第18回~昭和43年5月12日「すてきなバレリ」(後)
四
日曜日ということもあって昼前に目覚め、母親の作った朝昼兼用のタップリと芥子を塗ったハムとトマトのサンドイッチを紅茶で喉奥に流し込み終わったところに、石堂はフラリと現れた。
「波多野君、いますか?」
玄関先から聞こえる彼のよく通る声と母親がそれに応対する声が聞こえ、僕は食堂から廊下へと出た。こちらの姿を認めると、彼は白い歯を見せて笑いながら右手をあげる。
「おう、ハタ坊」
「どないしたんやイシ。おケイと会う日でもなかったはずやけど……」
母親に代わって彼の目の前まで来た僕は、突然の来訪を訝しむ。
「いやいや、これ見いな」
そう言うと彼は今度は左手を僕の目の前にかざした。ボールをおさめた野球のグローブだ。
「ここんとこ勉強漬けで体なまっとるやろ? そこらまでキャッチボールいかへんか?」
「そんなんいうてからに。雨降っとるやないか」
「これくらいなら何とかなるて。つきあえや」
玄関から少しだけ表に顔を突き出して曇天を見上げると、問題がない、といった態で一つ頷き、ジーンズにスパイクという珍妙な出で立ちの彼はまた笑った。
五
結局、小雨の中を僕たちは近所の公園へと向かった。適度に雨を吸いこんだグラウンドはしっとりとしていて、砂埃が舞うカンカン照りの場合よりも普段着での運動には適していた。
僕と石堂はしばらくの間キャッチボールをしていたが、やがて彼はこちらにある提案をしてきた。
「すまんがハタ坊、お前少しキャッチャーやってくれへんか? 久しぶりに全力投球しとなった」
「アホいいな。元野球部のイシの球なんかよう、キャッチでけんわ」
「別に野村や森みたくやれとまで言うとらん。俺が放った球を気をそらさんでよう見て、捕ればええだけの話や」
「それが出来たら苦労せんわ」
僕は苦笑した。小学校の頃はそれなりに熱心な豆選手であったが、それだけの話だ。その程度の腕前で去年の春までずっと選手だった石堂の球を捕れる自信なんてない。
しかし、気乗りしないこちらをよそに石堂はサッサとシャツを脱いでランニング一枚の姿になり、脱いだものを小脇に抱えてこちらの返事を待っている。
「わかったわかった」
僕は声を張り上げた。
「ただ、ピッチングやるならそこのコンクリート塀のところ、バックネットがわりにしてやろや。お前の球、逸らすたびに延々と公園中走り回るのはかなんて」
「流石やでハタ坊。根性や、根性!」
脱いだシャツを屋根の付いた東屋のベンチへと放り投げると、石堂は笑った。そして、ウォーミングアップのつもりなのか、腕を車輪のようにグルグルとまわしはじめる。運動から遠ざかったせいか、彼の腕からは少し肉が落ちていた。が、それでもこちらの生白い腕に比べたらはるかに太いものだ。
「へえへえ」
気のない僕は返事をし、そして即席のキャッチャーとしてコンクリート塀の前にしゃがみこんだ。
石堂のピッチングは見事なもので、それは技術としたらきっと野球部をやめて一年が経った今でも往時と寸分も変わらないものなのだろう。
振りかぶるたびに、全身をバネのように伸び縮みさせる彼は、上体を地面につくほどに低く沈み込ませ、そして崩れ落ちそうになる瞬間に横手からボールを離す。中学校の頃に、当時全盛期だった南海ホークスの杉浦のフォームを真似たらしいが、なるほど大投手とは模すだけで直球に大した威力が加わる人をさすものかもしれない。僕はたったの三球受けただけで、グラブの中の左手が腫れ上がってくるのを感じた。
「相変わらず、凄いリキやなあ」
「そら、かつてのエース直伝の球や。ハタ坊の手ェ、パンパンにしたるくらい訳あらへん」
こちらからの返球を受けた石堂は、自信たっぷりにのたまう。
高校に入った時、石堂はサイドスローをオーバースローに変えるよう監督に命じられた。その方がより、直球のスピードが上がるという判断からだったが、彼はそれを拒否した。僕らが幼い頃に巨人相手の日本シリーズで四連投四連勝を達成した杉浦への憧れがそうさせたのだ。杉浦のピッチングが真似できない野球など、彼にとって意味がなかった。
が、監督への反逆は、彼の投手としての経歴を終わらせ、単なる平凡な控えの外野手へと変わらせた。杉浦が肘を痛め、控え選手になった頃の話だ。
もっとも、レギュラーではなかったことで彼は実にアッサリと野球部を辞めることが出来たのだから、何が幸いするかは分からない。
それでも、今の時点で大事なことは、素人に毛の生えたようなこちらにとって、石堂の球は「豪球」とでもいうべき速さを持っているということだけだ。
六
「ところでハタ坊」
グローブから所在無げにボールを出し入れしながら、石堂は語りかける。
「なんやいな、イシ」
「お前、今更ながら聞いてみるけどナ。おケイのことどう思っとる?」
「はあっ?」
まったく、ろくでもない休日だ。深夜色々考えこんだと思ったら、昼になったら親友が同じ問いに答えを求めてくる。
分かりきった答えをためらってる以上、いくら石堂でも答えられる訳がないじゃないか。
「どうって……そら、ええ友達やと思っとるよ」
「ふうん」
小雨の中、石堂の顔が少し期待が外れたようにつまらなそうなものになるのが見えた。
「それだけかいな?」
「ああ、それだけやて。音楽の話でけるかわええ、ええ女の子や」
「さよか」
そう言うと石堂は四球目を振りかぶった。
石堂の手から投げられた球は最初、すっぽ抜けたのかと思うほど見当違いのところへと飛んで行った。そして、ああ暴投だ、とこちらが思った瞬間だった。
ボールは空中で凄まじい勢いで向きを変え、しゃがんだままのこちらへ猛烈な勢いで落ちてきた。慌ててキャッチを試みるがもう遅い。ボールは僕が差し出したグローブの数十センチ手前に落ち、そしてそこを通り越してしたたかに我がみぞおちを撃った。
「なあ、ハタ坊」
慣れない激痛に、服が汚れることに構っていられずグラウンドをのたうちまわる僕に、石堂は声をかけた。
「お前、嘘つくなや」
「つ、ついとらん」
呼吸が出来ないような痛みの中、必死で僕は、激痛を与えた主に返事をする。何故かはわからない。本能みたいなものが本音を言わせてはくれなかった。
加害者は無言だ。無言のまま、地を這っているこちらへと近づくと、目の前に転がっているボールを拾い、また元の場所へと戻っていく。
「ハタ坊、構えろよ」
石堂は長い右手で、ようやく立ち上がったこちらへと白いボールをかざし、命令した。
「もう一度訊くで。お前、おケイのことどう思っとる?」
「だから友達やと……」
こちらが言い終わる前に石堂は五球目を振りかぶった。今度は今までのようなサイドスローではない、オーバースローの投法だ。右手から放たれたボールは一直線にこちらに向かってきたかと思ったが、慌てて体勢を整えた僕のグローブの数メートル手前でほんの少しぐらついたかと思うと、急激に角度を変えて落下した。
またしても捕球できなかった僕はさっきと同じところを両手で押さえると、再び悲鳴を上げて地面に伏した。
「さっきのはカーブ、んで今のがフォークボールや」
どこか、遠くから石堂の声が聞こえる。
「お前が強情はってホントのこと言わんかったら今度はシュート投げたるで」
彼の声がだんだん大きくなってくる。それと同時にスパイクの足音が近づいてくる。
「シュートはなあ、脇をえぐるでぇ」
やがて、あお向けに天を見上げる格好で痛みに耐えている僕の視界に、雨粒と一緒に石堂の顔が現れた。
「なあ、ハタ坊。そろそろ本当のこと教えてくれや」
「わかった、わかったよイシ」
ようやく一時に比べると痛みが和らいだ僕は、呼吸が落ち着くのをまってこちらを覗き込んでくる石堂に答えた。
「おケイが好きだよ、僕は」
思い悩んでいることを言葉にするのは実に簡単だと思った。言葉を発した後で、それに反応して世の中が動きはじめるのが問題であり、腹から声を絞り出すことなど実に簡単じゃあないか。
「おケイが好きだ」か。いい響きじゃあないか。
「ん、よう言うた」
大きな右手が差し出され、その助けを借りてようやく僕は起き上るとグラウンドへと座り込んだ。こちらのシャツやらズボンについた砂をはらってくれる大きな右手の持ち主も、続けて隣にあぐらをつくる。
「俺もあの子のこと、好きなんや」
ぎこちない笑い顔で石堂は語り始めた。
「いきなり無茶苦茶なピッチングで痛めつけてハタ坊にはすまんとホンマ思っとるよ。ただな、そろそろおケイと知り合うて一年やろ。お互いの腹のうち確認してもええ時期や」
「それならそうと、最初からそう訊いてくれたらよかったのに」
「いや、それやとお前は絶対に本音を言わなかった。こんくらい荒療治せんと、ハタ坊の本心は引きずり出せん」
それだけ告げると石堂は立ち上がり、ベンチに放り投げたシャツへと歩み始めた。僕は慌てて彼の後を追う。追わなければ、彼に見捨てられたような気分になりそうだった。
「僕はそないに本音言わんか? なあイシ」
「ああ、言わんねえ」
こちらの問いに、彼は僕へと振り返らずに答える。
「最近フト感じたんやけどナ、三人で会ってもお前、以前からそやけど場の雰囲気を取り繕うことに必死でなんも喋りよらん」
「それは……イシがおケイ初めて見た時から惚れとるのがなんとなく分かっていたから……」
「人のせいにするなアホゥ!」
もの凄い怒声だった。当然、石堂の顔には先ほど辛うじてあった作り笑いなどない。そして彼の剣幕に僕が肩をすくめてたじろごうとする間もなく、僕は両肩を彼の両手につかまれて身動きが取れなくなった。
「俺がおケイに惚れとるのが分かったら、お前が惚れるのはご法度なんかい! 大方、芳村あたりにひねた事吹き込まれたんかもしれんが、なんで対等な立場で競ってみよ思わんのや!」
「しかし……」
「しかしやあれへん。俺ら友達やないか。どちらかがおケイをモノにしても恨みつらみなしで祝福できる関係なんと違うか? なあ、ハタ坊!」
肩から伝わる凄い馬力の中、僕は何となく妙な合点がいった。ああ、芳村さんはどこかできっと石堂にも同じことを言っていたんだ、と。すなわち、「親友同士で一人の女の子を争ったら不幸になる」ってヤツだ。その言葉に、僕はおケイに惚れると同時に縛られたがコイツは屁にも思わなかった。それだけのことだ。
時として不吉な言葉は信じる者よりも信じない者のほうが堂々としている。年長者としてこちらを見下す芳村さんと、自信に満ち溢れている石堂、どちらが正しいのか。
「せやな。なあイシ、お前、僕とおケイの披露宴に来てくれるか?」
「アホぬかせ。俺がお前呼ぶんじゃ」
僕の両肩にかかっていた力は急に弱まり、それと反比例して石堂の顔に喜色が戻った。しかし、その顔はすぐに真面目なものへと移り変わる。
「ただ、俺らも受験生やからな。おケイ狙ってばかりやと男子の本懐がたたん」
「ほな、どないせいっちゅうねん」
「決まりきった話や。俺らが大学に受かって……せやからこちらが京大でハタ坊が早稲田、そっから全力で勝負しよやないか」
「今みたく野球勝負やったら早稲田のが強いな」
「ほざけ。頭はこちらのが上じゃ」
僕らは受かってもいない大学でひとしきり優劣を争った。が、やがてそれが妙なことに気づくと少し押し黙り、それから笑った。この公園に来てから初めて、僕と石堂は同時に、お互いが納得するまで笑い声をあげた。
笑い声が響いても、雨は小降りだがなかなか止みはしない。僕と石堂はようやくベンチへと移動した。くつろぐこちらの横で大男はシャツに袖を通し、ボタンをとめようとする。が、途中でその作業を止め、再びカッターシャツを脱いだ。
「なあハタ坊」
シャツを再びベンチの上に丁寧に折りたたむと、彼は提案した。
「もうちょいだけ、ピッチング付き合ってくれんか?」
「今度は直球だけにしてくれよ」
グローブをはめた右手をかるくあげて僕は答えた。