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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
22/89

第22回~昭和45年5月18日「ヘルプ・ミー・ロンダ」(前)


 紙袋からいそいそと洋菓子の箱を出す最中、僕はこちらの手元をじっと見つめている吾妻多英の視線を感じた。

 咥え煙草で頬杖をついている女の子は、黙って品のいいチョコレートや焼き菓子が目の前に並べられていくのを眺めていたが、やがて煙を吐き出してこちらをむきなおすと切り出した。


「随分と余裕があるのね」


「へ?」


 僕は思わず声をあげ、少女の顔を見つめた。アルバイトに出向く前の僅かな時間に、大学前の喫茶店で頼まれた物を渡そうとしている中、その発言は不意なものだった。


「まあ、アルバイトの稼ぎも悪くないからこれくらいはなんとか……」


「そういうことを言ってるんじゃないのよ」


 こちらが彼女の言葉の意図をわかりかねながらも言葉を繰り出そうとするのを彼女は片手で制すると打ち切ってしまう。そして、新たな「クール」を箱から取り出すと火を点け、こう言ってのけた。


「石堂君と『深刻に』話をして、お互いが酔いつぶれて泣いてさ、それでいてその後にコチラの頼み事を律儀に遂行する」


 そこまで言うと彼女はタバコを口から離した。


「講義終わってからここに来るまででざっと話は聞いたけど、結局のところ『尋常じゃないお人好し』という以外は、波多野クンという男の子の行動が、私にはわかんないわ」


「うーん」


「『うーん』なんて誤魔化してもダメ。結局、あなたは石堂君と絶縁できなかったし、モヤモヤした気持ちのままで東京に帰ってきただけ……。その癖、『お使い』する気力だけはしっかりとどこかに隠しておく冷静さをもっている。わかんないわねえ」


「なら、このお菓子は買わんで帰ってきた方がよかったのかなあ?」


 とりつく島がない。石堂と縁が切れなかったことあたりをなじられるのかと思ったが、洋菓子を買ってきたことを問いただされるとは思ってもいなかった。


「それは違うわ。……美人の可愛らしいお願いを忘れたりする男はクズ中のクズよ」


 吾妻多英はタバコを右手にたずさえたまま、アイスティーのストローに口をつけた。結局のところ、よくわからない。どうしたらよかったのだろう。

 戸惑っているこちらの様子を、吾妻多英は冷えた飲み物を口にしながら観察していたが、やがて左腕の時計に目を落とすと身を乗り出して時間だけを告げた。


「それよりもそろそろ五時よ。アルバイトに間に合わなくなるんじゃない? この先は続きってことで勘弁してあげる」


 その言葉を受けた僕は、黙って自分のコーヒー分の百円玉をテーブルに置くと、彼女に促されるままに席を立った。店のガラス戸を開け、駅に向かおうとする最中に元いたテーブル席を振り返ると、小柄な背中が宝石のようなチョコレートの粒を宙にかざしてひとしきり見つめた後に口へと運んでいる様が見えた。



 アルバイト中、吾妻多英から放たれた「尋常じゃないお人好し」という言葉だけが、モヤのようにこびりついていた。お人好しか酷薄な人間か、と問われたら僕は確かに確実に前者だ。石堂を許しはせずとも、絶交することは出来なかった。一万円以上の金を一日につぎ込んでも、何一つ状況は変わっていない。大貫恵子は誰かの妻になり、石堂は彼なりの苦い記憶とともに来月には安保デモに臨むのだろう。


 僕はどうなる?


 僕もまた、一人ぼっちで東京だ。

 虚しさはどこからくるのだろう。全ては終わったのに。諦めきれないのは、おケイに想いの丈をぶつける機会がないままゲームが終わったからなのだろう。一回で良かった、どこかであの女の子に「お前が好きや」と告げるチャンスさえあればここまで引きずらなかった。


 ビールケースを路上に停まった酒造会社の小型トラックからおろしながら、僕はもっとイヤな事に思いがいく。悶々とする一方で吾妻多英という、無神経な女の子の存在を楽しんでいるということだ。

 惹かれているのかもしれない。竹で割ったように僕に関するあれやこれやを評価する娘に。

 

 彼女の顔と名前が一致してからまだたったの六日しか経っていないし、会って時間を過ごしたのなんて今日が三回目だ。

 最初は反感しかなかった。しかし、意図はわからないが、こちらにあったことを根掘り葉掘り訊こうとする彼女の前にいると、反感や戸惑いこそあれ気が楽になっていくように感じるのもまた、事実なのだ。


 でも、おケイに対する感情って、その程度のものだったんだろうか? 吾妻多英に話すことで色々を吐き出して救われてみたいという気持ちと、それくらいの行為で踏ん切りがついて忘れられるくらいなら一生今のように苦しんでいてもかまわないという感情がどこかでせめぎあっている。


 あらかたの配達を終え、店の奥の机で集金した金額を確認していた十時前のことだった。あと数分で今日の仕事も終了だ、と、どこかゆっくりしていた僕の耳に足音が近寄ってきた。音の方向に頭を向けると、店主が酒瓶とビールケースをかき分けてこちらに近づいてくる姿が視界に入ってきた。


「おい、波多野君、こんな時間だが君にお客さんだよ」


「客ですって?」


「君もスミにおけないヤツだね。ゲバもスポーツもしない男だと思ったら女の子が迎えに来るなんて」


 問い返した僕を笑いながら受け流した店主は、そのまま奥の部屋へと引きこもり、ドアを閉めてしまった。僕は小首を傾げながら店頭へと向かう。

 そこには、たこ焼きの包み紙を二つ携えた吾妻多英が昼間と同じジーンズ穿きの姿で立っていた。


「探すのに苦労したわ」


 いきなりの訪問を驚くこちらを横目に、そう言うと彼女は小さな顔に笑みを浮かべた。


「波多野クンの働いているところ、西新宿の酒屋ってだけしか知らないんだもの。あちこち歩き回ってようやく捕まえたわ」


「いったいぜんたい、なんでまたこの時分に?」


「ね? 波多野クン、ここは小売りはやっているの?」


 夜遅くの来訪に戸惑う僕を完全に無視した格好で、彼女は卸売がもっぱらのこの店の前に佇むと、酒を要求してくる。


「まあ、酒屋だからね。家庭の御用聞きはしないまでも、売らないことはない」


「良かった! じゃあ、四本ほどサッポロをちょうだい。あと、サービスで栓抜きも」


「わかったよ」


 思わず変な笑いが零れた。多分に、苦笑いなのだろう。吾妻多英が何を考えているかは知らないけど、商売は商売だ。僕は彼女に軽く頭を下げ「かしこまりました」と告げると、奥に下がってよく冷えたビールの小瓶を四本、彼女に渡した。


「こちらになります」


「ありがとね」


 そう言うと、彼女は五百円札をこちらに渡す。


「ね、波多野クン、アルバイトは何時まで?」


「これが今日の最後の商売さ、もう十分もしたら上がるよ」


「ふうん……じゃあ、その後は私につきあえるわね」


「それは……どういうことよ?」


()()()()()()って明大前の喫茶店で言ったでしょう? 波多野クンの話をまだ、全然咀嚼出来ていないわ」


 釣銭を受け取りながら、女の子は小さく体をかしげて笑った。僕は、「わかったよ」とだけ言うと前掛けの紐を緩めて奥に下がることにした。

 奥で前掛けを外しながら、どこか妙な喜びが自分にあることだけは否定できなかった。今の自分には、利害を抜きに話を聞いてくれる人間がいてくれること以外に、欲しい存在などないことはないのだから。



 吾妻多英が話の供として小瓶とたこ焼きを用意したとなると、こちらとしてもディスコだろうがマンモス喫茶だろうが、とにかく夜の十時過ぎに開いている店に連れて行くという訳にはいかない。

 淀橋に建とうとしている高層ホテルの影を見上げながら、ビールの小瓶の紙袋を抱えた僕と、たこ焼きの包みをぶら下げた吾妻多英は新宿中央公園へと足を向けた。西新宿で夜遅くに食べ物を野外でのんびりと口にできるところなんて、そこいらくらいしか思い浮かばなかった。


「私が思うことはね」


 並んでベンチに腰かけた後、こちらから無理やりに「サービス」として無料で奪い取った栓抜きで、小気味いい音と共にビールの小瓶を二本開けた吾妻多英は、一本を僕に渡すと、残りのもう一本を自らの口元へともっていった。月曜日の公園は、元気に乳繰り合うカップルもおらず、僕と彼女以外はいないだだっ広い空間だった。


「波多野クンは、去年の十月の時点で気づけなかったとしても、なんでその後の色々な出来事で勘づき、覚悟を決められなかったのか、ってことよ」


 水銀灯に照らされたとはいっても、小瓶を口につけている彼女の横顔は時間もあってうす暗いものにしかならない。ちょうど、古いテレビが不鮮明なままにNHKのアナウンサーを映し出すような塩梅だ。


「要は、遅くてもよ。本来ならあなたは石堂君と三月の時点で縁を切らなきゃいけなかったし、そもそも大貫さんがそういう目にあったということにはもっと早く勘づくべきだったわ」


「しかし、まさかそんなことが起きてるとは思わなかったんや」


 すすめられた小瓶を少し喉に流し込むと、僕は彼女に応じた。言葉に嘘はない。あの頃の僕にとって、石堂とおケイは「絶対に信頼できる友人」であったわけで、だからその二人の間にそういうことが起こるだなんてことに注意を払う必要もなかったのだから。

 涼やかな五月の闇の中、ビールの余韻と幾度となく蘇ってくる懐かしい何かが頭を埋め尽くしていく。


「石堂君を信頼しすぎたのよね、波多野クンはさ」


 僕と同じように一本目の小瓶を煽っている吾妻多英は、ビールを半ばまで飲み干すと飲み口から口を離し、右手で口周りを拭うとそう呟いた。


「かなわぬ恋が本当にかなわぬ恋になってしまった辛さと、親友が信頼を置くに値しなかったショックでずっとパニックになっているのよ」


「さきに言った、『信頼しすぎた』っていうのはどういう意味だい?」


 静かに吹く風に煽られる長い黒髪、その持ち主に向かって僕は問いかける。事実のみを語っただけの後の言葉についてはどうでもよかった。石堂という人間の所業を、吾妻多英がどう評価するのかだけに今の興味があった。

 しかし彼女は石堂を評さない。逆に遡上にあげられたのは僕だった。


「それはね。波多野クンはね、大貫さんを巡る駆け引きには夢中になっていたけど、競争ってものにはいつか終わりが来て勝者と敗者に分かれるってところに意識が全くなかったってことよ」


 うす暗い公園で、そろそろタバコを取り出そうかとズボンをまさぐっていた僕は、思わずその動きを止めるしかなかった。口元に持っていくはずだった紙巻はだらりと右手の先で震えているだけだ。


「何を言いたいんや? 吾妻さん」


「波多野クンのドーテーさにはうんざりするわ」


 彼女は残り半分となったビールをふた息で飲み干すと、こちらに向き直った。まだ酔ってはいない小さな瞳が、こちらの眼を見据えている。


「高校最後の年に石堂君と、大貫さんに関して『競い合う』ことを約束したんでしょ? だから、いつかは勝負がつく事象だと分かっていたつもりだったのよ、波多野クンは」


 遠い昔の石堂とのキャッチボールが脳裏をよぎった。たくましい石堂が臆病なこちらに檄を飛ばす、そういった季節だってたしかにどこかにあったのだ。


「でも波多野クンは今の追放されたライオンズの選手みたいに、どこかでその勝負は八百長でいい、と思っていたのよ……」


「八百長?」


 聞き返した僕に、吾妻多英は黙って紙袋の中の新たな小瓶をすすめると、「八百長」という刺激的な言葉を使ったことへのこちらの訝しげな感情を無視して話を続ける。


「八百長よ。波多野クンの女の子に対する、ね。あなたはどこかでライバルに女の子を奪われても、以前の男二・女一の関係が成立するならそれでいい、と思っていたのよ。勝負を挑んだフリしながら、勝てないと思っていたのね。なのにその勝負が……」


「やめてくれ吾妻さん! やめてくれ!」


 受け取った、まだ栓をしたままの小瓶が地面に転がる。僕が片手に持つのをやめて、思わず耳をふさいでしまったのだから仕方がない。


「ふさいだって無駄よ」


 音が遠くなった両耳から、それでも吾妻多英の語りかける言葉が容赦なく漏れては僕の心へと届いていく。

 どこかでうすうすと感じていて、それでいて直視しなかった事実を、出会って一週間の女の子が掘り返そうとしている。


「聞きなさいよ、波多野クン」


 強い力が僕の両手にかかり、耳を塞ぐことを阻止しようとする。彼女に対し、僕は二つの耳に添えた両手に力を入れることで、自らの聴覚が過去数年の自分の行動に対する評価を流し込もうとすることを必死に拒もうとする。

 ただそれでも、直言を拒もうとする感覚があるということは、どこかに過去の自分への負い目があるのかもしれないな、と僕は感じた。

 水銀灯に照らされ、公園に転がったままのサッポロビールだけが、焦るだけの僕の視界の中で鈍い輝きを放ち続けていた。

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