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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第23回~昭和45年5月18日「ヘルプ・ミー・ロンダ」(中)


 耳を塞ぐというのはなんて楽な行為なんだろう。かすかに漏れ聞こえてくる甲高い叫び声さえ無視出来たら、後は僕の世界になってしまう。

 必死に両耳を手でふさぎ、そして目を瞑る。それだけの行為で僕は、何故か昔に戻ることが出来るような気がした。閉じた瞼のその向こうで大貫恵子が微笑んでいる。東京だろうがどこだろうが関係ない。暗闇の中は僕の世界だ。


 清荒神の石段を晴着姿で破魔矢を片手に降りていくおケイの姿が脳裏を横切って行った。ああ、そうだ、あれは去年の正月のことで……


 おケイの微笑みを見つけた瞬間に気が緩んだ。傍らの少女が、小柄な上背には似つかわしくない力で、僕の耳にかかっていた手を引き剥がしたのだ。おケイは何処かに消え失せ、変わって怒声が僕の眼をこじ開ける。


「聞きなさいよ意気地なし!」


 気がつけば、耳を塞いでいた僕の右手は宙にかざされていた。外気が耳の穴へと吹き込んでくる。小さな細い手が、そうさせたのだ。


「オナニーよ! そのままだと!」


 塞ぐものがなくなった右の耳から、大音量が頭になだれ込んでくる。

 この少女は、この一週間で幾度となくからかうように「自慰」を口にした。しかし、今口にしたものが一番辛く感じるものだった。そこには最早からかいはなく、嘲りのみで使われている言葉なのだ。

 僕は諦めて、辛うじて塞いでいた左耳も開放した。そして、意を決して身体をよじると僕の傍らにいる怒声の送り主に視線をあわせた。


 吾妻多英は、こちらが顔を自身に向けたことで少しだけホッとしたような顔つきを見せたが、すぐに表情を険しいものに戻して言葉を紡ぎ始めた。


「気がすむまで恋に破れた自分に酔うのは勝手よ。でも、それで何が始まるの? 世間はすぐにあなたの悲劇に飽きるわ」


 それだけ言うと彼女は言葉を区切り、立ち上がって公園に転がったままのサッポロビールの瓶を拾い上げると、ベンチに座り直して砂をはらいはじめた。


「現に私が飽きかけているもの」


 吾妻多英は今度はたこ焼きを頬張り始めた。醤油の焦げた匂いが漂うなか、言葉に添うかのように、少女の動作の一つ一つが僕という人間を無視しようとしているとにふと、感じた。


「そんなこと言われても、じゃあどうしたらいいってんだよ!」


 途方にくれたような気分がある、と僕は感じた。心細いのだ。何一つ状況はよくはならず、そのうえここにいる吾妻多英にまで呆れられ、飽きられてしまったらもう()()()()はなくなってしまう。

 なのに、思考とは裏腹に言葉は逆上したようなものにしかならない。言ってから後悔しても遅いのだが。僕は小瓶を一口だけ含むと、怯えながら女の子の反応を伺った。

 こちらの自棄の言葉に対して吾妻多英の反応は薄かった。相変わらずビールを飲み、たこ焼きを口に運ぶだけだ。僕は彼女が飲食以外の行動に出るのを、街灯に照らされながらじっと待つしかなかった。少なくとも、隣人に発言を促す資格はないのだ。


 やがて彼女は二つ目のたこ焼きを喉奥に放り込むと、口についたソースと醤油を拭った。そして、長い、実に長い食事を中断すると再び僕の顔を真正面から見つめだした。


「美人が波多野クンのあれこれに興味をもったのに、このままじゃ面白くないのよ」


「美人」の射るような眼が僕を縛りつける。その眼光に僕は自然と身構えてしまう。

 それにしても、だ。なんで吾妻多英とマトモに会話しようとすると周りに人影がないのだろう?


「面白いことをしたい訳じゃない…………」


 やっとの思いでそれだけ返すと、僕はタバコを咥える。恋愛なんてのが、みんながみんなジュリー・アンドリュースの映画のようにやがて幸せのうちに終わる訳ではない。

 そんな面白さもハッピー・エンドも、もう別にとっくに要らない。ただただ、この淋しさと惨めさの堂々巡りの中にあって、少しでもいいから光が欲しいだけなのだ。



「ねえ、求道者としてボクシングだけに打ち込んだ力石をどう思う?」


 待ち望んでいた彼女の新しい言葉はしかし、こちらが望んだものではなかった。それは、この人影の少ない新宿中央公園の中で交わされる会話に、新たな話題のみを提供するものにしか感じられなかった。何だって、惨めな僕の前に「あしたのジョー」の主人公のライバルを引きずり出すのだ? 意図が見えてこない。

 しかし、こちらの戸惑いを無視するかのように彼女は「新たな話題」を展開し続ける。


「色んな誘惑に耐え、ライバルに向き合おうとする力石……」


 吾妻多英はそこまで言うと手元のビールを呑み干し、そしてつい先程まで地面に転がっていた小瓶を手元に引き寄せると、もどかしそうに栓を抜き、小さな口元へともっていった。


「力石にあって、波多野クンにないものが何か分かる?」


 新たなビールで喉を更に潤した吾妻多英は、みたびこちらの眼を見つめる。僕はもう、何もかもがわからなかった。もしも「恋に破れて酔っている」のなら、そのだらだらと続いているであろう見苦しさを断罪されたらいいだけの話だ。

 毎週あちこちの喫茶店で読んでいたとはいえ、「あしたのジョー」の禁欲的で精悍な登場人物と、ふらふらと生きてきたであろう、裕福でこそあれその実まったくに平凡な大学生の自分の違いを問われると、何を答えたらいいのかが皆目わからないのだ。ありすぎるんじゃないだろうか。


「わからない、吾妻さんわからないよ……」


 僕は途方に暮れるしかなかった。答えが見えてこないまま、相手の調子で会話を進めていく虚しさほど徒労感を感じるものもないだろう。

 ここでの会話の相手は吾妻多英だ。でも僕はもう彼女の後ろにある、去年の、だから昭和四十四年の秋から、いや、もっと以前からかもしれないが、自分のタイミングで会話も物事も進められなかったのかもしれない男としての総決算を目の前の人物に求められているのかもしれないのだ。


「波多野クンには『ほのお』がないわ」


 その言葉は、出口の見えないままに吾妻多英の言葉を待ち続けることに疲れ、新宿の空へと視線を上げた瞬間にこちらに発せられた。視線の先にぼんやりと灯る、建設中のビルの頂上の夜間灯が目の中に広がると同時に、女の子の言葉が僕の頭を駆け巡り始めた。「ほのお」? なんのことだ?


「力石にはジョーに挑むボクシングの『ほのお』があったわ……」


 吾妻多英はそこで言葉を止めた。そして「クール」を口元に持っていくと暗がりの中でジーンズの尻ポケットからマッチを取り出し、紫煙を作り出す。

 僕は、その姿を黙って見つめていた。そして、彼女の結論が告げられたのは煙が闇に紛れ見えなくなる、その瞬間だった。


「でも、波多野クンには何一つ無かったわ。『ほのお』が」


 突然、少女の小さな両手が僕の両肩を掴んだ。思わず僕は体を強張らせる。しかし、身体をよじってその手を振り払うという単純な所作が出来なかった。酔ってはいないはずだ。なのに、吾妻多英の両手から逃れられる術が見つからない。まるで、蛇に魅入られた蛙か何かのようだ。

 いや、違う。僕は蛙ではない。


 僕はただただ、彼女の次の言葉に期待をしているのだ。

 

「あなたには『恋のほのお』が無かったわ。何一つとして」


 咥えタバコのまま、吾妻多英はそう言い放った。それと同時に僕の両肩にかかっていた力がスッと消えていく。華奢な手が、僕の体を不意に解放したのだ。

「恋のほのお」か、と僕は心の中で呟いた。どこかで聞いたことのある文句だった。ただ、どこでその文言をどこで聞き、何を示した文句なのかは思い出そうにも思い出せなかった。

 こちらを睨むように鋭く見つめ続ける少女のタバコから、灰が零れ落ちようとしている。しかし、彼女は視線をこちらに向けたまま、それ以上の動作を行おうとしない。


「『ほのお』が無かったのよ……」


 彼女の口先から灰がジーンズへと零れ落ちていく。それだけの時間を与えられても、僕には「ほのお」の正体を掴むことは出来なかった。

 新宿の静かな月曜日に、終わりは来るのだろうか、と僕はふと思った。

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