第15回~昭和45年5月13日「ミセス・ロビンソン」(前)
一
六畳の真ん中に敷いた布団を威勢よく蹴り飛ばして起き上ったものの、とにかく頭がフラフラとして仕方がなかった。
酒のせいではない。確かに昨日は後楽園で呑んだが、ビールの数杯で頭痛が起きることなどは今までなかった。
吾妻多英だ。多分、大体あの女のせいだ。あの女が水道橋のホームでキスなどいきなりしてくるのがいけないのだ。
「かなわんよ」
僕は布団に胡坐をかくと枕元の灰皿を引き寄せ、買い置きしていたまだ封を切っていない「わかば」に手を伸ばした。しかし、深々と煙を吸いこんではみるものの、妙な動揺はとまらない。
言い訳になってしまうが無理もないのだ。何せ、ああいうことはそんなに経験していない。
あの時カーブの向こうに電車が見え、それがホームに入ってくる僅かな時間の間にあの子の舌がこちらへと入ってきてしまった。それは生臭くはなく、どこか牛乳のような薫りがあったような気もするが、結局のところよくはわからない。
火種がほぼ無くなったタバコを灰皿に放り投げると、せっかく起きたにもかかわらず僕は布団に再び倒れこんだ。机をみると時計はまだ八時四十分、大学は今日は二限からなのでもう少しぼんやりとすることは可能だ。
「まるで『サマー・ワイン』やな」
ナンシー・シナトラのあの曲が流行ったのは、高校二年生の秋くらいだったか。だから昭和四十二年の話だ。来たるべき受験戦争その他諸々の前に許された最後の穏やかな日々。石堂がいて、大貫恵子がいて、ギターがあった。そんな時に季節外れのタイトルである「サマー・ワイン」はよく流行った。一服盛られて身ぐるみ剥がれた男の歌。一回のキスでフラフラになって、新宿から初台まで言われるがままにタクシーをおごらされ、終電もないからそのまま阿佐ヶ谷まで乗車した挙句に千五百円を空費した大学生が思い出すにはふさわしい曲だ。
そうそう、その年のクリスマスに石堂と大貫家に招かれて、初めて酒を~確か赤玉ポートワインだった~口にした時、恵子から冗談で「波多野君、『サマー・ワイン』みたく私がいきなりキスしたらどうする?」だなんて言われたっけ。「ホンマかいな?」と聞き返したら、「やだァ」とクッションが飛んできてそれが顔に当って僕はひっくり返って、酔いで顔を真っ赤にした石堂がそれを見てゲラゲラ笑った末にワインを絨毯にぶちまけて……。
「これくらいにしとこか」
そう呟くと、僕は再び起き上って箪笥からダンガリーのシャツを出して身につけ、それからジーンズを穿いた。この数日というもの、思い出はとめどなく溢れてくるが、あまりに溢れたら今日を生きるのに身動きがとれなくなってしまう。少なくとも、昨日タイガースの試合を一人分余計に払ってまで観戦して気分を変えようとしたことが無になってしまう。どこかで切り替えなきゃあ、いけない。
僕は二本目の「わかば」に火を点けると、くたびれた鞄に今日の講義分のテキストやらノートやらを詰め込み始めた。ドイツ語演習と比較文化を受講し、その後アルバイトにも行かなきゃいけないし、新幹線の切符も買わなきゃいけない。
一年時とクラスの人員が変わらない語学がある以上、吾妻多英は多分だけど講義に姿をあらわすだろう。でも、浮かない顔をしているよりかは、顔と名前が完全に一致してまだ二日目だが何を言い出すのかわからない娘と同じ授業を受けている方がナンボかマシだ。
それに、だ。からかうような口調でこちらに話しかけてくる吾妻多英は、悪口めいた言葉をこちらに投げかけてくるにしても、何となく楽しい存在になりつつはある。
二
吾妻多英は昨日と同じようなジーンズ穿きに、ショルダー・バッグを小さな身体にぶらりとさげた出で立ちでドイツ語演習の小教室の出入り口近くの壁にもたれかかっていたが、こちらの姿をみとめると軽く右手をあげた。
「昨日はお誘いありがとね」
彼女は表情を緩めると、短い休み時間の中でごった返す廊下の中をこちらに近づいてくる。
「お誘いだって? 君がついて来たんじゃないか」
「まあまあ、細かいことはいいじゃないの。私はほぼほぼタダで初めてプロ野球観られたし、波多野君は女の子とデート出来たしでいいってことよ」
なるべく後ろの、教壇から離れた席を探そうとしている僕の後ろをピッタリとつけると、彼女は昨日に続いてこちらの真横に陣取る。
「デート、ねえ。あれがデートかねえ」
「半日も男と女でぶらぶらすりゃれっきとしたデートよ。ねえ、キスまでしてあげたのよ。童貞があまり贅沢言っちゃいけないわよ」
狭く古めかしい机にテキパキとテキスト、原書、ノートに辞書で市をなすと、彼女は僕の肩をポンポンと叩いた。
「それに演劇学科の人間として、向学に繋がる失恋野郎の観察にはあのくらいの『栄養補給』が必要なのよ」
「おいおい、ボカァなんだい? モルモットかい?」
「まあ、そんなとこね。万が一じさ……」
その時ベルが鳴り、まだ若いドイツ語の助教授が慌ただしく教室に入ってきたので、何か言いかけていた吾妻多英は、意図の分からないウインクを一つこちらによこすと話を打ち切って前を向いた。長い黒髪が彼女の表情を遮り、こちらからでは彼女の表情が分からなくなる。
「出欠を取ります」
助教授の大声が教室を駆け巡り、点呼の中、ざわついていた教室が潮が引くように静かになっていく。
「先週の続きです。ヘッセ『荒野のおおかみ』の三十九ページから」
プロ野球好きとして知られるせいで、今の八百長騒ぎでマスコミから引っ張りだことなっている総髪の学者の声が出欠以上の声量で響き渡り、やがて教室は彼の声以外は紙をめくる音しかしない空間へと変わっていった。
三
授業が終わると、吾妻多英は昼飯を食べに行こうと誘ってきた。
「そりゃいいけど、この時間の学食に入れるかね?」
「学食じゃなくて外に食べに行かない? 波多野クン、次は何限から?」
「四限だけど」
「そう、私は四限と五限。お茶まで飲みながらゆっくり食べられるわよ」
そう言うと、彼女は正門から甲州街道を新宿の方にしばらく歩いたところにある、まだ出来て新しいであろう小ざっぱりとしたレストランへと連れてきた。
「最近知ったんだけどサ、ここスパゲッティが美味しいのよ」
昼時とあって若干だけ混雑した店の中の奥まった席に陣取ると、カンツォーネだろうか、イタリア風の音楽がボリュームいっぱいに流れる中で彼女はメニューをこちらに渡しながら言った。
「スパゲッティが美味しい店なのか。と、するとそりゃミートソースかい? それともナポリタン?」
「ううん、ここは他と違ってペペロンチーノってのがあって、これがなかなかいいのよ」
「ペペロンチーノ? 何だい、そりゃ?」
「平たく言えばニンニクとトウガラシのスパゲッティね」
「ニンニクか……食べてみたいが今日はこの後授業だけやなくてアルバイトもあるからマズいな」
「かまやしないわよ」
彼女は僕の手からメニューを取ると、手を挙げてウエイターを呼んだ。
「昨日送ってくれたお礼に私がスパゲッティ代払うから、ここはペペロンチーノにしなさいよ。味は素敵なんだから」
「わかったよ」
つくづく強引な女の子だ。僕は「お手上げ」の仕草をすると、彼女の意志に服従した。まあ、被害者は次の授業の周囲一メートル以内の学生とアルバイトの配達先でクダを巻いている酔客くらいだ。新たな経験に多少の犠牲者が出ても仕方がないか。
ニンニクと油が程よく絡まったペペロンチーノというスパゲティを食べた後、吾妻多英はアイスコーヒーを二つ注文した。程なくして、氷がいくつか入ったグラスがそれぞれの目の前に運ばれてくる。ストローでコーヒーに口をつけた瞬間、彼女が口を開いた。
「飲んだわね」
彼女の口元が少しニヤついたものに変わる。
「そりゃあ……飲んだけど」
「私はスパゲッティは奢るって言ったけど、コーヒーまでとは言ってないわ」
「どういうことだい?」
「コーヒーもついでにごちそうしてほしかったら、そろそろ今回の大失恋の詳細を教えなさいよ」
僕は黙ってコーヒーを飲み続ける。クセの強い子ではあるが、こんな些細なところにまで妙な落とし穴を掘っているとは思わなかった。
「嫌だと言ったら?」
「自分で払うことね。それと、これからは波多野クンの事を『ウジウジした意気地なし』と思うようにするわ」
自身のバッグから「クール」を取り出してマッチで火を点けると、彼女はアッサリと言った。
「ええ……」
「ねえ、波多野クン、全部話して楽になったら? そうしなきゃ、あなたずっと、半年だか一年だかを沈鬱な顔で過ごしていくだけよ」
「うーん……」
僕は腕組みをすると、椅子に大きくもたれた。これじゃまるで警察か何かの取り調べだ。
「ねえ、こんな美人が聞いてあげるというのよ。せっかくのチャンスは活かさなきゃ」
吾妻多英はテーブルに身を乗り出すと、こちらに「自白」を促してくる。僕は「女刑事」を左手で制すると、胸ポケットから「わかば」を取り出し、吸い始めた。
「この一本を吸い終わるまで、考えさせてくれない?」
「いいわよ」
咥えていた「クール」から口を離すと、彼女は我が申し出を認めた。ああ、ありがたい。この一本を吸い終わるまでは僕の時間だ。
煙を肺におさめていくと、多少の動揺がおさえられていくような気がした。
惨めな気持ちを知り合ったばかりの人間に話して何になる、という気持ちは確かにある。その相手がマ・ス・だなんだと、トンデモない毒舌を駆使する女の子だと尚更だ。
しかし、だ。今度の日曜日に石堂に会ったとしても、そこで話されることは、まあ過去の思い出話と今の惨めさに終始するだけだろう。石堂がしでかしたことはしでかしたこととしても、今回大貫恵子から手紙を受け取った際にはすぐにこちらから電話を入れるくらいには、彼はまだ友人ではある。
ただ、やはり石堂との話は、目の前にいる女の子の言うところの「マ・ス・」にしかならないだろうし、恐らく話したところでそう言われるのだろう。だが……
「吾妻さん」
タバコが残り半分となったところで、僕はガラスの灰皿まで口にしていたものを持っていき、そしてすり潰した。
「長くなるけど、いいかい?」
こちらの長い沈黙を、腕組みしながら見守っていた吾妻多英が縦に首を振る。
「いいわよ。お互い時間はタップリとあるし、全部聞いたげるわ」
「あと、そのハッカ入りのタバコを話した後に一本吸わせてくれや。ちょいと試してみたい」
彼女は黙って「クール」の箱から一本を抜くと、こちらに差し出した。受け取った僕はしばらくの間、珍しい一本をマジマジと見つめたが、やがて机に置いた。
「それは僕が高校二年生の時で、だから三年前のことだった……」
話しはじめると、自分の顔が強張っていることを感じた。初めて、あれこれの事実を吐き出すのだ。いつしか店内の音楽は途切れていた。レコードの針が上がったのかもしれないな、とふと思った。