第20回~昭和45年5月17日「白い蝶のサンバ」(中)
四
腕時計をチラリと見ると針が一時半を指していた。狭い店の客席の陣容もすっかりと変わり、こちらが入った頃に居合わせた客もほろ酔いになって勘定を済ませ、代わって新しい客が次々となだれ込んでくる。
僕は腕組みをして、厨房から漂ってくる肉の匂いを運んでくる煙の行く末だけを見つめていた。石堂がしゃべらなくなった以上、いや、僕が喋らせられなくしてしまったのだが、そうでもしなければこの空気をやり過ごせない。
おケイ一人守りきれなかったのに、この国を守るなどと言われた途端、激昂してしまうしかなかった。反省がないのだ。謙虚さもないのだ。
「フン」
三本目のビールをほとんど一人で飲み干してしまった僕は、空の瓶三本を机の端に押しやると、石堂の真似をして腕組みをしてみた。店内には新たな曲が流れ始めているが、どうでもいい。喧騒が喧騒だ。どうせ聞きとることなど出来ないのだから。
石堂がおケイを守りきれなかった、という言葉は正確なものではない。半分は正しくて半分は不正解だ。彼がおケイを新宿で機動隊から守り抜いたのは事実だが、弱ったおケイに対するその後の仕打ちを入れるとそういう言葉になる。正しくは、「石堂はおケイと自らの心を守れなかった」だ。
だから実際の彼は、あの後守ることを放棄しておケイを攻め立てた。
「サイレンス・イズ・ゴールデンってな、よく言ったもんやで」
食べるものも酒も切れてしまったテーブルに目を落とすと僕は呟いた。去年から起こったことは哀しい話ばかりでしかないうえに、沈黙はいつでも雄弁なわけでもない。
ただ、それにしても、だ。言葉を発せない石堂に付き合うのにもいい加減嫌気がさしてきた。
「相手の男、どんなんなんやろな」
長い沈黙に飽きた僕は、日本酒二合とモツ焼きを追加で注文すると、石堂に語りかけてみた。彼は、くたびれた瞳でこちらを少し見つめたが、やがてクビを力なく横に振った。
「知らんなあ。まあ、俺らよりは大分年上なん違うか?」
「そらな。あのお転婆、今もそうか知らんけどな……の夫になる人や。人格も給料もバランスに秀でた医者か弁護士あたり違うか? もしくはどこかのブティックの若旦那とか」
そう言うと、僕は厨房から流れてきた煙の向こうの石堂を見つめ、それから店の汚い天井を見上げた。「ご無沙汰しています。この度良縁をえまして昭和四十六年の秋に結婚する事となりました」だったか、それくらいしか情報がない手紙からは多くのことが分かるわけではない。
そして、「その時」になっても、僕や石堂に招待状は来ないだろう。僕も石堂も、彼女にとっては切り捨てておきたい過去の遺物になってしまっているはずなのだ。
「花嫁学校なんかに通って家で手伝いをしながら相手を選ぶのではなくて、相手が決まったこれから通ったり、生け花あたりも習ったり自動車免許とりよるんやろなあ」
石堂は呟いた。僕は運ばれてきたぬる燗をプラスチックの猪口に二杯注ぐと自分と彼の前に置いた。酔いもあってか、トロンとした眼の石堂は猪口の中身を少し覗いたが、口をつけようとはしない。それを横目に僕は酒を喉奥へと流し込んだ。不思議なもので、今日はいくら呑んでも酔わない。
辛気くさい話をするために僕らは顔をあわせている。ただ、純な辛気くささにもそろそろ限界がきている以上、僕は少しカーブボールを投げることにした。
「そういや東京で、知り合いから『卒業』みたく花嫁姿のおケイ奪え言われたよ」
おかわりを徳利から猪口へと移すと、僕は吾妻多英から言われた言葉を口にした。
「なんや、それ?」
彼は机に身を乗り出した。おケイの沈鬱な話に、そこまで辛くなさそうな新たな角度がついた途端、その目に久しぶりに生気が甦る。
「大学の同級生がそない勧めた。要は、僕が式場に乱入して、バットでステンドグラスなんざ叩き割ってまわって、消火器なんざ絨毯や来賓にぶちまける。んで、てんやわんやのうちにおケイさらってどこかに逃げるのや……」
石堂の唇が少しだけ笑ったような気がした。いや、笑った。細い目をさらに細めた彼は、本当に久しぶりに笑顔を見せた。その笑顔は、新たにやってきたモツ焼きのせいではないだろう。
僕は僕で、懐かしさが込み上げてくるのを感じた。石堂を許したわけではない。それでもそれは、十年も見慣れていた、どこか頼もしさを湛えた陽気な顔だった。
石堂は猪口を空け、大きく息を吐いた。
「ケッタイなこと考えつく男もおるもんやなあ、ソイツ、どこの出身や?」
ピースを咥えると、アルコールのせいもあってか笑顔にキレが増した石堂は僕に尋ねた。
「男やないよ」
僕も「わかば」に火を添えながら答えた。
「女や。福島のケッタイな子ォやわ」
女の子と分かった瞬間、石堂の顔に怪訝な表情が浮かぶ。が、それがやがてニタついたものへと変化していくのには時間がかからなかった。
「ハタ坊、したたかやな」
お互いの発する煙にホルモンの煙でわやくちゃになった空気のなか、僕はぼんやりと彼の言葉を聞いた。
想定された質問だったし、その後に続くであろう言葉にも察しがついた。が、お約束として返事をしなければならない。
「何が?」
「何が、もなんも、新しい女の子とええ感じになってるやない」
間髪を入れない石堂の言葉を僕は薄笑いと共に受け入れた。
あれがええ感じなものか。
スパゲッティを奢ってもらってから、吾妻多英とは一度しか話してない。大学の構内であっても、こちらに気づくとソソクサと男女問わず友人と連れだってどこかに消えていくのだ。
一度、あまりに不自然だから問い質しはした。彼女から返ってきた言葉は、「失恋学者はモルモットに投薬した以上は、お菓子を待ちつつ効果が表れるまで対象に影響が出ないようにするものよ」というものだった。
「俺もそないにしよかな」
石堂は赤みを帯びた顔で、机に頬杖をついた。
「失恋したんやし、新しい女の子を見つけるのもええな」
石堂の顔に露骨な笑みが満たされていく。だが、その笑みはもう、懐かしいものではなかった。僕が忌み嫌い、憎むべきものだった。なので、「わかば」を消し、酔いのまわった頭を多少整理すると彼を真正面から見据えた。
「お前は駄目だよ、イシ」
吾妻多英から教わった「卒業」のダスティン・ホフマン直伝のカーヴボールはここまでにしなければいけない。変化球の効果は一瞬のもので、やはり今日の話題は蒸気機関車の車輪のように重苦しいものでしかない。
呼吸をととのえる。そして、「口にするだけで嗚咽が出る」であろう事実を彼に喋ることにした。もちろん、喋りたくなどはない。
でもそこを指摘しないことには、話は思い出だけにとどまってしまい、僕は東京でまた、悶えながら生きるしかないのだ。
「お前は……イシ、お前は……おケイが過去に踏ん切りつきよるまで、あの日あの子を汚した十字架背負って生きろ……」
酒の滴と肉の油ばかりのテーブルに、震え声で喋った僕は顔を覆って突っ伏した。声に出すと駄目だと分かっていても、涙がやはり溢れてきてしまう。小汚い盤面に第三の液体が混ざっていく。さっきみたいに怒鳴り散らしてしまえるなら、どんなにか幸せだろう。
石堂は答えない。当然だろう。答えられるわけがない。即答でもしたら、その内容がなんであれ彼はクズ中のクズだ。
五
「なんで……」
やがて耳から、僕の啜り泣きでない別の啜り泣きが入ってくる。僕は顔を上げ、シャツの袖で汚れを拭うと声の主を見つめた。
肩をいからせた巨躯がややうつむきながら、大粒の涙をテーブルに落としている。石堂に涙の資格があるとは思わない。ただ単に、僕とは泣くときのスタイルが違うな、とだけ感じた。
「なんであないなことしてしまったんやろ……」
「こちらが知りたいわ、アホゥ」
僕は長髪を掻き毟った。目の前の石堂を空き瓶で殴ったり、店のテーブルをひっくり返したりで暴れることは簡単だが、今回はそういう選択をしたくなかった。結局は何をしても傷つくのなら、自分の髪でもまさぐっておくのが一番、マシだ。
「俺……最低や……」
「ほざくな、イシ、ほざくな」
ほつれた髪のまま、僕は石堂を制した。彼が「行為」を正当化しようが言い訳しようが、どんな言葉も聞きたくはなかった。
自分に苛立ちがあった。ノコノコとこの場にやって来ることが決まった時に、こんな状況になることはうっすらと予想はしていた。事実自体は既に三月の時点で知っているのに、再度同じ話題で会っているのだ。何の意味がある?
吾妻多英には「お互いを慰め合うだけの会」と言われた。慰め合うだって? そうだ、そうなのだ。おケイは身体と心に傷を負ったし、僕も心を痛めた。だが、石堂は?
石堂もまた傷ついた一人なのだ。
そして、それを僕は心のどこかで認めてしまっているからこの場に出向いてしまったのだ。加害者を、加害者としてのみ憎みきることが出来たらどんなにか幸せだろう。なのにこちらときたらどこかでまだ、この男を「友人」として認識してしまっているのだ。
僕は自分で自分が許せなくなった。あの手紙から溢れ出ていた寂しさから、石堂に会ってしまったことにだ。この罪人に対して「友人」の意識をどこかで捨てきれない僕は、おケイを精神的に犯してしまっているのではないか。
「何を言えばええんや……」
石堂はまた呟いた。大男の嗚咽は、さっきのこちらの怒声以上に店内の関心を得始めているが、気味が悪いのか、はたまた反撃されるのが怖いのか、誰一人として声をかけようとはしない。
僕は答えなかった。彼は何も言わなくていいし、言ってはいけない。ただただ、日増しに己の心を蝕んでいく罪の意識に苛まれて生きていくことしか、もう出来ないだけなのだ。でもそれは妻となり、母となっていくであろうおケイが、ある日突然記憶が蘇る恐怖の中で生きていくことに比べたら遥かに楽だろう。
呼吸を落ち着かせ「わかば」の煙でボンヤリとまどろんだ僕は、石堂に一瞥をくれてやるとある事実を認めることにした。
あの頃、僕には親友が二人いた。そして今、一人は消え、残る一人も消えていこうとしている、と。




