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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
17/89

第17回~昭和43年5月12日「すてきなバレリ」(前)


 英訳の練習として使っているラッセルの『幸福論』を僕は机に放り投げた。十五ページも訳し続けたらいい加減に頭が痛くなってきたのだ。

 壁にかけた時計が深夜の一時を指し示しているのを確認すると、僕は椅子の上で一つ伸びをつくり、それから自室のドアを開けた。廊下には、母親が寝る前に淹れてくれたコーヒーのポットと角砂糖、それからビスケットの皿が載った盆が置かれている。ポットに手を添えてみると、すっかり熱さは失われていた。


「冷めとるわな、そら」


 盆を部屋へと運び入れて机の上に置くと、僕はまず二つの角砂糖を手に取り、口へと続けて放り込む。冷めてしまったコーヒーに溶けない以上は、こうする他にない。それでも、この後すぐにぬるいコーヒーを流し込んだら、一応は飴湯のような甘さにはなる。

「幸福論」を訳し、赤尾の豆単も多少は覚え、世界史の帝政ローマくんだりをやり、それからほんの気分転換に十六夜日記で古典文法をチェックした。土曜日の勉強としてはいささか量は不足しているが、それでも自らに課した最低限のノルマには達したからまあ、いいだろう。なんだかんだで私大専願にしてからというものの、学校での課題以外に理数のテキストを開かなくとも済むようになったのはありがたいが、問題は日付の変わったこの時間帯にどれだけの上積みができるか、だ。

 ビスケットを齧り、二杯目のコーヒーで流し込むと、盆を畳の上に置く。そしてトランジスタラジオを卓上にかまえる。勉強の合間の唯一の息抜き、深夜放送の時間だ。電源を押すと、途端に饒舌なディスク・ジョッキーーの声が流れ始める。


”~本日もたくさんのリクエストハガキをいただいています……モンキーズの「すてきなバレリ」、いいですねぇ! ()()()()()()()()()()()()()『レディ・マドンナ』の牙城を脅かさんとするアメリカの()()()()()待望の新曲『すてきなバレリ』! えぇ本日も……ウヒャッ、もう、ハガキが部屋に山積みだァ! いいですか、皆さんのご期待に沿うようこの放送で三回はかけますからネ! しかしまずは、ユニオン・ギャップのグっとくるバラード、『ウーマン・ウーマン』からまいりましょう……~”


 トランジスタを机の片隅に戻すと、「幸福論」をもう一度手元に引き寄せる。甘ったるい『ウーマン・ウーマン』が流れる中、脇に立てかけている埃を被ったギターケース、それからボール箱に押し込んだアンプに少しだけ目をやると、僕は『幸福論』の和訳を再開した。  



 高校生活も最後の年となると、今までののんびりとした生活に少しだけは変化が出てくる。

 僕と石堂は一時はほとんど日課となっていたギターの練習をいつしかしなくなった。漢文以外は苦手な科目がなく、バランス良く点を取る石堂が、志望校を京都大学として猛勉強を開始した以上は当然のことだった。もちろん僕は僕で映画好きとして映画会社に製作として入りたいという目標があり、早稲田の演劇学科を第一志望としてしまったので、やはりギターをいじくる余裕はなくなっていた。

 と、なると、勉強が最優先の日常の中で大貫恵子と三人で会う回数だって減っていた。以前は毎週会っていたのが、ここ最近は半月に一回、いや、先月なんて一回だけか。小遣いがあっても、もう宝塚なり梅田までレコードを買いに行く心の余裕もないから、甲東園のポンペアンでクリームソーダを飲んだだけだ。


”~ハイ! 『ウーマン・ウーマン』でしたァ! いいですね、ユニオン・ギャップ。ここ最近では珍しい絶唱型のヴォーカルはヤングのハートにガツンときますね……。ユニオン・ギャップ、噂によれば今はアメリカではビートルズよりもセールスが良いとか。では、続きまして次の曲……~”


 一曲終わったところで、僕は机に突っ伏した。この深夜一時過ぎあたりが、週末の明け方まで詰め込もうって時の一番の難所なのだ。ついついと深夜放送も聴いてしまうし、徐々に襲ってくる睡魔が動き始める時間でもある。ところで、英文を訳しながら英語の歌を耳にして、どれだけ文章って頭に残るものなのだろうか? 多少なりとも歌詞を聴きとってみようという好奇心は、終極的には語学力に役立つかもしれないが、少なくとも受験英語には余計な代物だ。


「おっ『ジュディ―のごまかし』か……」


 軽快なドラムとともに次の曲がトランジスタから流れはじめる中、僕は起き上った。もちろん、起き上がったはいいものの、老哲学者の文章訳がはかどるわけではない。音楽に夢中になるとそれに反比例して勉強の能率が落ちる、当たり前のことだ。

 そんなことはわかっていても、こうやって深夜に勉強しているとどうしてもラジオにすがりつきたくなる。


 そうでもしなければ、石堂と一緒に大貫恵子を前にした時に何も言えなくなる。


 ギターも満足に弾けなくなった以上、ラジオから流れるヒットチャートだけが前みたく三人で会った時の話題となる。だから、「オールナイト・ニッポン」の二曲目があたりさわりのないジョン・フレッドの『ジュディ―のごまかし』だとしても耳を澄まさなけれないけないのだ。恵子は野球もサッカーも、スポーツ全般を知らない。ラジオ・チャートのポップスなりロックだけが、三人で会った時の共通の話題になる以上、一曲といって気を抜いて耳にするわけにはいかないのだ。


 そんなどうでもよく、それでいて重要な曲がトランジスタの向こうで勝手に盛り上がっていくにつれて、恵子、いや、おケイはどうしているのかな、と思う。男二人がそれぞれの志望校を照れの中で語ろうとする時、あの子は決まって少しはにかみながらうつむくだけで、多くを語ろうとはしてくれない。案外、今通っている女子校に併設されている女子大に進学する予定だから、進路が未確定なこちらに気を遣って自分から喋ろうとはしないのだろうか。

 それにしてもだ。「おケイ」の一挙手一投足を僕は気にしている。


「違う、違う」


 フェイド・アウトも使わずに、たったの三分以内で曲を終わらせてしまった『ジュディ―のごまかし』をぼんやりと聞き終わった僕は、ディスク・ジョッキーのしょうもないおしゃべりの中、訳もなく頭を抱えてしまった。最早ラッセルなどどうでもいい。今年で九十六になる爺さんはどうでもいいのだ。

 ただ、老哲学者の健康よりも大貫恵子の事が気になることだって、深い意味などないはずなのだ。


 エレキ・ギターが気になって野球部を飛び出した石堂、イデオロギーまみれの映画研究部の中で映画を語らなければいけなかった僕、そんな二人の前にポップスなり娯楽映画をいくらでも語ってもいい女の子として現れたのが大貫恵子であって、だからあの子は、あの子にはそれ以上の意味が付与されるわけにはいかないのだ。


 おケイは、だから大貫恵子は、石堂と僕の共通の友人であり、それは今までも、そしてこれからも一寸も変わらない事実であるはずなのだ。

 それ以上の感情が自分の中にあるはずがない。



”~ハイ……『ジュディ―のごまかし』でした! これまたゴキゲンな曲で全米チャートでは今年のはじめに一位となったとか。さて、皆さんお待たせしました! 次は日本でもヒットパレード急上昇中のモンキーズ『すてきなバレリ』をお届けします!~”


 軽薄なディスク・ジョッキーの言葉とともに、どこか異世界にでも誘い込むようなスパニッシュギターの音色が、堰を切ったような激しさで部屋いっぱいになだれこんでくる。どことなく物悲しい叫び声が見知らぬ少女の名前を唱え始めるのを眠気の中で頬杖をつきながら僕は聴いていた。それにしても、ギターの下手くそなこちらにでも分かる、圧巻のツイン・ギターの演奏だな、と思いながら。


 しかし、スパニッシュ・ギターとファズ・ギターの共演は思考の中心を占めてくれない。それは、いくら巧くても、今の自分がもっと大きな関心から目を逸らす為にとっさにデッチ上げたものでしかない。


 問題は、「バレリ」だろうが「ジュディー」だろうが、とにかくどんなポップスが流れても女性の名前が出る度に大貫恵子がチラつくことなのだ。彼女に「おケイ」などというあだ名がつけられてからというものの、もうずっとそうだ。


「イシのアホが」


 大貫恵子のことを「おケイ」と呼ぶようになったのは石堂が最初だった。彼は、僕のことを「ハタ坊」と呼びはじめたのと同じように、独特のセンスでもって少女にニックネームを与えたのだった。

 年明けにデイブ・ディー・グループの『オーケイ!』がラジオから流れはじめた頃、この曲のサビの掛け声である「オーケイ!」という何度となく繰り返される掛け声に着目した彼は、大貫恵子の名前と「オーケイ!」という掛け声を一緒くたにしたあだ名を発明してしまった。平凡な発想ではあるけど、肯定の言葉を引っ張り出してきたのは悪くない。僕と石堂はこぞってこの新しい名前を使いはじめた。


 ロシア民謡みたいなメロディーの「オーケイ!」がヒットチャートから消え去っても「おケイ」は残った。恵子自身が気に入ったからだ。


「余計なことしよって」


 頬杖をやめた僕は、今度は頭を抱え込んで再び机に突っ伏してしまった。

 石堂に悪態をつくのが間違っていることくらい分かってはいる。しかし、あだ名には威力がある。「大貫さん」にはなかった親しみやすさが「おケイ」にはある。すると、親しみの中でそれまでは気にも留めなかった彼女の仕草の一つ一つがこう、気になりだして仕方がなくなってしまった。そういった感情を世間でなんて形容するかは、僕がいくらバカであろうと知っている。


「ああ……」


 無神経なモンキーズが曲のクライマックスにいたってもなお、少女の名前を連呼するなか、僕は呻くしかなかった。そういう感情を認めることが怖いのだ。

 認めたいと思えば思うほどに、いつだったか芳村さんに言われた、「親友同士が一人の女の子を奪い合っても、結末は大抵不幸になる」という言葉が僕の後ろをひた走って追いかけてくる。逃げ切ろうとしたところで、おケイと初めて会った時に石堂が漏らした一言「俺、いつかはああいうのとデートしたいなあ」が前に立ちふさがっている。前門の虎、後門の狼とはこういう場合にも言うのだろうか。


 ラジオの向こうのモンキーズは、まだしつこく少女の名前を叫び続ける。

 何かの悪霊に憑りつかれたようなスパニッシュ・ギターが喚き散らすなか、今晩は最早『幸福論』を訳せないな、と重たい瞼の僕はうっすらと感じた。答えの出ない自問に疲れ果ててしまっていた。そして辛うじてラジオを消すと、寝間着にも着替えないままで机から敷いてあった布団へと倒れこみ、意識を失った。

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