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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第2回~昭和42年6月18日「ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・グッド」(前)


「ハタ坊もええ加減Gシャープ綺麗に押さえてくれんとなあ」

 頭が湿気で蒸れたのか、脱いだ制帽で風をおこしながら、高校の同級生である石堂一哉(いしどうかずや)は僕に向かって言った。丸坊主をやめてまだ二月ばかりの、彼のまだ生え揃わない髪の毛にはうっすらと汗が滲んでいる。

「これからは二人でデュオをやろうというのに、かなわんよ」

「ん……」

 風も吹かない昼の二時過ぎだった。言葉に詰まった僕は石堂の小言を黙って聞き流す。阪急甲東園の駅のホームには、まだ宝塚行の電車が来る気配はない。

「小西さんと芳村さんがトンズラした以上、エレキにこだわるなら僕ら、ピーターとゴードンみたいなデュオでやってみるしかないんやからなあ」

 石堂は相変わらず、制帽で頭に風を送りながら続ける。六月の半ば、梅雨前の晴れた風のない日曜日の午後だった。彼にとって、レコードを買いに行くという行為がどれだけのことかは分からない。ただ、いよいよ夏も近づくというこの時期に、完全な私用にもかかわらず詰襟を着込んで制帽まで被って、レパートリーの練習用のドーナツ盤を買いに行くという彼の出で立ちはケッタイそのものとしかいいようがなかった。「ハタ坊、俺は野球辞めてエレキやるよ。その方が控えの外野手よりナンボか女にモテるかわからん」と、春先にコソコソと僕の耳元で打ち明けた割には、頭のどこかに変なスポーツマン的生真面目さをのこしているらしい。

「しかし、ピーターとゴードンは写真見たら、二人ともフォーク・ギター抱えたりしてエレキだけやないような気もするがなあ」

「ん……」

 今度は、石堂が言葉に詰まる番だった。眉間にほんの少し戸惑いを見せた後、彼はつぶやいた。

「まあ、ギター抱えたポピュラーの二人組いうたら、あいつらくらいしか思い浮かばんからなあ」


 兵庫県の中でも大阪に程近い西宮市、その中にある上甲東園という街にあるそれぞれの自宅の目と鼻の先の高校に通う僕と石堂が、近所のエレキ好きに声をかけてエレキバンドを結成したのは先月のはじめだった。小学校からの幼馴染である彼が突然所属していた野球部を辞め、バットをヤマハのギターに持ち替えたのがきっかけだった。理由を聞いても、彼は百八十センチはあろうかという大きな体をゆすって笑いながらあいまいに答えるだけだった。「ハタ坊、野球はもう飽きてしもうたわ」。

 彼はそうとしか言わなかったが、僕にはなんとなく訳が分かっていた。石堂は二年生になってすぐの四月終わりにあった芦屋の高校との定期対抗戦で、それも応援に駆け付けた大勢のクラスメイトの女の子の目の前で、チャンスに代打で起用されて三球三振を喫したのだ。相手の高校は阪神のセカンドを守っている本屋敷とか、名前は忘れたが昔のオリオンズのエースなんかも出た強豪だ。でも、相手が名門だろうがなんだろうがそれは彼にとってとんでもない屈辱だったに違いない。

 小学校の頃から野球が上手く、中学校時代は南海の杉浦ばりのサイドスローから速球を投げる三番・投手の花形だった彼は、高校に入った途端に多くの部員の中に埋もれてしまう存在となっていた。五年に一度は甲子園県予選の準々決勝に出てくるような野球部には、腕に自信のある連中が集まってくる以上、仕方のないことだったかもしれない。

 しかし、今まで野球が上手いことで女の子たちにチヤホヤとされていた彼にとってはとんでもない転落だった。中学時代は日曜日のたびに鳴尾のグラウンドで試合に出るともなれば、彼のために肉料理の入った手作りの弁当をもってくる女の子が、毎回五人はくだらなかったのだから。そして、自転車で応援に駆け付けた僕に、「食いきれないからハタやん、一緒に食うてくれや」などと言っては、折詰の一つを差し出すのが常だった。

 そういう時期を知ってしまった以上、野球で目立てず、女の子の間でも評判にならない今の境遇に甘んじる理由は、彼の中ではなくなってしまったのだろう。五月の一日に野球部を飛び出した彼は、次の日には親にねだってヤマハの赤い、四万二千円のエレキギターを手に入れた。


「ピーターとゴードンはおととし神戸までボク、見に行ったなあ」

 まだホームに来ない電車が、いったいどこまで近づいているのかを確認するために線路へと身を乗りだしながら、僕は言った。見たところ、どうやら一つ向こうの門戸厄神の駅までは電車は来ているらしい。僕は身を戻すと、石堂へと振り返った。

「何度もイシに話したけど、神戸の国際会館、女の子の悲鳴で凄かったでェ」

 それは凄いコンサートだった。日本のトップ・エレキ・バンドのスパイダースをバックに従えたイギリス人の二人は、耳をつんざくような歓声の中、『愛なき世界』をはじめとする彼らの持ち歌を次々と披露した。そして二人が一曲歌うごとに、テープは乱れ飛ぶわ、女の子は泣くわ、司会はうろたえるわで収拾がつかなかった。僕が今まで経験したことのない熱気だった。

「ん……。ハタ坊からその話を聞いて、俺は野球だけやのうてエレキにも興味が出たんや」

 ニヤつきながら、石堂は頭の後ろで腕を組んだ。確かにそれからというもの、彼は小遣いでエレキ・バンド、ロック・バンドのドーナツ盤を集めるようになった。

「もしも肩を痛めたら、その時は野球やなくてエレキ弾こうってな。俺はそう決めたんや」

 ヒヒヒ、と妙な笑いを漏らすと、彼はさらに浮かれた声を出す。

「そうしたら、また女の子にモテる」


 彼は肩も肘も痛めなかった。控えの彼に身体を痛めるほどの投げ込みをする機会は訪れなかったのだ。それでも彼は野球部を辞め、ギターを買った。そして、大学を出て就職で上京した兄からグヤトーンのギターを譲り受けたばかりの僕に声をかけたのだ。映画部にいて、ガリ版刷りの部誌にジュリー・アンドリュースの新作映画が出た時だけ評論を書きなぐる幽霊部員だった僕は、親友の申し出を断る理由など持ってもいなかった。こちらとしても、ゴダールや大島渚を深刻な顔で語る他の部員の中では、娯楽映画ばかり語ることは肩身の狭いものだったのだ。

 多感な時期に僕らはいる。そんな時代に石堂の頭の中ではきっと、もう一度女の子に評判になることが出来るかどうか、だけで世の全ては動いているのだろう。



「それにしても芳村さんに小西さん、どないしているやろなあ」

 モテる男に返り咲こうという石堂の夢想に飽きた僕は、「元」メンバーについて話題を移そうとした。

「まあ、芳村さんは今頃香枦園あたりで女子大生とテニスしとるんやろうけど」

 僕は腕時計に目を落としながら、そう続けた。

「ホンマにシャクなこったなあ」

 石堂は憮然とした表情で言葉を吐き出した。モテたい思いを前面に押し出す癖に、他人が女の子とエエ感じになっているとなると、たちまち嫉妬をむき出しにするのがこの男の癖である。

「なんでもサマになる私立の大学生なんざ、俺は嫌いだよ」

 僕は彼の言葉にもう、返事をしなかった。そのかわりに駅の傍の踏切の警報器が鳴りだした。ようやく、宝塚行きの電車が入線してくるらしい。


 当たり前だがバンドをやるなら、ベンチャーズ・スタイルだろうがビートルズ・スタイルだろうがギター二本だけでなく、ベースにドラムも必要となってくる。

 ベースはすぐに見つかった。同じ町内に住んでいる芳村さんという、近所にある大学の経済学部の二回生である弁護士の息子がヘフナーのベース・ギターを持っていたのだ。ヘフナーといえば、ビートルズのポール・マッカートニーと同じ楽器だ。去年のビートルズの来日公演をテレビで観た彼は、次の日に神戸の楽器屋で注文したらしい。「流行りモノには弱いんよなあ」と、彼の家までバンド参加を頼みに来た僕と石堂の前で、バイオリンを模した造りの、何十万するかわからないベース・ギターを片手に彼はひとりごちた。「前のバンドやめてしばらくになるし、飾ってるだけでもしゃーない。君らがバンドやるならのってもええよ」

 そんなわけでベースは決まったが、ドラムはすぐに見つかるとは思えなかった。何せドラムは場所をとるし、練習の度に練習場所まで持ち運びをするのが難儀だからだ。ドラムを持ち、なおかつバンド全員が入ることが出来て、周りの家に音が漏れないような練習場所を保有している人間が必要だった。


 そんな理想的な環境の持ち主である、武庫川沿いにある鉄工所の息子である浪人生の小西さんは、ゴールデンウイーク最後の日曜日に芳村さんが紹介してくれた。なんでも彼の高校の同級生らしく、ベンチャーズやビートルズ、はたまた日本のブルーコメッツなど、時期に応じて流行りの曲を高校時代から叩きまくっていたらしい。「おかげでコイツは志望校の阪大、今年も落ちてもうたんや」と、芳村さんは言った。

 からかわれたのも意に介さずといった態で、「ウチの工場の資材置き場で練習しよか」と小西さんは言った。おまけに、アンプの電気は工場からもってきたら何とかなるやろ、とまで言ってくれた。そんなこんなで石堂がギターを手にしてから一週間足らずで、バンドらしきものが結成された。


 次の日から僕らの生活は一変した。学校が終わると家まで駆け戻り、それぞれがギターケースを背に背負ってアンプを荷台に括り付けると、自転車で一目散に小西さんの工場へと漕ぎ出すのだ。芳村さんもやはり、講義が終わると自宅のガレージからブルーバードを引きずり出して駆けつけてくれる。石堂の名をもじって「ストーンズ」と名付けられたバンドは、その癖ローリング・ストーンズはやらず、経験者の小西さんの勧めでコード進行が簡単なキンクスを課題曲にして練習をはじめた。リズム・ギターを担当する僕も、リード・ギターを買って出た石堂も、アンプからストロークした音が鳴る度にゾクゾクするような快感が身体中を駆け巡った。英語詞をカタカナになおした歌詞を歌も担当する僕が叫ぶ時、僕らはまるでテレビ・ショーにでも出演しているのではないか、とさえ思ったものだ。


「しかし、小西さんの事情が事情やったさかいな。イシ、しゃーないよ」


 僕がそう話しかけると同時に、古ぼけた電車が速度を落としてようやく入線してきた。


 小西さんは浪人生だった。しかも二浪の。練習をはじめて三週間がたとうとする土曜日の夕方、いつものように練習をした後で、咥えタバコの小西さんはラディックのドラムセットに座ったままでポツリと言った。「すまんが、バンドは今日限りや」、と。

 二浪しても勉強の傍らで相変わらずドラムを叩いている小西さんに、ついに彼の両親の堪忍袋の緒が切れたのだ。梅田の予備校に朝から晩まで通うことになった彼は、最早午前中は図書館で勉強して、夕方はバンドの練習をするという生活を維持できなくなった。


 ドラムを欠いたバンドの今後を考えるようとする時、前とは打って変わって芳村さんは冷淡だった。ブルーバードに乗り込みながら、彼は「もう、どこのバンドにも属さないでドラムだけ持ってるなんて知り合いはおらんよ」とだけ言うと、途方に暮れた僕らを見ようともせずにギアを入れて走り去って行った。彼は彼なりに忙しかった。大学のテニス選手でもあったし、お嬢様学校として知られている女子大に通っているガールフレンドもいた。そんな彼の中では、これ以上近所の年下の高校生達に義理立てする必要性を感じなくなったのだろう。ヘフナーのベース・ギターは彼の部屋で再びホコリをかぶって飾られるだけの存在になるらしかった。


 僕と石堂は、再びベースとドラムを探さなければならなかった。しかし、この二つを持っている連中は高校にもチラホラいたが、いずれも既にバンドを組んでいて新参の僕らが付け入る余地は無かった。気が付けば僕らには、互いの家を行き来して、周囲に音が漏れないようアンプに繋がないギターで日々練習する以外の選択肢はなかった。







「まあ、ええか。とにかく今日は楽しい、レコード買いに行く日やさかいな」


 石堂は今までのボヤキを洗い流すかのように明るく言い切ると、折しも開いた電車のドアに向かって歩みを進めた。僕も彼に続いて、六両編成の一番後ろの車内へと足を踏み入れる。

 電車内は比較的空いていた。日曜日の昼過ぎでは、宝塚の遊園地に向かう人の波ももう、とっくに落ち着いている。かわって仁川の阪神競馬に行く男性が多く乗っていた。僕らがロングシートに席を見つけて腰を落ち着けたその時だった。


 ハイヒールの甲高い靴音がホームに上る階段の方向から響いた。僕と石堂が音のなる方へ頭を向けた途端に音の主は車内に飛び込んできて、乗客はもう一人増えていた。クリーム色のミニのワンピース、右手にハンドバッグをもった少女が、今しも閉まったドアに片手をついて息を弾ませている。そして少女を待っていたかのように電車は動き出した。


「ははぁ」


 次の仁川駅へと急な坂を登っていく電車の中にあって、息が上がったままの少女の姿を車内広告でも眺めているフリをして盗み見た石堂は、満足そうな感嘆の声をこっそりと僕にささやくように漏らした。


「ハタ坊、今の子ちょっと松原智恵子に似てると思わへんか?」


「へえへえ」


 僕は彼を嗤った。石堂は僕と外を出歩いている時、ほんの少しでも可愛い娘を見かけたら、決まって「あの娘、女優の誰それに瓜二つやないか?」とこちらに話しかけるのだ。去年の秋なんざ二人して梅田までジャケットを買いに行く三十分の道中だけで、彼はオードリー・ヘップバーンと吉永小百合とシルヴィー・バルタンと、それから金井克子を電車内から見出した。


「また、イシの『雨夜の品定め』やがな」


「そんなこと言わんで、ほら、騙されたと思ってあっち見てみィ」


「そんなんいうたかて、お前には騙されっぱなしやさかいなァ」


 苦笑しながら僕は、『松原智恵子』が立っているであろう方向を向いた。


 信じられないことに、僕の視線の先には日活のスターと見紛うばかりの美少女が確かにいた。黒い肩までの長い髪にキリっとした濃い眉、そして大きくて黒い瞳とスラリとした足は確かに松原智恵子がいると断言しても過言ではなかった。


「ほんまや」


 もう、僕は石堂を嗤わなかった。代わりに至極真面目な顔で彼の方を振り向き、その意見に同意するばかりだった。


「せやろ、な、せやろ?」


 久しぶりにこの手の話で僕を同意させたせいか、石堂は得意そうな笑みをこぼして、シートにふんぞり返った。そして、ため息とともにまた小声でつぶやいた。


「俺、いつかはああいうのとデートしたいなあ」


 そう言ったきり石堂は腕を組んで目を瞑った。そして、僕らとワンピースの少女を乗せた電車は、大きなブレーキ音とともに仁川駅へと滑り込んでいった。

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