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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
29/89

第29回~昭和45年6月1日「あの娘のレター」(2)


 日付が変わってから一時間ほどで、講義の準備は終わった。無理をして買った映画論の原書を少しだけ訳してみたら、後はまあ、大したはない。

 一つ伸びをして一日の体を労った後でコーヒーカップとテキストを片付けた僕は、かわって玄関横の流しの脇の戸棚から二級酒の一升瓶をコップとともに取り出す。この前のゴールデンウィーク終わりに店主が「ボーナス」と言いながらくれたものだ。勤勉に仕事をしてると、たまにはそんな妙なことに出くわす時もある。もっとも、貰って一月近くになるが量はあまり減っていない。ビールと焼酎なら際限なく喉に流し込むが、日本酒にはめったと食指が動かないこちらの趣味のせいだ。二級酒は、あれは悪酔いしてしまう。

 でも、今は悪酔いしたい感情があった。「自分がしたいこと」に結論を出さなきゃいけないのに、出しきれてないふがいなさを素早い酔いでまぎらわしたかった。

 冷酒を一口ばかり胃まで送り込む。そして、まだ片付かない、「失恋学者」に課された「宿題」へと思いを移す。


 吾妻多英に距離を置かれてからというもの、彼女の指示に従って、僕は自分の願望は何かを考えるようになった。ハッパをかけられなければ、考えるということに思いが至らなかったのだ。考えないで自分をあてもなくさ迷わせることは簡単だったが、彼女に愛想をつかされることの怖さの方が先立ってしまう。万が一にも「甘え」られるかもしれない存在をこちらの怠惰のうちに失うのは真っ平なのだ。

 最初のうちは日々の平穏を手に入れることが自身の望みか、と考えた。おケイを忘れて講義に出、酒屋で勤勉に働く。そうやって凡庸な学生になればいいのだろうと思った。でも早計だった。講義とアルバイトの両立は大学に入ってからずっとやっていることだが、その間の僕の心は別に平穏ではなかった。高校の頃の複雑な感情がやがて不安に変わり、そして絶望へと進化していくだけの一年とちょっと、その間に繰り返していたルーチン・ワークに過ぎないのだ。真面目な学生を気取っても何の解決にもならない。それは、今までやり続けたことであり、その裏にある感情の安定までをもたらしてくれるものではない。

 僕は鈍いのだろう。だから喜多方の少女と最後に話した五日後、トラックの荷台での荷卸しの最中にそのあたりに気づかされるまでただただ、そんな風にぼんやりと考えていた。「わかば」を百本近く費やしてからのことだ。


 新しい「わかば」を買い求めながら、次の回答を僕は探そうとした。多分、百二十一本目くらい~十一×十一、まるでサッカーだ~の「わかば」にマッチで火を点けた時のことだが、将来の志望に邁進することこそ「やりたいこと」の全てになるのではないか? という考えが起こった。映画好きとして映画会社に入る、そんなかねてからの目標を「宿題」として据え置くことは別に悪いことではない。

 でも、やはりそれも違うのだろう。ここ最近は斜陽で、求人も少ないであろう映画産業に割って入るのは至難の業だ。が、それでも就職試験は来年の秋口の話だ。吾妻多英の話す「やりたいこと」は、そんな先を見据えてのものではないだろう。彼女がこちらの口から話させようとしていることはもっと、例えば即席ラーメンのように時間を要さないで実現できる話についてなのではないだろうか。そしてまだ彼方にある就職試験は便利な中華麺の代わりにはならない。


 結局、何も見つかっていないのだ。机に向かいながら二口めの安酒を口に含むと僕は少しだけ笑った。頭の片隅が、見つかっていないフリをしているだけで、「宿題」の中身を口にすることは実は簡単なんじゃないか、と主張するからだ。問題はそれを口にするということは砂上のナントカ、叶うにはあやふやな面が多いということで、だから、「こうしたい」と吾妻多英に言い切るには拙劣だし整理出来ていないのだ。

 自嘲の産物である笑顔のまま、僕は引き出しを開ける。そしてタバコの煙で黄ばんだ便箋を取り出すと、いつものように丸文字を眺める。この手紙を受け取った時からの日課のようなものだ。願望なんてものはどうせ、このあたりに転がっているかもしれない。そうだとすると、「答え」は周縁をウロウロしてお茶を濁しても見つからない。こちらの頭脳が、懐かしい丸文字の向こうまで突き抜けていく何かを思いつかないのが問題なのだ。


 僕は新しい「わかば」で便箋をさらに黄ばませると卓上のラジオを点けた。深夜放送の時間だった。過去への急行列車に乗りたかったのだ。流れて欲しい曲があった。

 そんなに昔のことでもない。あれは高校二年生の冬だったか、それとも三年生になったばかりの春だっただろうか。黒人のリズムを真似て白人のバンドが熱唱する「あの娘のレター」のドーナツ盤を貸してくれたのはおケイだった。

 単純な物語で構成された歌だった。恋人の手紙を受けて飛行機で故郷に向かおうとする少年の胸のうちがドスの効いた声によって繰り広げられる二分足らずの曲だった。それでもあの頃、雄々しく滑走路を飛び立とうとするジェット機の姿が、続いて、だだっ広いであろうアメリカの飛行場の搭乗口で慌てふためく少年の姿が目に浮かんだものだ。カリフォルニアか、シカゴか、まあどこでもいい。そういう幸せな知らせで泡食って動く男だって、絶対に世界のどこかにはいるのだろうということが肝心なのだ。

 いつかはそういう手紙が自分の手元に届く日が来るかもしれない、それこそ西宮へ帰るために羽田から伊丹へとジェット機で帰らなければ間に合わないような瞬間が来るかもしれないという期待を僕はいつも持っていた。ただ、ふり返ればふり返るほどに僕の欠点は臆病なことだったのだろう。その結果、届いた手紙はかつてのときめきとは真逆の内容にしかならなかった。だから僕はまた便箋にタバコを吹きつけた。多分、吾妻多英と最後に会ってから二百五十六本目くらい~ルーキーの上田の背番号の二乗~の一服だ。

 灰皿でタバコをすり潰しながら僕は身を乗り出してトランジスタ・ラジオにすがりつく。どこかの奇特な人間が「あの娘のレター」のリクエストしていることを心待ちにしながら。

 果たして「あの娘のレター」は、当然ながら流れなかった。当たり前のことだ。そんなに都合よく過去へと誘ってくれるほど、ディスク・ジョッキーは僕を甘やかしてはくれない。だから代わりに今をときめくジャクソン・ファイブの「ABC」が流れ出す。 変声期を迎える前の可愛らしい男の子の声が、弾むように僕の脳内へと行き渡る。

 色んな人々が70年代という次の新しい10年を迎えようとしている中、最近やたらとアメリカで評判がいいらしいこのグループの人気はいつまでもつのだろう。大体が声変わり前の歌声を売りにしている以上、青年になったら彼らの人気が落ちてしまうのは目に見えている。1980年どころか、75年までも人気はもたないだろう。成人する前に頂点を知ってしまった彼らは、その後の人気を失ってからの長い人生で幸せになれるのだろうか。



 僕は幸せにはなれなかった。綺麗だった恵子も、嫌味な福村さんも、クソッタレの石堂ですら大なり小なり不幸を知った。だから「何をしたいか」という問いに対応する行動を今になって実践したとしても、それは皆の不幸を挽回できるような行動にはならない。答えが見つかっても、それが僕個人がかつての想い出に折り合いをつけていくものにすぎないということは分かっている。

 それでも、そういった「過程」がなければ僕は前を向けないだろう。過去を葬って明日に進んでいく儀式がどこかでどうしても必要なのだ。


「会いたいんやなあ」


 ふと、無意識に近いところから声が出た。それは、二週間考えあぐねていた何かが自然と口をついた瞬間でもあった。

 それだけを呟いた僕は、なぜか慌ててコップに残っていた酒を呷った。そうだった。それが「答え」だった。なんのことはない願望だが、途方もない願望である。好きだった女の子の顔を見て、少しだけ笑いかける。その後に他愛もない話をして、それから別れを告げる。それだけのことが今、「したいこと」なのだと気づいたのた。吾妻多英に打ち明けたら、彼女はどんな表情をするだろうか。やはり、「女々しい」だとか「自慰」だなんだと断言して嗤うだけなのだろうか。


 無邪気な少年達の「ABC」が終わった。ラジオはスターを生み出し、そしてこちらがその存在に気がついた頃にはあっという間に流し去っていく。そういえば、あれほど僕を興奮させたピーターとゴードンはどうしているのだろう。神戸の国際会館のうす暗い明りに照らし出されたメガネをかけた良家の坊ちゃん然としたピーターと、長髪の似合う端正な顔のゴードンも例外ではなかった。ジャクソン・ファイブの男の子もまた、そうやってどこかに消えていくのだ。ビートルズですらそうだった。スターは僕に寄り添ってはくれない。いや、数年のうちに僕がスターを消し去ってしまうのだ。五年なんて時間は、どこかで人を白けさせる。

 それでも、だ。


「会えたらそれでええ」


 僕は机に頬杖をついてひとりごちる。働いた後の酒は少量でもよく染み渡る。それが大して好きでもない二級酒なら尚更だ。

「宿題」は整った。おケイにもう一度だけ会うのだ。そして、泣きたくなるような日々はもう終わりにしなければならない。僕はもう一杯不味い酒を注ぐべきか悩み始めた。

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