第16回~昭和45年5月13日「ミセス・ロビンソン」(後)
四
店の時計が二時をさした頃、僕は今までのいきさつを全て話し終えた。
「……まあ、以上ってところだね」
疲れていた。流石に数十分にもわたって酒の力を借りるわけでもなしに、自分がいかに失恋したか、などと喋ることはまずない経験である以上は当然ではあるけど。
そんな不思議な経験を一気にしてしまったのも、ただただ、目の前で頬杖をつきながらじっとこちらを見据えて話を聞いている、吾妻多英という不思議な存在がそうさせたからだとしか思えない。
「ふうん……」
話を終えて、先ほどもらったばかりの「クール」を口元にもっていこうとするこちらの手の動きを目で追いながら、吾妻多英はポツリと漏らした。
「それって失恋? まあ、失恋か。そうだとしても、重いくせにかなり淡いわね」
「重いくせに淡い……?」
僕は「クール」を口元に持っていくのをやめ、宙でもて余す。完全に一服試すタイミングを失ってしまった気分だ。
「だってサ…………その大貫さんだっけ? その子とあなたの間には小石ひとつ分の波もたってないじゃない。なのに、なぜか地獄めぐり」
「たっていないかあ?」
地獄、という単語をあえて無視した言葉が出る。
「私はそう思うな。波多野クンの淡い感情が、色々あったけど最後まで信頼しなければと思っていた石堂君に叩き壊されただけの話じゃないの」
そうとだけ言うと彼女は髪を掻き上げ、それから僕の右手から「クール」を取ると、こちらの口へと咥えさせた。程なくして小さな両手で覆われたマッチの火が差し出される。
「ハイ、とりあえずは二日がかりの自供のご褒美」
「ン、こりゃどうも」
少しアゴを突き出して火を貰うと、すぐに口内がハッカの香りで満たされる。しばらくの間、独特な煙を喉奥に出し入れしてみるが、やがてそれも終わりに近づこうとするころに吾妻多英が話を本題に戻した。
「大体、聞けば聞くほどに波多野クンはお人好しよ」
彼女は吐き捨てるように言い、そして自身も「クール」を咥えた。
「私だったら事実を知った時に、その石堂君という男の子の頭をバットで叩き割るわよ」
煙の向こうから、吾妻多英の小さな瞳がじっとこちらを見据える。
「もしくはサッカー選手みたく、頭を思いきりよく蹴り飛ばしてもいいわね」
「…………」
僕は、何となく彼女から目を逸らし、店の外へと視線を移した。甲州街道をダンプが一台、スカイラインが一台、それからスバルが二台。
自前のたばこは切れてしまっていたし、吾妻多英には既に一本ねだってしまっている。と、なると、なぜ、殴らなかったのか、と言われたら道を走る車を数えるくらいしか時間をやり過ごす方法が思いつかないじゃないか。
しかし、僕は全てを彼女に話したわけではない。
全貌が見えた時、僕は石堂を殴っているのだ。ただ、口と鼻から血を噴出して崩れ落ちて行った彼がうずくまりながら、それでもこちらをすまなそうに見上げていた表情を思い出すと、どうしても目の前の女の子にそれを打ち明けることが出来ない。それに、あ・の・時・の・こ・と・も・そうだが、「友人」の惨めな光景を殊更に他人に言う必要はない。
「それを、週末に大阪まで出向いてまでして、話し合う? いったいぜんたい、あなたってどうかしてるわね」
もう氷も溶けてしまったアイスコーヒーのグラスの底をストローでかき回しながら、僕は彼女の言葉を受け止めた。返す言葉など、もうないのだ。
「何をしに高いお金出して日帰りで大阪に戻るの?」
「何って、そりゃあ……」
「要はその石堂君と、気まずいながらも昔のよしみでお互いを慰めあう、それだけなんでしょ?」
僕はゆっくりと首を縦に振った。ああ、吾妻さん、そうだよ。「それだけ」なんだよ。例え最終の新幹線まで粘っても、そこに建設的な会話は何一つないだろうし、昔を懐かしんで慰め合うだけだろうし、自分たちの判断の誤りを確認し合うだけだ。
でも、そうでもしないと今は押しつぶされてしまいそうだというだけだ。
自身が確認したい問いに対して、こちらがその内容を肯定したのを確認すると、吾妻多英は満足そうに一回うなずいた。そして次の瞬間、こちらにとんでもない提案をしてきた。
「どうせなら、彼に『卒業』のラストシーンみたく式場から大貫さんを奪ってみる、と宣言でもしたらどうなの」
「冗談だろ?」
「生憎と、付き合いの浅い男の子に冗談言うほど私も厚かましくないの。一度くらいは厚かましくなってはみたいけどね」
そう言うと吾妻多英は席に鞄を置いたまま立ち上がり、僕らの外には客のいない昼下がりのレストランの中をゆっくりと横切り始めた。が、やがてジュークボックスの前で立ち止まる。レジスター係の店員に、ジュークボックスをかけるからレコードを停めてくれ、と一言声をかけると、彼女は機械に硬貨を入れて選曲した。イタリア民謡でなはない、乾いた、擦れたギターの音が店内いっぱいに大音量で響き渡る。サイモンとガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」だ。そういえば、映画「卒業」で使われていた曲だった。
「そんくらいしてみなきゃ駄目よ。そうする事でしか、三年も指をくわえて、成り行きを見てるだけだった波多野クンが救われる方法はないわ」
アート・ガーファンクルの歌声にあわせて、吾妻多英は気持ちよさそうに指を打ち鳴らし、つま先で軽快にステップをとりながら席に戻ってくると、もう一度こちらに「計画」を奨励してくる。おかしそうに話す彼女の声を聞きながら、僕はここ数日しょっちゅう繰り返していることだが、ぼんやりと昔を思い出しはじめた。
この曲、「ミセス・ロビンソン」が梅田だろうが三宮だろうが、どこでも熱病のように流行っていたおととしの夏。石堂と予備校の夏季講座に通った頃、地下街の喫茶店なんかにクーラーで涼もうとかけこめば、きまってこの曲が流れていた。そうそう、もちろんだけれども、予備校の帰り道に一人で東梅田の二番館だったか三番館で「卒業」自体も観に行った。ダスティン・ホフマン主演のよくわからない映画だったが、音楽と、ラストシーンだけは面白かったことを覚えている。
花嫁を奪う、か。物語としては痛快ではある。しかし、ウェディングドレスの大貫恵子をホテルの式場から石堂と二人がかりでさらっても、三人とも昔のように過ごしていく事なんて出来ないだろうし、帰るべき足場だってないのだ。金も学生の身分も激変する、というか失うだろう。
それに、恵子の気持ちが分からないじゃないか。こちら二人をみとめた彼女が、「卒業」のヒロインみたく僕らの名前を叫ぶだって? ありえない、ありえない。
ああ、そうだよ、冷静に考えればやっぱり僕は吾妻多英が言うように、小石ひとつ分も恵子の心に響くものがない男だった。
「私は昔から、いいなあと思った相手がいたら動くわね。自分から」
物思いにふけっているこちらを尻目に、吾妻多英はおしゃべりを再開する。しかし、動くといったって、彼女にだって式場から新郎を分捕った経験などないだろう。
「そしたらその時の反応で大体、相手が分かるわ」
座ったままでサイモンとガーファンクルのリズムにあわせながら、彼女は楽しそうに両手でテーブルを控えめに叩きながら話を続ける。
「水道橋のホームで波多野クンにも試してみたんだけどね…………まあ、童貞には分からないわよね」
暑苦しい「ミセス・ロビンソン」のギターが徐々にフェイド・アウトしていった。吾妻多英は少しだけ、ジュークボックスへと目をやったが、やがてこちらを見つめると一つ、小さなため息をついてクスリと笑った。
「それは……」
いきなりの発言の意味を僕は確かめようとし、とりあえず何か言葉を発しようとする。しかし、彼女は「もういい」と言わんばかりに右手を自身の胸の上で二、三度ヒラヒラとふると、今度は鞄を持って席を立ちあがった。
「レコードも終わったし、そろそろ行かない? 波多野クンの話にまとまりがないからここに長居しすぎちゃった」
五
曇り空の中を大学へと戻っていく最中、こちらが御馳走のお礼を言った以外は僕らは無言だった。何も、要は最後のクダリについてこちらから彼女に問えない雰囲気があった。仮に、昨日の吾妻多英にそ・う・い・う・感・情・が一瞬湧き上がっていたとしても、僕はそれを袖にしたみたいだ。それに、今更気づいたからといって、慌ててすがる必要があるのかどうか。
「波多野クンさ、メモ代わりにノート一枚くれない?」
大学の正門まで戻ってきた時、吾妻多英は無言でいることをやめ、僕に一枚の紙切れを要求してきた。
「それは、別にいいけど」
自分のものを使えばいいのに、と思いつつ、ペペロンチーノの恩もあって僕は比較文化のノートを取り出し、そこから一枚千切ると彼女に渡した。無言で受け取った吾妻多英は、下敷き用のテキストと鉛筆を取り出すと、渡した紙面に何かを書きはじめる。
「はい、大阪ではこれをよろしくね」
吾妻多英はそう言うと、紙をこちらに返してきた。目を落とすと、そこには洋菓子の名前が書き連ねられていた。
「モロゾフのチョコレート、ユーハイムのバームクーヘン……吾妻さん、これは?」
「波多野クンは駄目ねェ。大阪に行くのならデパートで、神戸の美味しいお菓子くらい買って来てってことじゃないの」
「それにしても、こんなに買ったらどれだけすると思ってるんだよ?」
「往復八千円も使って大阪でしょ? 二千円くらい私のために洋菓子買ったってどうってこと、ないわよ」
月曜日には楽しみにしてるわね、とだけ言い残すと吾妻多英は一号館に消えて行った。僕は、ジーンズにかかるほどの黒髪をたたえた彼女の後ろ姿を唖然と見送ると、紙片をダンガリーのシャツの胸ポケットにおさめ、やがて比較文化論の授業が行われる二号館へと足を向けた。
どこからか、来月の安保阻止か何かの為のデモの練習だろうか、歩調を合わせるための小気味のいい笛が聞こえてくる。
その日の夕方、僕はアルバイト先に向かう前に新宿駅のみどりの窓口で新大阪行きの新幹線の指定席を買った。気怠い表情の職員から切符を受け取り封筒におさめる。そして封筒を鞄に入れようとした時に、僕はふと思い立って、昼間に吾妻多英から託された紙片を胸ポケットから取り出し、再びひろげてみた。
「チョコレート、バームクーヘン、それからクッキー詰め合わせねぇ……」
直に帰宅ラッシュでごった返す新宿駅の西口で僕は一つだけため息をつき、空に向かってそびえる地下街の排気口を見つめた。
そして、紙を丁寧に四つ折りにすると、切符の入った封筒へと押し込んだ。