第1回~昭和45年5月10日「あなたならどうする」
五月にはいって二回目の日曜日の朝だった。国電の高架線をくぐり、曇り空の阿佐ヶ谷駅前を僕はぼんやりと南へと歩いていた。昨日のアルバイト代を懐にいれたところで、たまには下宿でではなく豪勢に喫茶店で朝飯を食おうと思ったのだ。
最初に目にはいってきた喫茶店の看板をみとめると、僕は軋むガラス戸を開けて中に入り、スポーツ紙を手に取って、店の奥まった位置にあるテーブルのくたびれた布張りの椅子に腰を下ろした。日曜朝の人気のない店内では、カウンターの中のラジオからショッキング・ブルーの「ヴィーナス」が空席の寂しさを紛らわすかのように威勢よく鳴り響いている。
巨人の快勝を伝えるトップ面ももどかしく、僕は「わかば」にマッチで火を点けると三面のタイガースの記事へと目を移す。昨日、タイガースはカープに4対1で快勝した。もちろんそれはゆうべのラジオ・ニュースで知っているのだけど、江夏が完投し、田淵とカークランドと藤井がホームランを打ったゲームともなれば紙面でも確認したいのがファンの人情というものだ。
「バレンタインもツーベースを打ったか」
ボックススコアに目を落とし、今年加入の新外人にも結果が出たことにホッとしながら、僕は注文を取りに来たウエイトレスにサンドイッチとコーヒーを注文すると、長髪をかきあげて額を出し、おしぼりで拭った。ウエイトレスは僕に背を向け、カウンターへと歩きながら気怠そうに「ワンサンド、ワンコーヒー願いまーす」と抑揚のない声で注文を通している。
一本目の「わかば」を灰皿でねじ消すと、まるで巫女が行う呪詛のようなショッキング・ブルーの歌もフェイド・アウトしていくところだった。二本目を今の季節にはまだ早い青い開襟シャツの胸ポケットから取り出すと、僕は次にラジオから何が流れるかをしばし夢想しはじめた。「新宿の女」あたりが聴きたかった。夜の酒場の悲恋モノが聴きたかった。自分の住む世界とは違う世界の物語なら、きっと醒めた目で恋に破れた人間のことを見つめることが出来るから。
なのに、次にかかった曲ときたら、いしだあゆみの『あなたならどうする』だった。ダメだ。咥え煙草で僕は深々と椅子の背もたれに倒れこみ、天井を見上げる。うす暗い空間に、煙がゆるりと舞い上がっていく。瞑想にでもふけってしまいたい僕を、今にも泣きそうな声のいしだあゆみが追いかけてくる。
「どうするったってなぁ」
カウンターに聞こえないくらいの声量で僕は一人呟く。逃げていく、か、去っていく、かはわからないがそんな状況になってしまったらもうどうしようもないだろう。いしだあゆみも。そして僕も。
サンドイッチとコーヒーはまだしばらくかかりそうだ。
朝食をすませ、タバコを五本吸い、二百円払って店を出るとちょうど十時半だった。長いこと居たつもりでも、結局四十分程度しか店にはいなかったようだ。あれから何曲かヒットチャートを聴き、スポーツ新聞で苦境の西鉄の記事や芸能記事、あげくのはてには吹田の万博についてのコラムまで読んで時間をつぶしたつもりが、腕時計を見たらたったのそれだけしかたっていなかった。
二時間くらいは時がたっていてほしかった。何せこちらは下宿に戻りたくないのだ。
下宿の机には故郷の西宮から届いた、知りたくない報せであろう封筒が、昨日の夜から封を切らないまま横たわっている。
国電の高架まで戻ると、僕はしばらく立ち止まって、通り過ぎるオレンジ色の電車を上下二本見送った。きっと電車は、楽しく行楽に出かける日曜日の家族連れやアベックを沢山乗せているのだろう。僕もその一員になれたらどんなにいいか。それでも僕は高架をくぐり、下宿へと向かう。目を逸らしたとて、現実と悲しみは駆け足でやって来るものなのだ。
途中、郵便局を横目に見て、そういえば明日大学に向かう前に昨日のアルバイト代から千円は郵便貯金にしておかなきゃな、と思う。そうしたら、遂に僕の貯金額が十万円を越えるのだ。確か十万とんで百八十三円。もっとも、アパートの大家に家賃を払うまでの十万長者だけど。
早稲田通りを北に横切ってから更に三分歩くと下宿が見えてくる。風呂トイレ付き家賃月一万三千円のモルタル造りのアパートを、階段を上って二階の我が部屋へと向かう。
当たり前だが、封筒は六畳の奥に置いた机の上にそのまま残っていた。ゆうべポストから抜き出して、机に放ってから指一本触れていないのだ。当然だろう。僕は座布団を用意すると机の前に座り、今日何本目かのタバコを咥えた。そしてようやく、封筒へと手を伸ばした。
茶封筒を窓にかざす。当たり前だが、曇り空の中では中身は透けてみえるということはない。僕は窓に封筒をかざすことをあきらめ、鋏を引き出しから取り出した。
封を切ると、白い便箋に書かれた丸文字が目の前に飛び込んでくる。懐かしい丸文字を僕は目で追い始めた。
「ああ」
丸文字が途切れると同時に僕は呻いた。
やはり、予想した通りだった。昨日、アルバイトから帰宅して封筒を手にした瞬間、それを机に放りだして逃げるように酒を呑みに行ったのは無駄だった。酔いつぶれて眠った後、さっきまで喫茶店に出かけたのも無駄だった。タイガースの記事に没頭したって何になる。事実を認めることを先伸ばしにするだけしても書いてある内容に変わりはない。
「そうか」
僕は咥えタバコのまま、六畳の真ん中に仰向けになった。横になった衝動で、灰が畳へと落ちていく。でも、灰皿を探すのももう面倒だ。
「おケイは婚約したのか」
この十月にならなきゃ二十歳にもならない大貫恵子は婚約したのだ。やっぱり、婚約したのだ。僕の身体は気怠さでいっぱいになり、もうタバコをねじ消す気力をふりしぼるだけで精いっぱいだった。
静かな日曜の昼前だった。僕は時折早稲田通りの方向から聞こえてくる車のクラクションを耳にしながら、なんとなく、目を瞑った。