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恋のほのお  作者: 桃山城ボブ彦
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第10回~昭和45年5月12日「明日に架ける橋」(後)


 鉦と三三七拍子の笛と、それから拍手の音が大きくなった。それまでまったくにおとなしかった四万五千の観衆が、突如として今日一番の盛り上がりを見せはじめる。九回の裏、江夏は突然に崩れ始めたのだ。不調ながらも、だましだましで巨人打線を抑えてきた彼はついに打ち込まれ、長嶋の一撃を初めとする長短打の狙い撃ちで一挙に三点を奪われてしまった。


「波多野クンには悪いけどさ」


 勝利まであとアウト一つとしながらも追いつかれた挙句、マウンドをベテランの若生に譲ってベンチに引き上げて行く江夏を見つめながら、吾妻多英は喋りはじめた。


「長嶋とあと、高田だっけ? ホームランを二回も見られたら入場料の元はとったって気分になるわね」


「あのさあ、入場料払ったスポンサーの贔屓も少しは考えなよ」


 すっかりクサッた表情をしているであろう僕は、ゲッソリとして答える。エースが投げ、四点のリードがあった試合を土壇場で追いつかれるほどしょうもないこともない。


「君の入場料、僕もちなんだぜ?」


「固いこと言わないの」


 彼女はそう言うと、なだめるように僕の肩を二、三回ポンポンと叩いた。実に馴れ馴れしく気やすい仕草だが、そういう行動をとるあたり、先ほどのこちらの罵声をさほどには気にしていないのかもしれない。怒りにまかせて暴言を吐いた身としては、多少なりとも救われる行為だ。


「競り合った展開もいいじゃあない。延長戦ってのもあるんでしょ? 要は最後にタイガースが勝てばいいのよ」


「うーん」


「うーん、じゃあないのよ。大体が憂さ晴らしに野球観に来て、おまけに贔屓が負けたとなったら波多野クン浮かばれないじゃない」


 また、巡り巡ってそこいらの話になってしまったか、と思った。僕は、今日だけで数えきれないほど作った苦笑いをまた浮かべると、灰皿代わりのビールの紙コップには火種を消すだけの水分が残り少ないことを気にしつつ、『わかば』を吸った。

 もういいや、と感じた。この子がおケイを匂わせる言葉を口にする度に動揺したり、激昂したりするのは止めよう。それに、今の言葉にはさっきまでと違って多分に同情の気配がある。同情されるのがいいことかは知らないが、少なくともからかわれるよりかはナンボかマシだ。


「浮かばれたいなあ」


「浮かばれなくても、浮かばれる方法があるわよ」


 ベテランリリーフの若生がなんとかアウト一つを取り、延長戦が決定する中で吾妻多英は突拍子もないことを言いだす。スタジアムの声援が一段落すると、彼女のハイトーンの声はより一層鮮明なものになる。


「波多野クンが、タイガースが負けたら『ハムレット』のオフェリア姫みたく球場の傍らの川をあお向けになって流れていくの」


「それはドザエモンというのだ……」


「そうとも言うわね」


 神田川の汚水の中を、長髪に白いカッターとジーンズの出で立ちの僕の死体が漂ったところで、感興を催す奇特な人間がいるものか。


「でも、試す価値があるかもよ?」


「いや、あの世の坪内逍遙に呪われるから遠慮する」


 僕は『わかば』を紙コップに放り、話を打切った。吸殻で満たされて最早火の消える音もしないコップを、吸殻が零れないように少し振って消火する。

 そして、また沈黙が二人の間を漂った。気まずさはとうになくなったが、かといって話す話題も特にないことに少なくとも僕は気づいたのだ。野球を観なければならない。



 眼前の熱戦があっけなく終わった。延長十回の表、タイガースは遠井がライトスタンドにホームランを打ったのに続き、若生の代打に起用された池田もタイムリーをかっ飛ばして二点を勝ち越したのだ。そして、裏のジャイアンツの反撃も、若生を引き継いだこれまた大ベテランの権藤がなんとか抑えきり、六対四で試合は終わった。劇的な追いつき方をした割には、巨人ファンにとってはあまりに白けた、あっけない幕ぎれになったことだろう。


「おめでとう」


 ホームチームが負けた失望によるざわめきが静かに球場全体へと広がっていくなか、その雰囲気を気にしてか、吾妻多英は控えめに語りかけた。


「ありがとう」


 僕は祝福を素直に受け止めた。彼女から今日はじめて聞く、裏のない言葉だった。


「帰る客でごった返すから、しばらく席で待っておこうか」


 そう吾妻多英に問うと、彼女は頷いた。が、すぐに彼女は立ちあがると「すぐに戻るから」と言い残してスタンド下へと消えていった。

 まあトイレだろう。五月の夜は冷えるのだ。彼女を待ちながら、僕は試合が終わって潮が引くようにあちらこちらの出口に殺到する人波と、客におおわれて分からなかった色とりどりの座席があらわになっていく様をぼんやりと見つめた。そして、先程遠井が決勝の一打を打ち込んだ方向に視線を移した。


 前任の藤本がそうであったように、よく肥えた一塁手である遠井の一撃は、照明の中をゆるりと舞い上がり、やがてライト観客席の最前列に巻尺で測ったかのように無駄な飛距離もなくポトリと落ちていった。その瞬間、吾妻多英は興奮したのか、周りの巨人ファンを気にせず立ち上がって「トオイッ! エライッ!」と叫びながら拍手をはじめた。こちらが周囲に気を遣って出来ないことを、何も考えずに簡単に実行する彼女は面白い子だと、なんとなく思った。

 彼女の黄色い声を受け、一方では静まり返った巨人ファンの恨めしい視線を一身に受けながらでダイアモンドを一周する遠井吾郎のふくよかな姿は、何となく滑稽だった。巨人の勝利を願ってこの場に立ち会った殆どの人間にとったら、まるで「お呼びでない」ピエロみたいなもんだ。


「ああ、そうやった」


 徐々に人の気配が消えていくジャンボ・スタンドで、僕はふと、声を漏らす。詰めかけた四万五千の期待だってロクに叶わないのだ、ましてや僕一人の「タイガースについてではない」期待だって、叶わないのは不自然な現象ではない。違いは、期待を裏切られた失望が一夜明けたらまあ、おさまる類なのか、当分陰々滅々とするヤツなのかどうかに過ぎない。世の中には様々なレベルの哀しみがある。



「お待たせ」


 吾妻多英の声が背後から聞こえた。振り返ると、生ビールのコップを二つ持った彼女が笑いながら立っていた。


「はい、タイガースが勝ったお祝い。これは私がご馳走するね」


 どうやら彼女はトイレではなく、試合終了に伴いごった返す通路にある売店までビールを求めに行っていたらしい。


「気前がいいね」


「まあ、切符にビールに、おまけにホット・ドッグまで奢ってくれる坊ちゃん程じゃないけど」


 彼女は悪びれもせずにそう言うと、一方のコップを僕に渡し、そしてもう片方のコップを煽りはじめた。


「遠井選手だっけ?  あのホームラン打った太っちょさんに乾杯!」


「ああ」


 僕も、水道橋の夜空に向かってコップを掲げた。もやもやとしたあれやこれやは何一つ解消はされてないまでも、今、この一杯のビールの酔いがあれば、今日のうちはなんとかなりそうだ。後は、下宿はどこだか知らないが、吾妻多英を水道橋の駅まで送った後に、阿佐ヶ谷へと帰ればいい。


「流石に注ぎたてだね。よく冷えている」


「そりゃ、試合が終わって店仕舞いしているところを特にお願いしたのよ。冷えてるに決まってるわ」


「有り難く味わって飲むよ」


「当たり前よ」


 吾妻多英は紙コップから口を外した。小さな顔の口元に、うっすらと泡がついている。


「この()()()()()()ビールをたばこの火消しなんかに使ったら、スタンドから波多野クンを真っ逆さまに叩き落とすからね」


 冗談とも本気ともつかない面持ちで彼女は僕を覗き込んだ。


「まさか! せっかくにご馳走してもらった一杯だし、大事に呑むよ」


 僕は慌ててビールに口をつける。この小さな女の子にスタンドから放り投げられるくらいなら、ドブ川でオフェリアもどきを気取った方がナンボかマシだ。あえて、彼女に聞こえるくらいに大きく、ゴクリと喉を鳴らす。その音を確認すると、吾妻多英は満足そうに首をタテにふった。


「よろしい」


 結局、僕らは係員に退場を促されるまでの間、ジャンボ・スタンドに最後の客として居座り、今日見た三本のホームランを肴にビールを呑んだ。高田、長嶋、それから遠井。当初、「野球を知らない」と言っていた女の子は、少しルールを教えたら飲み込みが早く、九回が終わるころには何が目の前で起こっているのかが把握できるようになっていたので、そういう話題でもなんとか場がもつのだ。



「で、どうなの?」


 吾妻多英がこちらにそう問いただしたのは、照明の落ちた球場を背にして、国電水道橋の駅前まで戻ってきた時だった。腕時計は十一時半を指していて、要は試合が終わって一時間近く経った白山通りと外堀通りの交差点には、ちょっと前まで大観衆が近くにいたとは信じられないほどに人の気配は少ない。


「今日の試合、少しは気分転換になったの?」


「ああ。やっぱりタイガースが勝てば嬉しいよ」


 アルコールで火照った頬を掻きながら僕は答える。

 ただ、手放しで満足しているわけではない。この、僕の傍らにいる、人をあれやこれやと観察している女の子が次に何を言い出すかが気が気ではなく、ろくすっぽ見物に集中出来なかったし、大体今だってビクビクしているのだ。


「贔屓が勝ったら、少しは相手の女の子の事、忘れた?」


 ほら、きた。券売機に五十円玉を放り込みながら、思わず僕は目を瞑る。


「そりゃ、少しはねえ」


「少しじゃダメじゃないの。ダメねえ、まだうじうじしちゃってさ」


 改札を通り、新宿方面ホームへの階段を上りながら、彼女はさらにまくしたてる。

 僕は、それを聞き流しながら不思議な気分になっていることに気付いた。吾妻多英の一々の発言が不愉快ではなくなっている。

 昼飯の際は辟易としたし、試合中には怒鳴りもした。すまなそうにする素振りを見せた事もあったが、結局は元に戻ってこちらの胸の内をうかがおうとしてくる。それが彼女の「観察」対象への接し方なのかもしれないが、この点はどうでもいい事だ。

 おそらくだが、結局のところはこの半日で、僕は彼女のコミュニケイションの取り方と個性を許容してしまったということなのだろう。


「あのデブちゃんのホームラン観たでしょ?」


 国電を待ちながら、彼女は僕から数歩の距離をとると、人気のないホームで左打席に立った遠井吾郎の物真似を始める。喜多方の少女が両の拳を二つ重ねてフルスイングのフリをする度に、長く縮れっ気のない黒髪が宙を舞う。


「あれが波多野クンにとっての『明日に架ける橋』よ。良いもの見れたじゃないの」


 どうやらヒット曲のタイトルと、見てきたばかりのホームラン~ホームランは「アーチ」と形容する~との掛詞のつもりらしい。言い終わるや否やで、彼女は相変わらずで遠井の真似を再開した。


「サイモンとガーファンクルの曲じゃあ、あるまいし」


 それだけ言うと、僕は『わかば』を吸い始める。メロディーは聴いたが、歌詞の内容までは覚えていない曲だった。

 問題は掛詞よりも、今のこの不思議な空間についてだった。駅のホームには、反対側も含めて僕らしかいないのだ。夜も更けていくとはいえ、まだ終電車のある時間だ。もっとこう、野球場の客や仕事帰りのサラリーマンがいたっていいはずじゃないか。


 何故、僕たち二人しかこの場に人がいないのだろう?

 吾妻多英の細いジーンズが、スイングの動作にあわせてかすかに屈折していく様を見ながら、段々と僕は混乱してきた。


 どこかに迷い込んだのだろうか? 僕は?


「コラッ」


 大きな声が、我がパニックに終止符を打ってくれた。続いて、遠くから車輪の音が響いてくる。

 やはり、ここは国電水道橋のホームであるらしい。

 よくわからない安堵感を覚えた僕に対して、さきほどの叱責の声の主が、小走りに近寄り、目の前に立ちふさがった。


「波多野クンさあ、あなたひょっとして、いや、ひょっとしなくても童貞でしょ?」


 彼女はそう言うや否や、僕が咥えていたタバコを右手ではたき落とした。


 僕はそれに対して、何の反応も示すことが出来なかった。


 小柄な吾妻多英が飛びつくように、こちらの唇を彼女自身の唇で覆ってしまったからだ。いや、唇だけではない、僕の口の中に自分のものではない湿度をもったものが侵入してくる。


「私を抱いてみる?」


 ひとしきり唇をふさいだ後もなお、僕の首に腕をかけてまとわりついてくる上目づかいの彼女の言葉は、勤め帰りの客を一杯に乗せた武蔵小金井行の黄色い電車が轟音とともに入線してきたのとほぼ同時に発せられたものだった。


「いや……」


 長い長い編成の車輌がブレーキを軋ませながら停車しようとする中、僕はやっとの思いでその二文字だけを声に出した。全身から力が抜けたような気分で、言葉すらろくに発せられない感じだからしょうがない。

 国電のドアが開いたが僕は乗らなかった。いや、乗れなかった。やはり、奇妙なところに迷い込んだような気分がし、自分がどんな行動や言葉を繰り出せばいいのか、全く分からなくなってしまっている。


「わからない」


 そう僕が呟いた頃には、既にドアは閉まり、電車は赤いランプを灯しながらホームを去っていった後だった。朦朧とした意識の中で、僕はさっき吾妻多英に奪い取られたタバコはどうなっただろう、と思った。火種がまだあったんじゃあないか。


「イエスかノーで答えられないって、やっぱり波多野クンは童貞ね」


 僕の目の前に、再び長い髪の少女が現れた。その右手にはさっきの我が吸殻が握られている。目を凝らすと火はとっくに消えていた。そしてホームからも再び人の気配が消えていた。


「乗らなかったのか? 吾妻さん?」


「あなたが乗らなかったからよ」


 吸殻を線路へと放り投げると、さも当然、と言ったように彼女は答えた。


「遅いし、お互い明日の講義も早いんだからせめて新宿までは送ってよ。私、初台が下宿なんだから」


「ああ」


 ボウッとした頭のまま僕は了承した。

 しかし、僕にとっての目下の問題は、次の電車がいつ来るのか、ということだけだった。必死に目をあちこちにやりながら時刻表を探しはじめたが、何故か見つからない。

 吾妻多英と二人きりで、一体、後何分の時間を過ごさなければならないのか、それだけが当座の問題だった。

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