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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
25/89

第25回~昭和43年6月25日「恋よ恋よ恋よ」(前)


 阪急を三宮で降りると、高架駅の改札をひと息に駆け下りて、元町まで出るために電車を乗り換えようとした僕の肩に何かが触れるのを感じた。


「阪神にも市電にも乗らんでええやないの?」


 そんな声に顔を後ろへと向けると、大貫恵子が僕の右肩に手を添えることで、こちらが阪神電車なり市電の停留所に歩き出そうとするのを「待て」とばかりに引き止めていた。


「しかしなおケイ、今日はまず大丸行くんやろ? 元町なら一駅いうても電車乗ったほうがようないか?」


 僕がそう返すと、彼女はこちらの肩に手を置いたままに、少しだけ表情を緩めてゆっくりと首を横にふった。


「ええやん。そんなんもったいないわ。……それに、久しぶりに神戸まで来たんやもん」


「そうかいな。ほな、おケイがそないしたいならそうしよか」


「ありがと! これで久しぶりに元町までのアーケード、ウィンドウショッピング出来るわぁ」


 その言葉と同時に、華奢な手が僕の羽織っているカーディガンからゆるりと離れていく。そして彼女は提案が認められたのが嬉しいのか両手を小さく胸元であわせると、阪急三宮駅前の雑踏で軽いステップを踏むような仕草を見せた。僕は、阪神電車の三宮駅に通じる地下街への連絡階段の前から身体を百八十度、恵子の方へと向け直しながらその一部始終を眺めていた。同意が得られたことを喜ぶには、いささか大げさに過ぎる感じだな、という思いがわずかに頭の中をよぎったが、そんなしょうもない思考はすぐにどこかに消えて行った。おケイが、こちらの一言で鮮やかなサイケ調のミニ・スカートで弾むように動いている、という眼前の事実に比べたらどうでもいい疑問でしかない。

 雑踏の中で僕は彼女から視線を外すと、首を直角に上げて昼下がりの晴天の空を見上げた。十日前から梅雨が始まっているはずだが、そんな風にニュースが伝えていたはずの空には雲も大して見えなかった。

 しかし、いつまでも空を見上げているわけにはいかない。やがて僕は、ゆっくりと視線を地上に戻した。するとやはり、眼前にはミリタリー調のジャケットに極彩色の花柄のミニ、編み上げブーツを履いたセミ・ロングの髪をたたえた少女が再び現れる。直に本格的な夏になる季節にしたら少し重装備すぎないか、と電車の中で思わずからかってしまうくらいのファッションが、彼女の意図通りかどうかは知らないが、こちらの色彩を徹底的に刺激しようとしてくる。

 僕は思わずため息をついた。


「波多野君どうしたん? いきなり空見上げたかと思ったら、今度はため息ついたりして」


 不思議そうな顔で恵子がこちらの顔を覗き込む。かしげた首筋をパーマでもあてたのだろうか、わずかにだけ縮れたような毛先が覆い隠していく。


「いや、なんでもないて。ただ、こんだけの晴天、もう、しばらくは見られへんやろなあ思うてな」


「ふうん……変な感じやねえ」


「そうでもないて。ほな、ぼちぼち行こか」


 怪訝な表情のままの恵子を尻目に、僕は変わったばかりの信号を確認すると駅前の大通りを渡り始めた。乗る必要がなくなった緑とクリームに塗り分けられた市電が二台、まばらな乗客を乗せて信号前にたたずんでいた。

 人ごみの中を、女の子に先んじて進んでいく事には長短二つの特徴がある。長所は、単に「男性として」先を歩いていくという特権を味わうということ、そして一々に大貫恵子のミニ・スカートから伸びている白い足に凝視してしまうしょうもない瞬間と下半身の違和感を味わわなくてすむことだ。前さえ歩いていれば、そういう視線を無意識におくる心配も肉体的恐怖も、そしてそれをおケイに気付かれる不安もない。

 一方の短所は言うまでもない。彼女の均整のとれた太ももに見とれる機会が全然ないという悲劇だ。


(どうにもいかんな……)


 アーケード街の入り口が徐々に視界の中で大きくなってくる中、僕は心の中でひとつ、呟いた。この場に石堂がいない、それだけのことでこの休日の繁華街にあって、傍らの愛くるしい存在が事あるごとに話しかけてくる人間はたった一人、僕だけしかいないのだ。こういう落ち着かない時、芳村さんや長髪の福村さんといった大学生だったらおもむろにタバコでも咥えて時間を殺すのだろう。でも、現実には僕はタバコが吸えないし、そもそもあの二人なら今の僕が感じているような動揺なんて微塵も感じないのかもしれない。あの手合いも、それなりに生活の知恵をもっているのだろう。

 それにしてもこういう時、いつもなら、おケイが何かをするとなれば石堂が指南役として豪放な笑い声で何かを的確に彼女に言って時を進めてくれていた。しかし、()()()()()()()()。元町へと続く広く長い三宮センター街のアーケードの門をくぐりながら、僕はふと、得体のしれない不安で逃げたくなった。いきさつはどうでもいい。心のどこかで思い描き、温めていた光景がほんの数日で現実のものとなると、どういう整髪料を頭になでつけてどんな服を着ておこうか、などという課題はどこかに消えていき、不安のみが残ってしまう。

 僕は再び顔を宙へと上げた。アーケードの天井には採光のグラスがはめられているとはいえ、陽光は駅前よりも当たり前だが鈍くしかさしこんでは来てくれなかった。


「波多野君、いったいどうしたん? ホンマさっきからなんや変よ?」


 気がつけば恵子は僕の後ろから前へと回り込んでいた。彼女は、人通りの激しい路上の流れをせき止めることも厭わないといった態でもう一度、先ほどと同じ質問をしてくる。


「おケイ、すまんな。なんでもない、なんでもないんよ」


 僕は先ほどと大して変わらない答えを呟くように言った。まったくに、どうにもならないとしか言いようがない気分だった。

 おケイと二人きりで街を歩くことがこうも難しいとは! 



「ねえ、石堂君の誕生日祝いを買いに行かん?」


 受話器の向こうから明るく、それでいてどこか舌足らずな声が聞こえてきた時、僕は受話器を小耳に挟みつつ、手帳に「正」の文字を書き足しながら変な戸惑いを覚えた。


「誕生日祝いて…………あいつもうそんな時期かいな?」


「そらそうやない。確か六月の三十日とかやったはずよ。せやから今度の日曜あたりに神戸にでも行って用意しいひん?」


「せやなあ…………」


 受話器を耳に挟んだまま、僕は電話台に敷いてある花柄のレースを指で少しだけいじくった。そういう機会がいつか来たらという淡い考えはどこかにあったが、そのチャンスを向こうから提案されると、どういう反応をしたらいいのかが思いつかない。


「それ、当たり前やけどイシはおらんわけやなあ」


「何寝ぼけたこと言うてんの。どこに自分への贈り物を自前で買いに行く人間がいるいうんよ?」


「まあ、そらなあ」


「なんや波多野君、あまり乗り気やない感じにみえるわあ。早稲田あたりを志望してるさかい、やっぱり勉強忙しいん?」


「まさか! ちょっとイシの誕生日を忘れていたからビックリしただけやて」


 僕は慌てて間をとりつくろう。そして、()()()()()()()の返事を返した。


「それなら良かったわぁ! ほな、日曜のお昼すぎ、一時くらいに甲東園で待ち合わせようよ」


「いや、西宮北口にせえへんか? イシのお祝いいうても、万が一アイツに会ったら誤解されるかもしれへん」


「考えすぎやわ波多野君。石堂君、そんなんで変に思う人やないんと違う?」


 受話器からこぼれてくる明るい声に耳を澄ましながら、おケイは性善説の女の子だな、と僕は思った。それは育ちのいい彼女にふさわしい思考で、性悪説ではないが常に何かの不安をもっている僕にはないものなのだろう。

 しかし先月、石堂と自分の思い描いてることが一致していることを確認した以上、誤解を招くような可能性が寸分もあってはほしくなかった。どのみち行着く先は、片方か、あるいは両方が負けることになるのなら、五分の駆引きを完遂する為にも相手の心に波を打たせるような瞬間を作ってはならない。


「いや、それはアカン。僕はバスで山を降りて西宮北口行くさかい、おケイは電車で来ぃや。北口に一時にしよう」


「分かったわ」


 苦笑したような声が受話器から漏れてきた時、僕はただただ安堵だけを覚えていた。


「ほな、日曜のお昼一時に西宮北口の三宮行きホームで」


「ああ、ほなそれで頼むわ」


 チン、という受話器を置く際のかすかな機械音の後、廊下は水曜日の晩十時にふさわしい静けさを取り戻す。

 何をすればよかったのか、そして何をしたらいいのだろう。恵子と二人で出かけるというのに、途方に暮れたような気分だけが残ってしまっていた。去年、売布のプールに行くことを切り出した時のような興奮と、その後の達成感など少しもなかった。暑苦しい吐息だけがかもし出す、不思議な気分が湿気た通路にあった。

恵子と、だからおケイと二人でどこかに行くだって? それはいつからだったか忘れたが、一日の終わりに枕に頭を載せた時の夢物語でしかなかった。それが向こうからの提案であっさりと近づいてきた。目覚めて布団から起き上がっても夢が続くのかもしれないのだ。

なのに、喜びの前に怯えがやってくる。


 感情を表にすることから逃げ回る僕は恵子の横に並ぶのにふさわしいのだろうか? そして何よりも石堂を出し抜いたのではないだろうか?



 何一つしっくりこない~恵子も応じたとはいえ気乗りのない言葉に白けただろう~気持ちのまま、僕は食堂に足を向けると冷蔵庫からカルピスの瓶を取り出した。これを氷とソーダ水で割るのだ。怯えが喉の渇きを煽っていた。

 食品庫にソーダ水はなく、ジンジャーエールの瓶だけがあった。仕方がない、僕はジンジャーエールの小瓶のうちの、三分の二の分量を使ってクラッシュ・アイスでカルピスを割り、それを二息で飲み干した。実に味気ない祝杯ともいえる。


「啓次郎」


 残ったジンジャーエールを溶けかかった氷の上から注いでいると、居間から父の声がした。多少の酔いを帯びた声だった。きっと、経営している五軒の書店の従業員の給与支払あたりの手続きが終わったところで、水割りのグラスでもかざしているのだろう。


「啓次郎、ちょっと付き合えや」


 あわてて一口で残りのジンジャーエールを処理したうえで食堂から居間に移ると、案の定、父は氷の入った容器をしたがえてニッカを呑んでいた。普段はビール二本しかたしなまない父がウイスキーを口にするのは、月々の事務が滞りなく終わることが予測できるようになってくつろげるこの時期の一日だけだ。


「どないしました? 父さん?」


「今の電話やけど…………ほら、大貫さんか?」


「ええ」


「啓次郎も色気づく頃か」


 満足そうにグラスをかざすと、やがて彼はそれを口へと運んでいく。父のいない昼間に恵子が石堂と連れだって我が家に遊びに来たことは何回となくあるが、丹前姿の父から彼女の名前が出るのは初めてのことだった。大方、今更ながら母から何かを聞いたのだろう。


「は。それは、その…………」


「いいお嬢さんらしいやないか」


 何を答えたらいいかわからずまごつきかけた僕の言葉を遮るようにして、父の楽しげな口調が十畳程の空間を埋め尽くしていく。


「勉強も恋も、それぞれに気張ればええ」


「いや、それは…………」


「父さんが啓次郎、お前ぐらいの時は」


 こちらのしどろもどろの回答を、再び父は酔いのうちにふさいだ。父が阪神にいたなら、権藤か柿本以上の名リリーフになっただろう。こちらが慌てながら紡ごうとする言葉を、全て打ち消していってしまう。


「旧制高校に入ったくらいでな……満州事変と日華事変のちょうど間の頃やった。まだ、戦争を意識しても青春が謳歌出来る、そんな最後の時代や」


「はあ」


「世の中は割と明るかったなあ。アメリカ映画もフランス映画も観に行けたしな……。でも、どこかの女学生やカフェーの女給に惚れたらもう、アカン」


 僕は答えなかった。いや、返す言葉がなかった。こちらがギターをつまびくことや、髪を伸ばすことに何の苦言を呈さない父が、自身の青春を振り返ることなど、今までなかったのだから。


「どこかから噂が漏れていくやろ。すると軟派な男として見做されて、日曜になれば寮の裏手あたりに所属していた野球部の、ホームランを打ったこともあるような強打者あたりが俺を呼び出すんや」


「は……。するとバットで父さんを殴りよるんですか?」


 父の意図が分からなかった。突然の回想に戸惑うこちらに、飲み物の一杯も作る機会を与えず、ただ延々と自らの青春を告白する姿には、混乱しかなかった。これじゃまるで、予告もなかった真珠湾(パールハーバー)だ。


「阿呆、あの頃バットは貴重品で高かったんや。それに道具は神聖な存在やったしな。だから強打者もエースも利き手に小石を挟んで俺の顔を撲りよる。顔も腫れるし、向こうの利き腕かて一週間はキャッチボールもでけんようになりよる……そんな時代やった」


 いつしか僕は居間のソファに腰かけていた。よくは分からない。それでも、普段帰宅したら静かに巨人戦のナイターをテレビかラジオで聴き入って、十時には寝てしまう父が饒舌に過去を語る以上、それに付き合う必要があると思ったのだ。


「まあ、タコ殴りが終わったら、先輩達は急に優しくなってビヤホールにビールを呑みに連れて行ってくれた。そういう季節やったんやね」


「そういう季節?」


「そうだよ。自然に恋愛感情を持つことが不真面目の極みと思われて当然の季節いうことや……。だから、いくら優しい先輩でも、そのあたりは看過してくれへんかった」


 ため息をついた父は、ゆっくりと向かいのソファに身体をしずめていく。それを眺めつつ、僕はよりくつろいでもらうために、ガラスの灰皿とロンソンのライターを父の手の届く範囲へとテーブルの上を移動させた。軽く手を上げ、父は謝意を示すと、一言つけ加えた。


「エースの先輩も強打者の先輩も終戦の年にマニラと新京で亡くなられた。一人はあと半年、もう一人はあと一週間なんとか生き延びられたら、今頃どんだけの人になったかしらん」


 相変わらず僕は黙ってその事実を聞いていたが、やがて一回だけ頷いた。

 年ごとに色々な若い時代があったのだろう。タバコを咥え、目の前でグラスを持て余すかのように手のひらの中でクルクルとまわしている父は今年で確か五十二のはずだ。恵子の親父さんは父より五、六歳は上だろうか。すると夜な夜な千日前あたりでダンスをしていたと告白したあの紳士も、どこかで相応の覚悟を決めて遊びほうけていたのかもしれない。


「啓次郎。大学進学も大事だが、まっさらな感覚をもって恋が出来るのも今のうちだけや。今はいい世の中や、チャンスがあるなら悔いがないように思うように動きなさい」


「ええ、父さん」


 僕は、タバコを切り上げて再びグラスを傾け始めた父に笑いながら返事をした。

 そして、僕は父に()()()()()



「波多野君、……波多野君!」


 遠くからおケイの声がこちらを呼んでいた。穏やかな陽ざしの中を声の方向へと振り返ると、大丸の入り口前で彼女が腕組みをして立っているのが見える。どうやらぼんやりと色々を考えていた僕は、デパートの入り口を通り過ぎフラフラと更に歩き続けていたらしい。


「おっと、イカンイカン」


「本当に波多野君、今日はどうしたん?」


 多少の冗談めかした口調も、彼女の怪訝な表情を緩めることにはつながらなかった。相変わらずに少女は、こちらのボンヤリとしているだろう顔を覗き込んで心配そうな様子を変えようとはしてくれない。


「いや、な。イシにプレゼントするなら何がええかとか、予算のこととかナ……少し考えすぎてもうた」


 この二日で何回目かの嘘をつきながら必死で作り笑いを浮かべようとする僕は、きっと冴えない笑い顔にすら自分の顔をもっていけていないだろう。

 父が言うとおり、悔いなく動けるなら動きたい。しかし、それを実践しようとするには僕には様々なしがらみと怯えが多すぎる。そしてそれは多分、「石堂を出し抜く」ことへのためらいだけではないはずだ。それに勘づきながらも、その根源が何なのかには考えが全くに至ってくれない。


「そう……それならええんやけどね」


 こちらの「返事」によって、ようやく恵子の表情に安堵した様子がうかがえるようになった。僕たちはデパートの扉を開けて店内へと入っていく。

 笑顔を戻した少女の横顔を見ると、ふと、考えすら出てこない石堂への贈り物なんて何だっていいのだ、という思いが身体から湧き上がってきた。しがらみも怯えももういい。今日大事なことは大貫恵子のそばに一時間か二時間の間いられることだけで、それだけでいいのだ。


 それが実行できたなら、なんて世の中は単純なのだろう。

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