第11回~昭和42年10月8日「花のサンフランシスコ」(1)
一
緊張だけが僕と石堂にあった。何せエレキの練習を初めて五か月目にして初めての、本格的に人前で演奏を披露する場なのである。おまけに披露する相手が大貫恵子と、彼女の友人である女子校の同級生達ともきたなら尚更だ。
「しかし、大貫さんの誕生日パーティーの席が俺達のお披露目なら、絶好のチャンスやなあ」
即席の控室として与えられた大貫家の応接間で、赤いギターをチューニングしながら、石堂は僕に話しかけた。呑気を気取っているような彼の声は、緊張でさっきから心なしか上ずった声ばかり出しているこちらの対極だった。
「何が絶好なものかいな」
先にチューニングをすませてしまっていた僕は、ソファーの肘掛けに置いた今日のレパートリーとする予定曲の歌詞カードに目をおとして、もう一度だけ暗記をしながら彼に返した。日本のヒット曲も演る予定だが、ポピュラーやエレキの英語詞は、全くの難物なのだ。
「練習と違うて譜面も歌詞もみないで一気に五曲も唄って弾いて、や。ホネやで。女の子達の前で恥はかきとうない」
「まあまあ。恥かきたないのは俺かて一緒や。リード・ギターを暗譜せなあかん辛さは、ハタ坊が歌詞の暗記するのと同じくらいエライ話やて」
「まあ、せやな。ギターに関しては僕はサイド・ギターだからキー押さえたらそれですむ程度やさかいな」
「なんやかんやいうても、パーティーの余興として大貫さん直々のご指名や。ガッツで乗り切らなアカン」
元スポーツマンらしく、「ガッツ」などと口にした石堂はチューニングを終えると、ソファーにもたれこんだ。巨体の衝撃で肘掛けの歌詞カードがふわりと宙に舞う。
「おいおい」
絨毯に散らばった歌詞カードを拾い集めると、僕は彼を軽くいなした。
「こっちが歌詞を覚える最後の悪あがきをしとるというのにデリカシーないやっちゃなあ」
「ハタ坊、もう観念せえ。んで、今覚えてる範囲で唄え唄え」
石堂はソファーに座りながら、着込んでいるVANのジャケットの襟を正すと笑い始めた。
「俺らの初めての『ステージ』や。ミスなんざどうでもええわい。演りとおした事が肝心よ」
「そんなもんかねえ」
「そんなもんよ。下手に色気出しなさんな。ルーキーがいきなし巨人相手にノーヒット・ノーラン狙うかいな。まずは完投やで、狙うのは」
「ほうか。ほな、イシの言葉に従うわ」
僕は歌詞カードを畳むと、ソファにもたれかけさせている鞄に放り込んだ。確かに彼が言うとおり、鷹揚に構えているくらいの方がいいのかもしれない。
と、なると歌詞とギターの準備が終わった以上は、後は服と髪形だけだ。僕も、石堂と同じようにヘリンボン柄のVANジャケットを羽織ると、赤のネクタイを締め始める。
「ハタ坊、『バイタリス』もう少し要るか?」
石堂が時間を持て余したのか、ギターでアルペジオをやりながら整髪料を勧めてくる。
「いや、さっき十分に前髪にも襟足にもモミアゲにもつけた」
「さよか、俺はもう少しなでつけておくわ」
整髪料を二、三滴右手にたらすと、石堂は手際よく髪全体へとすりこむ。その姿を見ていると、この男が半年前までは坊主頭の野球少年だったなどとは全くに思えない。彼の髪の長さと型は、気がつけば僕と同じようになっていた。すなわち、高校の生活指導の教員の目を気にして、耳までは覆わないまでもモミアゲと襟足だけは長くした、まあ、一種の長髪である。
「何度も話し合ったが、『いとしのマックス』からでええな?」
グヤトーンのギターにベルトをつけながら、僕は彼に念を押す。
「ん。せやで」
整髪料でベタついた手をハンカチで強く拭うと、石堂は答えた。
「『いとしのマックス』『青い瞳』『バラ・バラ』『ウィンディー』で、まず四曲。んで締めが……」
「『花のサンフランシスコ』」
スコット・マッケンジーの歌で今、大いにヒットしている曲の名を僕は答えた。
「トリの曲を覚えているなら上出来やて。お・姫・様・もご満足なさるショウが開催出来る」
石堂がのんびりとした笑みを浮かべたままソファから立ち上がった。既に彼は肩からギターをベルトで吊るしている。
「さあさあハタ坊、行くで。お姫様とそのご学友をあまり待たせたら不敬罪や」
「ああ」
返事を返すと、こちらもグヤトーンを肩からかけた。そして、石堂に続いて応接間の隣にある、パーティー会場となっている二十畳はあるであろう居間へと歩みを進めた。コーラやオレンジ・ジュースの瓶、サンドイッチやコールミートの皿を囲んだ彼女達が、僕ら二人の演奏にどんな反応を見せるのかは勿論、何一つ分からない。
二
大貫恵子が、十七歳になった誕生日パーティーをやるので来てほしい、と僕と石堂に言ったのは九月の最後の日曜日の事で、それはいつものように宝塚のレコード屋に行った帰り道のことだった。
「どう?」
陽は燦々と照っているが、ほんの少し秋を感じさせる気温となってきた午後だった。駅から僕らの自宅へと続く長い坂道の途中で彼女は、僕らの顔を覗き込むようにしながら出欠の可否を問うてきた。黄色いブラウスの上の、セミ・ロングの滑らかな髪がゆるやかに揺れる。
「そらあ」
「もうねえ」
僕と石堂は互いに顔を見あわせた。答えなんて実に分かりきった事だ。
「俺もハタ坊も喜んで参加させてもらうで」
ほんの少しだけ鼻の下を長くしながら、二人を代表して石堂が回答した。
「よかった!」
小さな手を胸の前で軽く合わせた彼女の弾んだ声がする。
「しかし、男の僕らがお邪魔してもかまへんのかいな?」
石堂は快諾の後でもっともな疑問を呈した。確か彼女と僕らがはじめて会った時、「ボーイフレンドなんか連れてきたら親が卒倒するかも」と冗談にでも言っていた以上、当然の質問ではあった。
「それは心配ないわ」
彼女は断言した。
「二人がウチを酔っ払いから助けてくれた話をパパにしたら、『一度くらい連れてこい』言うてたくらいやもん。大丈夫よ」
「それなら良かった」
僕と石堂は再び顔を見合わせ、ニヤつきながら頷きあった。
「それで、ひとつお願いがあるの」
僕ら二人が訪問しても問題がないことを強調した大貫恵子は、パーティーについての新たな話題をこちらに出す。
「お願い? 何やいな?」
今度は僕が声を出す。
「二人ともギター練習しているでしょ? 一つ余興で演奏してよ」
「ほんまかいな」
「だって、二人の家にいったら時折それぞれのギター、弾いていたでしょ? あんな感じで気楽にやってくれるだけでいいのよ」
「パーティーは僕ら以外は、何人くらい来るん?」
「学校の友達を五人招待してるわ」
その時、ちょうど坂の中腹くらいに差し掛かった時だったが、石堂が叫んだ。
「そら、ことや!」
声の大きさに、僕と大貫恵子は歩みを停めた。今しがた脇を通りすぎていったバスの音にも掻き消されない大音量だ。
「大貫さん、お友達て、やっぱり、女の子やんなあ?」
「そら、ウチ、女子校やからねえ」
「御前試合やがな!」
彼は大きな身体を反らして天を仰いだ。
「僕ら練習以外やと、まともにコンビで人前でエレキ弾いたことないのに、その初っぱなが大貫さんの誕生日祝とはな。えらいこっちゃ」
大声と大袈裟な仕草を続けていた石堂はやがてそれらを止めると、ニタっとした笑みを浮かべて右手を大貫恵子に差し出し握手を求めた。
「引き受けまっせ、お嬢さん。何ならギターだけやのうてコイツに歌も唄わせます」
石堂はそういうと、僕に向かってアゴをしゃくった。
「あ、ああ」
彼の勢いに呑まれ、思わず僕は同意してしまう。
「バンド形式で練習していた時は、何曲か唄ってみたことも…………あるわ。特訓すれば、美声くらいワケあらへん」
とんでもない大見得を切ってしまったと後悔する間はなかった。大貫恵子がこちらに向かって満面の笑みをこぼしはじめたからだ。
「波多野クン、唄ってくれるん? 嬉しいわぁ!」
「気張りますわ。お嬢さん」
きっとぎこちないであろう作り笑いで僕は応じた。
「イシ、どういうつもりや? ギターも人前で披露できる腕かまだ怪しいのに、そのうえ唄うだなんて!」
県立高校の前で大貫恵子と別れた後、僕は石堂に問いただした。
「まあまあ慌てるなハタ坊」
石堂は悠然と頭の後ろで腕を組みながら、ぶらぶらとそれぞれの家と突き当りにある私立大学へと通じる広いバス道を歩き始める。
「パーティーまで二週間ある。今まで以上に猛特訓すればええだけの話や」
「そりゃあ、そうやけど」
「そうやけど、やない。そうでしかあらへんよハタ坊」
石堂は立ち止まってこちらを振り向いた。もう、先ほどまでのニヤついた表情は彼にはなかった。
「俺が気安う引き受けたのと、場の勢いとはいえ、お前も了承してしまったんや。一度『うん』言うたらどないしても筋は通さな、アカン」
全くの正論だった。こういう正論に必要以上に食い下がると、あとは僕がアホウに見えていくだけだ。
納得するしかない。ただ、それでも一点だけ確認しなければいけないことがあった。
「分かったよ。しかし、ギターいじったり発声の練習ばかりしてもいられん。学校の授業はどないするんや」
「ああ、それはな」
こっちが納得したので、また表情を崩した石堂は、何とも呑気な解決策を提案した。
「俺は数理と英語が得意やろ? んでハタ坊は社会と国語に強い。お互いが得意科目の宿題や予習、もう一方の分まで担当したら勉強時間はまあ、半分くらいに減らせる」
そんな簡単にいくものか、という疑問はあったものの、当座はそれで誤魔化していくしか方法はなさそうだった。
「了解や。ほな、練習時間、倍にするか」
「おうよ」
ギターの特訓を行うという点で合意をした僕らは、それぞれの家にすぐに戻らずに、そのまま道を真っ直ぐに突き当りまで歩いて行くと、やがてそれぞれの家の目と鼻の先にあるミッション系大学の構内へと入っていった。僕はそうだったし、石堂もそうだったが、高校に入った頃から何か重要な取り決めをしなければいけない時、僕らはこの学校の広大な芝生の広場をしばしば利用した。周りが大学生ばかりという環境の真ん中にある芝生で寝ころぶと、大人びた気分に浸ることが出来たし、何よりも開放的な心持になれた。そういう環境の中で話をすると、自分たちの会話が大いに成熟したものであるような錯覚に陥って話が進むのだ。
「何を演目にするか、が問題なんよ」
日曜日の大学は閑散としていた。芝生の上に仰向けに寝転がった石堂は、空を見上げたまま、同じような格好をとっている僕に向かって話しかけた。九月の終わりの晴れ上がった空は、どこまでも透き通って見えた。
「レパートリーの問題やな」
僕は同意する。
「せや。大貫さんはポピュラーもロックも好きやから何やっても喜んでくれるやろけどな。その友達となるとそうはいかん」
「そらなあ、せやろなあ」
「せやからエレキにそこまで興味のない子らでも、『あ、知ってるワ』となるような日本の曲も少しは混ぜんとなあ」
「荒木一郎やブルーコメッツブルコメあたりはどないや? そこらへんなら元からエレキ使うとるから、他の流行歌と違って弾きやすい」
「『いとしのマックス』とか『青い瞳』とか?」
「ああ、そこら辺ならヒット曲やし、しかもポピュラーと似た曲調やからええと思うねや」
「よっしゃ、ほな日本の曲はその二つにしよ」
石堂は、満足そうな声をあげると上体を起こした。そして寝転んだままの僕を見下ろすと、こう促した。
「ハタ坊、何寝転んどんのや。肝心のポピュラーやロックから何を弾くかをまだ決めてへん」
僕は彼の方に頭を向けると少し笑い、そして体を起こした。自分達の好きなポピュラー、ロックからの選曲ともなれば、日本のものどころではない議論と検討が必要になるだろうな、と思いながら。
三
僕と石堂はドアを開けて、会場である居間へと入った。化粧や香水が混じった華やいだ香りの中、僕らは十二の瞳に見つめられながらでギターをアンプに繋げる。ものの二十分前までは僕らだってここで大貫恵子を祝い、飲み食いしていたのに、この部屋はもうそんなくつろいだ雰囲気を感じさせてはくれない。
女の子の前で腕試しだ。こんなにも緊張することが他にあるものか。
「ええ、どうも……」
石堂が演奏の前の口上を述べ始める。よく知っている少女の目が、期待に満ちた様子でその一部始終を見届けはじめた。
僕は右手に握りしめているピックが汗でしっとりと濡れている事に気づき、石堂のスピーチを聞く素振りのまま、ジャケットで水分を削ぎ落した。