともすれば少女ににじり寄ろうとしていたその姿を見据えながら言い放った。
「いやね、ハタ坊、そんな時でも阪急ン中で女に絡んでいるアホもおるんやな思うてな」
そう言うと、石堂は男に向けてアゴをしゃくった。どうやら最初から彼は、「正攻法」で男を一喝するつもりだったらしい。ただ、そこに多少のからかいも入れたいがためにわざわざ阪急の試合だなんだと前置きを必要としたのだ。
「ホンマにな。馬で負けたらおとなしゅう家帰ってラジオで阪急の試合聴けばええのや」
僕も男の顔を見据えながら続ける。怯えているかも知れぬ『松原智恵子』の心情を考えると、口火を切ったのが石堂であっても、こちらなりに怒りが込み上げてきたのだ。
「なんだとこん餓鬼ども」
男は少女から離れ、僕らの方に向き直る。高校生にたしなめられたのが余程シャクに触ったのか、顔はみるみるうちにアルコールのせいだけではない赤みを帯びてきている。
「なんやお兄さん、やんの? やるにしてもそのチンマイ身体で俺らに敵うとホンマに思てんのか?」
僕は座席を立ち上がった。百八十二センチを誇る石堂ほどではないが、こちらだって百七十三センチとそれなりに身長はあるし、中学校で水泳部にいたこともあるから多少の体力だってある。背の低い痩せた男くらいなら、なんだかんだ一人でド突き倒す自信はあった。
「せや、そこのオナゴと違うてこっちは結構強いでェ」
僕の横から、石堂もヌッとその巨体の全貌を男に誇示する。
勝負はあった。男はひとしきりこちらを睨んだ後、舌うちの後で床に唾を吐き、背中を向けて空いている座席を探しはじめた。その姿に石堂が追い打ちをかける。
「おいお兄さんよ、最終レース待たんで有り金失くすような馬券の買い方、もうしたらアカンでェ」
席に座り直しながら、男に対する石堂の最後の仕打に僕は苦笑した。これじゃ、まるで勝ってる野球の試合の九回裏まで攻撃をするようなものだよ。
ふと、少女はどうなったろうと彼女の方を振り向いた。相変わらず少女はドアの前に立ったままだ。だが、やがてこちらの視線に気づいたのか僕らに向かって軽く会釈をした。それを見た僕は、石堂をつつくと二人して彼女に会釈を返した。
外の風景を見ると電車はいつしか小林を過ぎ、逆瀬川へと向かってる最中だった。その間、ドアの開閉や他の乗客の乗り降りに気づけなかったところを見ると、こちらはこちらで酔っ払いと相対するのに夢中になっていたらしい。
少女は会釈をしたきり、こちらに何の反応もみせなかった。一応男がまだ、近くの座席で吊り広告を眺めながら同じ車内にガンバっている。「退治」されたとはいえ、なおその場に居座ることで最後の意地を張っている男を刺激したくないのだろう。隣の席で再びドッカと腕を組んで座っている石堂の本心は知らないが、僕は別にそれでもよかった。見返りとか、そんなんではなく、単に可愛い子にエエかっこしたかっただけなのだから。それでも仮に何かあるというなら、それはきっと終点についてからだろう。まあ、それくらいの淡い期待をもったって、別に罰はあたらない筈だ。
なのに、だ。宝塚の駅でドアが開くと、石堂は男が独り改札へと階段を降りていくのを確認すると同時に、「ハタ坊スマン、俺ちょっとトイレに行ってくるわ」と言い残して乗っていた最後尾の車両から一番遠い、先頭車両が停まっているその更に先にある便所へと駆け出して行ったのだ。仕方なしに僕も小走りに彼の後を追いだす。最早『松原智恵子』が近づいてきてくれて、お礼を言ってくれるのを待つ、などというちょっとした期待はどこかに消し飛んでしまった。
「ホンマ、お前アホやなあ」
便所から出てきた彼に対し、僕は腰に両手を添えながら呆れ声を出した。
「せっかく『松原智恵子』にエエとこ見せたのに、万が一にも声がかかるチャンスをションベンなんかで潰してからに」
こちらの呆れを含んだ軽い非難に対し、石堂は申し訳なそうに頭を掻きはじめる。
「いや、ハタ坊スマンな。別に用を足したかったんとちゃうのよ」
「なんやいなソレ」
「あの美人にさっきのお礼言われるかもとか考えたら、何や照れくさくてナ。トイレにかこつけて逃げてもうた」
僕は天を仰いだ。もっとも視線の先にはホームの屋根が広がっているだけだが。
それにしても、だ。アホちゃうか、コイツ!
「長生きするよ、イシは」
改札口に通じる階段を振り返ると、当然だがワンピースの少女はもういなかった。僕はガッカリして情けないため息をついた。
しかし、よくよく考えたら石堂は昔から女の子に評判になったとしても、また「モテたい」と日頃口癖のように言っていたとしても、その評判や願望に対して行動ができる人間ではない。中学の時から彼が女の子と二人きりで言葉を交わしている姿なんて見たこともないし、野球の試合の際に女の子達から弁当を受け取っても「ん、すまんな」「ん、美味かった」の二言しか発しない人間だった。そんな石堂なら、今回のような事態だとどう対応したらいいか分からず逃げてしまったのも無理がないのかもしれない。
五
「で、ハタ坊、今日は何を買う?」
改札口を出た僕らは、駅前の商店街にあるレコード店にいた。宝塚ファミリーランドと大劇場の前の整然とした道とは比べ物にならない狭苦しい道にあるこの店は、店内も同じように狭苦しい。歌劇の門前町だけあって、レビューの実況録音や越路吹雪あたりのLPが店頭に置かれてこそいるが、奥へと分け入れば僕らにとって悪くないと言い切れるだけのポピュラー系統の品も扱っている。ここに半月に一度、小遣いをやりくりしてポピュラーやロックバンドのドーナツ盤を買いに来るのが二人のお決まりだった。僕がピーターとゴードンのコンサートを観て以降のことだから、もうかれこれ二年になる。
「この前はビートルズの『ペニー・レイン』とローリング・ストーンズの『ルビー・チューズデー』やったさかいな」
店内にうすくティファナ・ブラスの『蜜の味』が流れる中、奥の我らが「パラダイス」に辿り着くと、新譜のドーナツ盤を素早く棚から抜き差しして確認しつつ、石堂は僕に意見を求める。
「俺、最近ええ曲やなあ思うのがあるんや」
僕は隣の棚から最近噂を聞かなくなったエルビス・プレスリーの『青い涙』を取り出して、そのジャケットをまじまじと見つめながら答えた。
「へえ、なんていうバンドなん?」
「ほら、バッキンガムズておるやろ」
「ああ、『カインド・オブ・ア・ドラグ』のね」
そう言うと、石堂はバッキンガムズのデビュー盤を取り出した。ラジオの「オール・ジャパン・ポップ20」で確か先月のはじめには二位まで上昇した、ポピュラー・ファンの中では大人気の一曲だ。
「しかし、これはアカン、ギター二本で練習するにはトランペットとか入ってリズムとるのがエラいわ」
バッキンガムズを手に取りながら、石堂はブツブツと言う。ここ最近の僕らは、今までのように単に「好きだから」レコードを買うだけでなく、「自分たちで真似出来るか」も主題に置くようになったわけだから、それは当然の反応だった。
軽快なホーンで始まり、間奏はピッチの速いオルガン・ソロで決める『カインド・オブ・ア・ドラグ』は、ギターをいじるようになって間もない僕らにとってギターのみで再現するには難曲に違いなかった。しかし、僕の目的はそこにはない。
「まあ最後まで聞きナ。そもそも僕かてあの早口の歌は真似できる気がせん。そうやなくて、そのB面の『ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・グッド』いうのがゆったりしたメロディーやけどエラい洒落て格好いいんらしいんや」
「へぇっ。それ、結構イカしてるんか?」
「ゾンビーズたらいうイギリスのグループのレパートリーらしいんやけどな」
「ゾンビーズかあ、知らんグループなあ。ところでハタ坊、それがエエ曲て誰に聞いたんや?」
「芳村さんやがな」
「ケッ。ハタ坊、そらアカン。芳村さんの推薦だなんて絶対アカン」
石堂の僻み節がまたぞろ出ようとした時、僕らの背後から女性の声がした。
「ゾンビーズっていうのは、『好きさ好きさ好きさ』のグループですよ」
声の方向に僕と石堂が顔を向けると、電車の中のミニのワンピースの少女が僕らのすぐ後ろに立っていた。
「ほら、この前デビューした日本のカーナビ―ツの元歌を歌ってたグループ」
呆気にとられてるこちらにおかまいなく、彼女は言葉を続けた。
「アンタは……」
石堂が何か言おうとしたが、彼も驚いているのか次の言葉が喉から出てこようとしない。
「先ほどはありがとうございました」
少女はポピュラー・コーナーの狭い通路の中にあって、女性にしては比較的高い身長を深々と折り曲げ、四十五度のお辞儀をした。黒い髪の毛が僕と石堂の鼻先をかすめ、ほのかなシャンプーと香水の匂いが飛び込んできた。
「ホントは宝塚の駅でお礼を言おうと思ってたんやけど、お二人とも駆け足でどこか行っちゃって……。そしたら私も行くつもりだったこのお店に入って行かはるのが見えたから、あ、これでようやくお礼言えるな思たんです」
彼女はそう言い、口元に笑みを浮かべる。僕はその微笑みをボンヤリと見つめていた。松原智恵子がナンボのもんや。日活のスターの半径一メートルになんか僕はとてもじゃないが近づけないが、こっちは自らその距離まで近づいてきてくれたのだ。
「いえいえ、しょーもないことにならんでよかったです」
僕は笑いながら彼女に向かって答えた。声は、まあ上ずらなかっただろう。ドギマギしている分には上出来な方だ。
「ウハハハハハ」
突然、石堂が怪奇映画の悪漢のような奇妙な笑い声をあげた。かと思ったら、突然平手で僕の頭を軽くはたき、こちらの身体を押しのけると彼女の前に進み出た。
「僕は石堂一哉いいますねん。こっちのちょっと小さい方が波多野、略してハタ坊」
頭をはたかれて少しふらついた僕の横で、彼は何ともいえないような不思議な笑みを浮かべながら自己紹介を行う。まあ、悪くはない。こちらは電車の中であれやこれや夢想にふけった割には自分の名前を名乗るなんて、終ぞ考えてなかったのだから。
「『おそまつ君』のハタ坊からあだ名、つけたったんです」
「まあ」
彼女は今度は口を右手で隠しながら、石堂に向かって笑い返す。
「でしょ。僕、名づけのセンスがあるてガッコ内で評判になりましてなあ」
三人分の笑い声が、狭い店内に溢れかえった。笑いながら僕は、石堂も出るとこ出たら、ちゃんと女の子を相手にすることが出来るんやなあ、などと考えていた。要は今までの中学時代や高校生活ではまだ、彼の中でそういう度胸がなかっただけなのかもしれない。
「私、大貫恵子と言います。石堂さん、波多野さん今日はありがとうございました」
ひとしきり笑いあった後、彼女ははじめて自分の名を告げ、改めて礼を言った。そして、プレスリーとバッキンガムズを手に取ったままの僕と石堂の手元を覗き込む。
「お二人は何を買いはるんですか?」
「俺は結局これですわ。バッキンガムズ!」
石堂はドーナツ盤を右手で得意そうにかざすと、言葉を返す。何が「芳村さんの推薦はアカン」だ。美人に曲のあれこれを紹介されたらコロリと自分の信条を鞍替えしやがった。
「僕は、どうするかなあ」
時流に取り残されたプレスリーを買う気はしなかった。『青い涙』を棚に戻し、しばらく考えると、代わって最近ラジオで聴いて、これはいいなと思っていたホリーズを棚から抜き出した。
「僕はこれやな。『恋のカルーセル』。ところで、大貫さんもこういうポピュラー好きなんですか」
バッキンガムズとゾンビーズとカーナビ―ツの曲の関係をスラスラと説明した大貫恵子は、まず間違いなくポピュラーやエレキが好きなのは明白だった。ただ、一応形式的に訊いておきたかったし、彼女がどういったグループや歌手を好んでいるのかを知りたかったのだ。
「ウチのお目当てはデイブ・クラーク・ファイブとビートルズのLP」
そう言うと大貫恵子は僕と石堂の脇をすり抜けて、LPレコードのコーナーからデイブ・クラーク・ファイブの『ナインティーン・デイズ』とビートルズの『オールディーズ』を慣れた手つきで抜き出した。一人称が「私」から「ウチ」へとすぐに変わったのをみると、僕らが同じポピュラーファンだからと少しくつろいだのかもしれない。
「LPか。大貫さん金持ちやなあ。しかも一度に二枚って」
石堂が驚きの声をあげる。声にこそ出さなかったが、僕も同じ気分だった。一枚が二千円はするLPなんて、僕と石堂二人あわせても片手で数えられるくらいしか持っていない。
「好きなんやもの。しょうがないわよ」
大貫恵子は肩をすくめておどける。
「それにしてもなあ」
彼はなおも羨ましそうに言葉を続けようとする。が、大貫恵子の言葉がそれを遮った。
「石堂さん、波多野さん、この後予定はあったりしはります?」
突然の質問に、僕と石堂は漫才師のコンビのようにお互いの顔を見合わせた。二人とも、その意図がピンとこなかったのだ。
「そうですねえ。甲東園戻って、どちらかの家で晩飯までギターの練習かなあ」
しばらくの沈黙の後、二人を代表し、散髪をしばらくしていないからオール・バックのようになった髪の毛を掻きながら僕は答えた。
「なら、その前にちょっとその辺で冷たい物でもどうですか? さっきのお礼にお二人にごちそうしますから」
大貫恵子はまたもや笑みを浮かべた。そして、彼女はくるりとこちらに背を向けると、店の入り口にあるレジスターへと会計のために歩きはじめた。突然の申し出に僕と石堂はもう一度ばかり顔を見あわせた後、買う予定のドーナツ盤を手に、おずおずとその後をついていった。
腕の時計はちょうど三時をまわったところだった。今日の練習の開始は、少し遅くなるかもしれないな、と僕は思った。