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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第21回~昭和45年5月17日「白い蝶のサンバ」(後)


 僕らは三千なにがしの勘定を割り勘ではらうと、店を後にすることにした。怒鳴ったり泣いたりの中、周囲の好奇の目に取り囲まれるのに遂に耐えられなくなったのだ。

 勘定前にトイレにたって鏡をのぞくと、僕の目は赤く腫れ上がっていた。なんのことはない、石堂だけでなく、僕だって怒鳴り声以外の要素で注目されていたのだ。僕は慌ててぬるい洗面台の水で強く顔を拭った。

 こちらが勘定をすませている間、石堂は奥まった座席に座ったままでただただ呆けているように見えた。足はだらしなく大きく開いていて、虚ろの目の下の口元も同じだ。僕が仕向けた。が、仕方がないことだ。


 石堂を促してから店の暖簾をくぐって商店街に出ようとすると、足腰に強い違和感を感じた。酔いがついにまわってきたのだ。バランスを失さないように表通りに出る。石堂が続く、が、彼は敷居に足を取られて小汚い商店街に転がるように出るしかなかった。二人でビールの大瓶を五本、日本酒の銚子を六本も飲めばこういうことになる。

 アーケードの中で尻もちをついた彼は、赤い顔のままで無言を貫いていた。通りすがりのアベックや、昼酒でメートルをあげた酔っ払いが興味なさそうな態でチラリと巨漢に視線を落とすが、そのいずれもやがてそのまま通り過ぎていく。日曜日の昼、こんな光景はここいらでは決して珍しい光景ではないのだろう。

 僕は横たわった石堂をしばらく見下ろしていた。その姿は無様であり、涙の後が痛々しかった。彼に泣く資格などない、とは思ってみても、それはやはり哀れさを催す光景だった。

 しばらく、腕を組んで彼の様子を見守る。が、やがて僕は彼が起き上る為に腕を差し出すことにした。


「立てるか? イシ?」


 こちらの腕に重量がかかる。石堂がその手を握り返して、体勢を立て直したのだ。


「ああ……ハタ坊、スマンな。みっともない所、見せてもうた」


「ええよ、もう、ええんよ」


 立ち上がった石堂のシャツやズボンについた汚れを軽くはらう。うす暗いアーケードで、僕らはようやく並んで歩きだす。しかし、次に行くあてなどない。それでもアルコールが頭の中で充満していく中、とりあえず酔いを醒ます必要性だけは考えなければいけなかった。石堂の身体がこちらにもたれかかってきたのだ。どこかで腰かけさせて休ませなければいけない。


「ほれ、肩を貸すわ」


 そう言うと僕は、彼の方に腕をまわした。石堂は黙ってそれを受け入れ、体重をこちらの右肩へとかけてくる。


「歩けるか?」


「ん……。ハタ坊がそないしてくれるからなんとかなる」


 僕らは無言のままフラついた歩みを始めた。会話のない歩みをとりあえず南へとすすめながら、悲しい気分が改めて湧き上がった。

 石堂が「消えようとしている友人」なら、僕は店の会計を終わらせて外に出た時点で、彼に踵をかえして去っていけばよかった。そうすりゃ、後は阪急デパートで吾妻多英の要求の品を揃え、国電か地下鉄で新大阪に向かうだけですむのだ。

 なのにそれが出来なかった。酔っぱらって思考が混乱しているからではない、この石堂という付き合いの長い友人を「切る」勇気が出てこないのだ。


「さよなら、イシ」


 そんな感じでホルモン焼屋の前で横たわっている石堂に告げることが出来たら幸せだった。でも、その後はどうなる。おケイがいなくなり、福村さんは事故死した。ギターをつま弾き、あの綺麗な横顔が何を考えているのかに想いを馳せた季節は過去のものになろうとしている。

 怖いのだ。石堂という存在を自分の意志で視界から消してしまうと、あの日々はもう、「完全な過去」になってしまうということだけが怖かった。

 そんな感情にはきっと、おケイに対する配慮など微塵もない。たとえ、二度と会うことが出来なくても、彼女の知らないところで石堂との関係を清算することが、「友人」としてのせめてものつとめになるはずだとは分かっているのに。

 あの頃の友人を両方失うことへのためらいとは、なんて難しいものなんだろう。



「ハタ坊、ハタ坊」


 グチャグチャな思考を繰り広げる中、石堂がか細い声とともにこちらに視線を寄越した。


「なんや」


「すまん、俺、吐きそうや」


「アホが。便所をみつけたる。も少し我慢せえ」


 彼の赤い顔を確認すると、僕はそう告げた。が、様子からして()()()()()()()だろう。お初天神がいいか、と思った。このまま商店街を南へ真っ直ぐ行った突き当りにある神社のトイレを借りて、ゲロでも吐かせて楽にしたらいい。


 ゆっくりとした歩みを幾分か速いものへと変えながら、僕はふと、石堂が不思議な存在に思えた。

 おケイと知り合った頃、彼は自らが思ったことを口にし、それでいて不興を買うことはなかった。季節が進み、それぞれの考えが異なったものになった時、彼は欲望のおもむくままにおケイを襲った。

 そんな石堂は、今、飲み過ぎた酒をもどすことでまたも楽になろうとしている。


 冗談じゃない、と思った。これ以上、コイツに自分の欲求のおもむくままに行動させてたまるものか。


 人の行きかいも少なくなる神社の門前まで何とか辿り着いた時だった。ようやく吐ける、と安堵した彼の表情を確認すると僕は少し笑いながら、今まで彼と組んでいた肩を外した。トイレの前まで誘導してくれるものだと思っていた石堂の顔に怪訝なものが浮かぶ。


「イシ、悪いがこれ以上お前のとおりにはさせへんで」


 それだけ告げると、僕は彼の正面に素早く回り込み、辛うじて立っているだけといった態の彼のみぞおちを右手で全力で殴った。


「ゲッ」


 石堂は一言小さく呻く。そして、次の瞬間には、彼の口からは消化されなかった飲み食いの名残が黄色い液体と化して、飛び出してくる。

 長い長い嘔吐だった。僕は、素早く後ろに下がり、飛沫がかからないように距離を取った。そして、腹を抱えて地面に膝をついた石堂の口からとめどなく出てくるかつてはネギやコンニャクであっただろう色の薄い固形物が門前の石段を汚していくのを黙って見つめていた。


「ハタ坊、ハタ坊……」


 辛うじて衣服は汚さなかった石堂は、うずくまったままボンヤリと己の身体から排出されたものを見ていたが、やがて僕を見上げてそのあだ名を呼び始めた。


「なんでや……」


 僕は答えなかった。怒りから殴った訳ではなく、瞬間、彼に嫉妬が沸いたからこのような行動に及んだ、ということは説明できそうになかった。



「アンタら! 神様の前でなんちゅう汚いことやってんのや! バチアタリが!」


 ぼんやりと石堂の醜態を見物していたら、突如として後から怒声が上がった。声の方を振り返ると、小柄な老婆がこちらを睨んで立っている。


「神さんの前でヘドを吐くとか、何考えてるんや!」


「じゃかあしいババァ!」


 僕は、老婆に向き直ると怒鳴った。それが正論であろうがなんであろうが、もう、今の自分が聞き分けられる気はしなかった。


「かなわぬ恋に自分らでケリをつけられたエエカッコシどもの最後の地に、ボケのヘドの一つや二つ吐かせて何が悪いんじゃ!」


 三百年近い昔、近松門左衛門が取り上げた「曽根崎心中」の「徳兵衛」と「お初」は幸せだ。石堂がうずくまっている、さらにその奥で見事に添い遂げることが出来たのだ。そんな「幸せな二人」の最後の地で、今のこちらの訳のわからない感情を制御できなかったからといって、何が悪いというのだ。


「そのうち神罰がくるでェ!」


 老婆はそう吐き捨てるように怒鳴ると、やがて去って行った。僕はその背中に、最後の言葉をぶつけてやる。


「ほざけ! もう十分に受けとるわ!」


 老いた背中を見送った後、人の少ない夕方四時のうす暗い神社の門前は、再び石堂のうめき声だけの空間となっていた。僕は改めてケモノのような声でうずくまっている彼の方に体をなおした。

 そして、彼の前にしゃがみこむと、その弱った身体を抱きしめた。


「悪かった、悪かったなイシ、気分は少しは楽ぅなったか?」


「スマンかった、スマンかったなハタ坊、堪忍や」


 石堂はダラリとした力の入っていない手で、抱きしめ返してくる。


「俺は……おケイも、お前も傷つけたんや……生きる価値もない……もう、死んだ方がマシや」


「死ぬなや」


 そう告げた僕は、肩口に温かみを感じた。石堂がまた泣き出しているのだ。


「簡単に死ぬのは僕が許さん。生きて、無理かもしれないがどう償うかを考えぇや。一生かかるかもしれんが、それがイシ、お前の唯一の手段や」


「ハタ坊、許してや……堪忍してや……」


 彼の肩はなおも小刻みに震えつづけていた。


「立つで」


 僕は下半身に力を入れ、有無を言わさず彼を立ち上がらせた。


「また、肩をかしたる。梅田の駅までは連れてったる」


「スマンのぉ……スマンのぉ……ハタ坊……」


「やかましい! さっさと歩かんかい、このアホゥ……」


 僕らはお初天神の門前で肩を組み直すと、元来た道を駅へと向かって歩き始めた。僕の横の泣きじゃくった顔からは、胃液の匂いが漂ってくるが、もうどうでもいいことだ。


「テキパキ動けや、ゲロ野郎……」


 控えていた涙が、再び目元から溢れ出した。遠くからパチンコ屋の喧騒と、有線放送のスピーカーの歌謡曲が聞こえてくる。しかし、そこを通り抜けて阪急電車のコンコースまで石堂を連れていくには途方もない時間がかかりそうだ、と僕は感じた。

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