第24回~昭和45年5月18日「ヘルプ・ミー・ロンダ」(後)
六
辛うじて水滴こそしたたっているものの、すっかりぬるくなった新しい小瓶を栓抜きで僕は開けようとした。が、全身が虚脱感でいっぱいで右手に力が入ってくれない。思いきりの力を込めようとはするが、今度は手の汗で栓抜きを上手く握りしめることが出来ない。
きっと、小瓶一本モノにできない今この瞬間に、僕は西新宿で一番に冴えない男となっていることだろう。でも、それはもうどうでもいいことだ。冴えなかろうがなんだろうが、こんなにもアルコールを欲した気分になることもなかなか無い。だからこそ蓋一つ公園に投げ捨てられないことがもどかしいのだ。
「アンタって本当に駄目ね」
ため息と共に吾妻多英は僕の手から小瓶を取り上げると、栓を抜いてこちらに寄越した。僕は少し頭を下げると、横目で彼女の様子をうかがいながら小瓶の中身を少しだけ喉奥に流し込んだ。
「蓋も開けられないで」
醒めきったような顔から発せられる、幾分の嘲笑がこめられているだろう言葉を僕は聞き流した。代わりに軽口が口からこぼれ出る。つまらない冗談だ。
「酒を飲みたい情熱が足りなかったかな? 僕には」
「あまりからかわないことね」
やはりというか何というか、吾妻多英は笑わなかった。いや、口元は緩ませたが目は笑っていなかった。
「『ほのお』がないことは、許されないことではないけど、ほめられたことでも絶対にないのだから」
「本当に、なかったのか?」
ベンチの上で僕は身体を今一度、少女の方に向け直した。あれだけ好きだった女の子に対して、「情熱」めいた感情の一つも無かった、と言い切られてしまうことは、納得がいかないというよりも寂しさと不安の方が先にきてしまう。今なんと評価されようが、吾妻多英の言う「ほのお」が存在しなかったとしても、それは楽しい季節であったと思いたいのだ。
「なかったと思うわね」
僕が念を押すように問うたのに対して、彼女は首を横に振るとタバコに火をつけながら答え返した。暗闇の中に一瞬だけマッチ一本分の明るさが現れるが、やがてそれも細巻の切先の小さなものへと減っていってしまう。その間、彼女の指先から地面へと落ちていく木の棒を黙って見つめること以外、僕は何も出来なかった。
僕は、僕の今までは、このマッチ棒一本が発した光にすら値しなかったのだろうか。
「研いだお米だって炊かなきゃご飯にならないわ。それを炊くことを忘れたまま、おかしい、おかしい、と言いながら水に浸したお米を腐らせてしまったのが今のアナタ」
タバコから一旦口を離した彼女はそうとだけ言うと、再び「クール」を口元に持っていき深々と吸い込んだ。
「まあ、勝手な言葉ばかり並べているけどさ、私にも『恋のほのお』なんてほとんどなかったんだけどね。今の今までさ」
「え?」
「火を点ける前にバカに火種を奪われちゃったからね」
街灯の明かりにうすぼんやりと横顔をさらけ出す吾妻多英は、ほんの少しだけ寂しそうな笑顔を作った。その笑みを見つめながら、僕はふと、悪い予感がした。この少女はこの少女で、もう、どうにもならない過去を持っているのではないか、と感じたのだ。
「高校三年の夏にね、帰省中の隣町の大学生に上手いことおだてられた挙句に寝て、捨てられて、まあ、それっきりよ」
どこかにずっと隠し持っていた古い記憶を、彼女は煙と共に新宿の空に吐き出した。
闇に消えていく煙を目で追いながら、なんで悪い予感というものはこうも予想を外さないのだろうと、僕は心の中で軽く舌打ちをするしかなかった。
「でも、その時は傷つかなかったのよ。バカだから愛されるってそういうことだと思っていたから。でも、夏休みが終わったら全部が変わっていたわ」
こういう話は、おそらく何も、返事どころか相槌すらうたないほうがいいだろう。かける言葉は僕にはないし、何か口にしたら、それは単なる同情にしかなりえないだろう。それに……僕は男だ。
「大学生は仙台に帰った途端に連絡も寄越さなくなったわ。下宿の番号も住所もデタラメだったしね。それなのに噂だけはどこからかひろまって、私は気がつけば『町一番のアバズレ』ってことになっていたわけ。教師も同級生も突き放したような目でこちらを見るようになるし、父さんは泣きながら殴るしお母さんは寝込むし、まあ、よくある話ね」
彼女はほとんど根元まで吸いつくした「クール」を地面に放り捨てた。「ふう」というため息だけが少女から零れ、彼女は僕の方を見つめた。きっと、何かの反応を求めてきているのだろう。
それでも、僕は言葉が出なかった。吾妻多英の場合は、おケイとはおもむきは異なっている。ただ、「信頼した者に手ひどく裏切られた」という点においては両者の間に寸分も違う点はないだろう。おまけに、おケイの場合は「事実」が関係者以外にまで拡がることは無かった筈だが、この娘の場合、言をそのまま容れると、全てをばら撒かれた上でただただ耐えて今までを生きてきた訳だ。
僕がどんなに恵子に会いたいと思っても、実際に会えばかける言葉が見つかるか分からない。と、なると、今この場所で傍らの長い黒髪の持ち主に言える言葉だってどこから引き寄せたらいいか見当もつかないじゃないか。
「それで?」
タバコで気を紛らわせようとシャツの胸ポケットに手を移動させながら、やっとの思いで僕はそれだけを口にした。感想でも何でもない、単に話の続きを促す以上の意味合いのない言葉だ。ただ、彼女の言葉を聞き流しているわけではないことだけ、伝わってほしかった。
軽い失望が吾妻多英の顔に浮かんだ。しばらくの間彼女は、自身の顔を見ながらタバコの準備をしているこちらの挙動を見つめ返したが、やがて自分自身を納得させるかのように一つ小首をタテに振ると、小瓶を一口飲み、言葉を発する作業を再開した。
「高校出たら地元の役場にでも就職しようか、と思っていたけどそうもいかなくなったのね。『アバズレ』なんて評判たったら役場でもどこでも学校推薦も面接も絶望よ。幸い家に余裕があったし、高校の成績も悪くはなかったから厄介払いみたいに東京の大学への進学を薦められたってわけ」
僕はやはり、黙って聞き続けるしかなかった。彼女の言葉には、その期待とは裏腹に、言葉を挟む余地がなかなか見当たらない。
遠くの方で車のヘッドライトが光った。中野か方南町あたりへの終バスだろうか。タバコをふかしながら腕時計に目を落とせば、もう11時をとっくに過ぎていた。
それにしても、だ。目的もなく、「箔をつける」ために大学に入ってくる連中が増えた、などと巷で言われるようになって久しいけど、「逃げるため」の手段として故郷を遠く離れた学校に来るなどという話をどう考えたらいいのだろう。
しばらくの沈黙の後、吾妻多英の話は途切れずにさらに続く。
「それでさ、学部を決めようって時に文学部の演劇学科を選んだのよ。人を見る目がなくて故郷にいられなくなったのなら、人間の観察眼を養える環境に身を置いてみたかったのね」
「それは哲学科でも可能なんじゃないか?」
ようやくに僕は、話の本筋から遠く離れてはいるが、彼女の言葉に対する何らかの反応を見せることが出来た。弁当の漬物が沢庵がいいか奈良漬がいいか、それくらい全くにどうでもいい茶々のようなものではあるが。
そんな愚問に対して、吾妻多英は特に不快な表情を見せずに即答する。
「哲学科では生活できないわ。大体が女性哲学者なんて今、ハンナ・アレントくらいしかいないじゃない。でも、演劇学科だったら、女がそこまで不利にならない映像なり活字の世界に潜り込めるチャンスが見つかると思ったのよ。それに……」
「それに?」
「波多野クンみたいなプラトニックなところでもがき苦しむ情けないモルモットだって、哲学科よりはいそうだったからね」
「相変わらず酷い言われようだなあ」
「気にしないことよ。気にしていたら世の中渡っていけないわよ波多野クン」
少女は少しだけ笑った。意外な笑みだった。あれだけ、自身にまつわる暗い記憶を淡々と語ったかと思ったら、軽い冗談にも似た言葉を繰り出してクスリと笑う。それは、今日までの僕に出来もしない芸当だった。
僕には、醒めた視点で己をふり返るという勇気も発想も持ち合わせてはいなかった。
「今だから言うけど、先週後楽園で巨人阪神に連れてってもらった時、私はアナタに嫉妬していたわ」
きっと怪訝な表情が僕の顔に出たことだろう。しかし彼女はそれを意に介さず、自身の最後のビールを飲み干すと、小瓶をベンチの片隅にそっと置き、話を続けた。
「暗い顔して大学でパンを齧っている姿に惹かれたんだけどさ、そんなアナタが素敵な、ハッピー・エンドで終わったかもしれない恋を『ほのお』がないばかりにむざむざ見逃して途方に暮れてる様をみると、どうにも腹が立って仕方がなかったのよ」
「ハッピー・エンドに終わった可能性があったかね。僕にだよ?」
「あったわよ」
何本目かの「クール」を咥えると吾妻多英は言い切った。
「少なくとも、そのチャンスは三回はあったと思うわよ。臆病でお人好しなあなたは気づいてなかったかもしれないけれど」
彼女は断言した。そして、僕は再び相手に返す言葉の術をすべて失ってしまった。そんなにもあったのか? 自分の夢想した未来が実現する機会は?
「ま、いずれにしてももうしばらくは波多野クンを観察するわ。アナタがどう過去に折り合いをつけて立ち直るかは見ていきたいしね」
吾妻多英はそう言うと、飲み干した小瓶二本とたこ焼きの包み紙一つを手にしてベンチから立ち上がった。
「今日はもう遅いから帰るわ。まだ開けていないそっちのたこ焼きは波多野クンへのプレゼントにしたげる」
「夜道は危険だ。送ってくよ」
「いいわよ。初台はここから近いし……。それに、柄にもなく身の上喋ってしまったから一人で歩きたい気分だしね」
ゴミを両手に抱えた彼女はそう言うと、また笑った。
「あと、波多野クンも、『送るよ』みたく相手に気を遣う前に、自分がどうしたいのかを少し一人で考えた方がいいと思うわ。それじゃ、また明日の授業で」
僕の言葉を待たずに、彼女はベンチに座ったままのこちらに背中を向けて歩き始めた。こういう時、引き留めた方がいいのか、引き留めるとなればなんて言葉をかけたらいいのか。そんなことを自問自答しているうちに、細く、小柄な黒髪の少女はあっという間に夜の闇の中へと消えて行った。
七
吾妻多英が去ったベンチで、僕は渡されたたこ焼きの包み紙に目を落とし、やがてそれをほどいた。熱などとっくに失ったソースと醤油まみれのベチャベチャしたたこ焼きを口に放り込むと、最後に残った一口分のビールでそれを流し込む。
ふと、頭の中で懐かしいメロディーと、その一節が蘇ってきた。そうだ、昔のビーチ・ボーイズの曲だ。
「ヘルプ・ミー・ロンダ」がごくごく一部のポピュラー・ファンの間で流行ったのは、高校受験の頃だったか。辞書を片手に歌詞カードを和訳していた頃、僕は恋なんて知らなかった。英語の勉強に、という建前で、ただただ好きなモノを更に自分の手元へとたぐりよせたかっただけだ。弱音を吐いたうえで救いを求めるなんて世界は十五の頃には理解する気もなかった。リズムを悦び、英文法の助けになればそれで用は足りていたのだ。
今は違う。状況が変わった。救われたいだけの僕に、歌詞は英語の勉強以上に大きな意味を持つ。少しくらい人に甘えたって許されるだろう、という期待を大きく膨らませてくれるのだ。
二個目のたこ焼きを楊枝でつまんだ時、濃い味付けのたこ焼きを打ち消す飲み物がないことに僕は気づいた。ビールはもうなくなっていた。楊枝の先のたこ焼きを見つめる。これを含めてあと五つもの濃い味付けの「つまみ」を水分なしで食べなきゃならない。
「甘えてみてぇな」
懐メロが過ぎ去った頭の中を整理し、僕はそうとだけ呟くと、再びたこ焼きを口に放り込んだ。中央線の電車がまだあるかどうかはもう、どうでもよかった。




