表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
28/89

第28回~昭和45年6月1日「あの娘のレター」(1)


 講義とアルバイトを終えて下宿に戻ると夜中の十一時だった。シャツを脱ぎ、ランニング一枚の気楽な格好になった僕は、ようやくにくつろいだひと時を手に入れる。

 ガス台に立ち、コーヒーを淹れる支度をする。砂糖は切らしてしまっているからブラック・コーヒーになってしまうが仕方がない。いや、よく働いたといえる晩なら多少苦みばしった味の方がかえって疲れを癒してくれる場合だってある。

 カップに注いだコーヒーを片手に、僕は窓際の机へと移動する。椅子に座り、少しだけ机に身体を前のめりにもたれさせながら喉奥へと苦味を放り込むと、窓の外へと目をやった。大家の老夫婦が住んでいる住宅の黒い影が、小雨混じりの中にぼんやりと浮かび上がってくる。夫妻の夜は早い。テレビやラジオの音も漏れ聞こえてくることはないし、部屋の明りすら這い出てはこない。老いの先には死が待ち構えているであろうに、彼らは今日も眠りに時間を費やしている。いつものことだ。

 二十歳の僕はそうはいかない。やらなければいけないことも考えなければいけないことも山積みなのだ。彼らのようにやることをやった上で贅沢に時間の空費を行うという贅沢からは程遠い人間だ。講義、アルバイト、再来年の就職試験。それから……。


”自分がどうしたいのかを少し一人で考えた方がいい”


 明日の映画論や舞台芸術のテキストを机に並べ、簡単に予習をはじめようとする僕の頭に、吾妻多英が投げかけてきた言葉が蘇る。明快な意見だった。ただ、言葉を理解し自分が何を望んだとしてもそれを得る方法など何一つとしてひらめくのは難しい。

 彼女に言わせれば、この数年、ある一点において僕は多分間違いを犯し続けたのだろう。では、どうすれば僕はまだ妥当な現在を手に入れることが出来たのだろう。そのあたりを彼女に答えを求めたいという感情がどこかに残っている。

 しかしこの二週間近く、僕は彼女と会ってはいない。



「ああ波多野クン、何か用?」


 新宿中央公園で話を交わした次の日、四限の講義終わりに彼女へと話しかけた時に放たれた言葉は、驚くほど冷淡なものに感じた。ジーンズ姿は相変わらずだったが、今までとは違い、ポニーテールと呼ぶのだったか、要は長い髪を後ろで一括りにした髪形をしている。彼女の痩せた頬をより鮮明に浮かび上がらせるヘア・スタイルは、黒いブラウスと相まって今までとは違う近づきがたい雰囲気を醸し出している。


「何って……昨日のビールとたこ焼きのお礼を伝えなきゃと思って」


「そんなことで?」


 どこかへと移動しようとする彼女の怪訝な表情が僕をとらえた。こちらが話しかけても彼女は歩みを止めようとはしない。緩やかな速度であっても前を向いて進みながらでこちらに答えていく。五月の終わりに予定されている大学祭の準備で、学校の狭い敷地内は学生あり活動家あり、更には何がしかの資材らしきものをもってうろつく大学祭の実行委員会の連中まで加わってにわかに賑やかになっている。

 吾妻多英は顔がひろい。ヘルメットの活動家から普通の女子学生から、皆がすれ違いざまに気さくに彼女に声をかける。「多英」からきたのだろうか、「ター」というあだ名を呼ばれる時には彼女の顔には笑みが戻り、ささいな冗談を言い合っている。そういえば、僕はまだ彼女にどんなあだ名がついているかさえ知らなかった。しかしその気さくさのおこぼれには、今日の僕はあずかれないようだ。こちらに顔を向け直した吾妻多英の視線はとたんに冷ややかなものにかわる。


「波多野クン、今の私になら別の用があるんじゃないの」


「うむ……」


 結論が出てこない僕は、何も答えることが出来ない。何か彼女に伝えたい事があるのは確かだ。だからこそこうして会話を試みている。しかし、どのように考えていることを口にすればいいのかが見えてこない以上、何も話せないのだ。


「何をしたいのか、多少は考えられたんでしょうね」


 ほんの少しだが、彼女の表情が和らいだ。昨日の別れ際に発された言葉は、どうやら今日までの宿題だったらしい。


「いや……」


 伝えたい事はまとまらず「宿題」も用意してこなかった以上、何が言えるのだろう。僕らはいつしか中庭の噴水前まで達していた。ちょうどこの前声をかけられた場所だ。あの時と同じようにベンチは空いているが、彼女は座ろうとはしない。座るほどの会話を想定していないのだろう。


「まあ、そうだと思ったわ」


 噴水のまわりをブラリと歩きながら、吾妻多英は鞄から「クール」を出して火を点ける。彼女の細い目がより一層細いものへとなっていくのを僕は黙って見つめた。そして、心の中で舌打ちをする。この女の子の前で、今日も会話の主導権を握ることが出来ないことが明らかになってきたからだ。それは、今の僕がひざまずいてでもいいから何かの教示を欲しがっているという状況にいるということを差し置いても愉快なことではない。

 

「言っておくけど、この前のアナタと石堂君がしたような『傷の舐めあい』のために私にまとわりつくのだったら見当違いもいいとこよ」


「そんなつもりではない……」


 苦虫を噛み潰したような顔をそれとなく作り、一応は否定らしき返事をする。ただ、本心から彼女の言葉を否定するなんてことはこれっぽっちも出来ない。それよりも、ともすれば断定的な口調ともいえる吾妻多英の言葉に、安堵と驚きしか感じられなかったのだ。

「安堵」とは、抽象的にすぎるが、要するに僕が何を求めていたのかを彼女が分かっていてくれたことだ。受け入れられるか拒絶されるかは別にして、こちらの乏しい思考能力では伝えられなかったことを相手が把握していたということは、なおも表現を試みる労が省けるというものだ。

 そして、「驚き」とは言うまでもない。こちらの思考を吾妻多英が全て見透かしているという事実へのものだ。彼女が賢いのか、それとも僕の頭脳が拙劣にすぎるのかは分からないが。


「じゃあ何よ。あんな夜食のお礼は一言で済むわ。何か目的があるからついてきているんじゃない」


 咥えタバコの吾妻多英の視線は、「うんざりした」ものに変わっていく。いや、幾分の嘲りが含まれているといえるかもしれない。あちこちと場所を替えながら、この一週間こちらにつきまとってきた時の彼女はこんな目をしていただろうか。僕は戸惑いが表情にあらわれないように必死に動揺を抑え込もうとする。

 しかし、こちらの努力は空しいものに終わった。相変わらずに混乱した顔つきのままにしかなりようがなくなったのだ。

 突然、彼女の表情が冷たいものから、今までのようにこちらに興味を抱いているかのような、要はからかうような活き活きとしたものへと一瞬のうちに変わってしまったのだ。


「もしかして私に惚れた?」


 煙を一つ吐き出した彼女の顔に、不思議な喜色めいたものが見え隠れする。そしてそれは、相変わらずのタチの悪い冗談にしか聞こえなかった。おケイのことで、自分でいうのもなんだが打ちひしがれている人間に対して、無神経な一言にしかみえないのだ。惚れる? 冗談を言ってはいけない。甘えたくはあるが恋なんて覚えるわけがないじゃないか。僕は即座に否定の言葉を繰り出すことにした。


「いや、恋ではない……」


 吾妻多英の顔が曇ったような気がした。彼女は空に向かってアゴを突き出すと、もう一度ばかり煙を吐きだし、そしてタバコを投げ捨てた。言葉はない。代わりに、地面へと叩きつけられた『クール』が、僅かにではあるけれどプロムナードを跳ね上がっていく光景が何かをこちらに教えようとしている。でも、それを気にはしていられない。

 ようやくに僕は自分の言葉で相手に語る勇気を取り戻したのだ。


「助けてほしいんだ。僕は。吾妻さん、助けてくれないか」


 我ながら抽象的な言葉だ。しかし、今の僕が「宿題」の体裁を慌てて整えようとした結果は、これだけの言葉にしかなってはくれない。察してくれ、と思った。間違ってもこれは恋ではない。ようやくに甘えられる対象を見つけたのなら、そこにしばらくでいいから浸っていたいのだ。


「いい、波多野クン」


 呆気にとられたような表情で女の子はしばらくの沈黙を作る。そして五時限のチャイムが構内に鳴り響いた。同時に、吾妻多英は今日のスタンダードな表情である冷たい視線を取り戻すと諭すような口調でこちらに話しかけてくる。


「五月いっぱい時間をあげるわ。一度、どんなくだらない結論でもいいから、『こうしたい』と思うことを整理してみて。それまでは波多野クンとは一切話さない」


「二週間もかい」


 僕の持参した「宿題」はなっていなかったようだ。まあ、そうだろう。「何がしたいか?」と訊かれ、「お前に甘えたい」が答えである以上、白痴もいいとろなのだ。

 それでも、失望を覚えた。疲れ果てて「考える」ことすら出来なくなった僕を、吾妻多英なら無条件に救い上げてくれるとどこかで期待していたのだろう。けれど、その期待の代価は長い罰の期間の設定だった。

 彼女の口が再び開く。風が吹いて、ポニー・テールが生き物のように一瞬ゆらめいた。


「いい? 私が何か無条件で力になれるのはあなたが自殺でもしかねない状況になった時だけ。知り合ったばかりの男の子に死なれでもしたら目覚めが悪いからね」


「自殺? この僕が?」


「まあ、あなたは死なないわね。死ぬ度胸があったなら大貫さんに向き合うくらいできたはずなんだから」


 話をしながら僕はどこかおかしさが腹の底からこみ上げてくるような気がした。さっき彼女は言った。二週間口をきかない、その間に自問自答をしておけ、と。そこは理解できる。ただ、色々な過程を省略に省略したら、何故かはしらないがどうやら僕は失恋を苦にして死ぬ男として想定されているらしいのだから。

 ふと、先週のドイツ語の講義でのことを思い出した。「失恋野郎」をモルモットとして観察する、と言った彼女は助教授が入室してきた時に何かを言いかけていた。ひょっとするとその際の言葉とは、こちらの自死を案じたものだったのだろうか。

 気がつけば、噴水の周りから人は少なくなっていた。チャイムも鳴り、五限が始まった以上当然のことだ。何とはなしに僕は噴水を背にしてこちらの返答を待っている吾妻多英から身体を動かし、視線を真逆の方へと移した。新たに与えられた風景の奥には玉川上水が流れている。かつて高名な文学者が身を投げた上水だ。もっとも、飛び込んだ場所はもっと北西、三鷹の方だったはずだが。彼が死んだ理由には興味がない。そして僕はまだ死ねない。

 答えはまだ、さっきのように洗練されていない。ただ、「自分がどうしたいのか」という問いに対するもっとハッキリとした答えを用意も出来ないで死ぬなんて嫌だ。


「だから死なないくらいの苦しみには、自分で見解をだしてよ。そしたら検討くらいはしてあげられるから」


 背中から吾妻多英の言葉が届けられる。気のせいか、素っ気なさは若干薄らいだような気がした。僕は身体を彼女へと向きなおさないままで、「うん」と一つ返事をする。


「三年間もの貴重な時間、思考を押し殺してあなたに何が残ったの? 考えるのよ。そして時間を取り戻すのよ。そう考えたら二週間でも短いわ」


「ああ。吾妻さん、分かったよ」


 再び僕は吾妻多英の方に振り返った。そこにはもう、刺すような目つきの少女はいなかった。彼女は先週話しかけてきた時と同じような、くすぐったい目をしてこちらを見ている。


「二週間後、だから来月の二日まで待つわ。『失恋学者』だからね、私。助けてはあげたいけど、ヒント以外は学者として何もモルモットに投与したくないのよ」


 そう言うと彼女はショルダーバッグを小脇にかかえ、噴水から程近い第二校舎へと歩きはじめる。どうやら五時限目の履修があったらしい。僕はもう彼女を追わなかった。黙って、彼女が校舎へと消えていくのを見届けようとする。

 が、やがてプロムナードの切れ目にさしかかった時、吾妻多英は突然こちらをふり返った。そして、その際に発せられた言葉が、今の時点での彼女の最後のものだった。


「時間は短いのよ波多野クン、もっとしっかりしなさい!」


 話をしていた相手は校舎に消えた。そして噴水周りのプロムナードは意外なほどの静寂を蘇らせる。いや、いつものように活動家もいるし一般学生もいる。単に、僕が考え事をはじめようとするからその存在を重視しなくなっただけのことだ。

 ベンチに腰掛け、胸ポケットから「わかば」を取り出す。この安タバコを後何本吸ったら「答え」は言葉になるのだろうか、と思った。


 

 机の端の時計の針を確認する。後、十五分程で少女のいう「期限」の日がやってくる。すなわち、二週間がたとうとしている。 

 僕はポットからぬるくなった最後のコーヒーをカップへと注ぐ。ノートに視線を落としながらコーヒーを啜り、タバコを吸う。天井にのぼっていくか細い煙を見つめながら、一つ吐息をつく。答えは探し当てたともいえるし、見つからなかったともいえる。人に、吾妻多英に告げて納得させられるだけのものでなければ、また、少女に「オナニー」と切り捨てられるだけのものなのかもしれない。

 視線に違和感を感じた。窓の外にひっそりと眠っていた大家夫婦の家に灯がともったのだ。そしてそれは五分、十分と時がたっても消えようとはしない。おそらく老人達はトイレのような些細なことではなく、何かの用事を見つけたのだ。

 眠って時を空費していたのは彼らではない。僕だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ