食欲がないのに、パンを口に入れるのは、依存に近いのか それとも未来の空腹を想像し口にパンを詰め込むのか
欲求について、先でも書いた、”卵から生まれた蛇の話。~硬いからだと蛇の瞳”でも、ほんの少し書いたけれど、人は欲望を身の内に隠している それが基本だと思っているわけですが、
私は、一つ解らないことがあるんです。
未来を予想する目というのか……人を動かすのは、そういったものだと私は思っているわけですが……、たとえば、……もし、私の10分後に、私の目の前に脅威が迫っていると私の脳が認識したのなら、私は、出来るだけ、その脅威から逃げ延びようとするでしょう。
逆に、もし、私の10分後に私の目の前に幸福が迫っていると私の脳が認識したのなら、私は出来るだけ、その幸福がよりよくなるようになんとか行動しようとするでしょう。
人を利用しようとする気持ちや、人を助けようとする気持ち、自らが望むもの、自らが今、必要としていること、自らが好きなこと それらの様々な判断が子供の頃、私は、とても不思議でした。
人を好きという感情もよく解らなかったからです。
自らの感情は、解ります。けれど、その感情が、”自然発生的にうまれたものなのか””そういうものだと植え付けられているものなのか”という判断が上手くつかなかったからです。
良いことや悪いことという判断があると思います。
こういったことをすれば、人は傷つく、だから、これはしてはいけないのだと、簡単に論理説明を行おうとされる方がいます。もしくは、私がしてほしくないことは他人にもしないという考えを自らの考えの基本にしている方も居るとします。
けれど、それは、ある意味で嘘だと私は考えます。
自らと他人は、違う人間ですから。ある意味、人は鏡だと言います。
影響を与え続け、与えられ続ける。それらは、あらゆる自由意志の選択決定でも、他、あらゆる瞬間の自分の感情にも、知らない間に影響を与えられ続けているわけです。
私は、普段の生活で私を目にしながら生活をしていないということです。私は、子供の頃、本当にそれが嫌だった。
今の現代の社会で、自らを見ながら生活をするということは有り得ない。常に他者の顔を見ながら会話をし、他者の行動を見ながら、生活をする。
私の顔を毎日目にし、私の行動を毎日目にしているのは、寧ろ、私ではなく、相手方な訳です。
……私は、子供の頃、本当にそれが嫌だった。
私の表情や行動が他者に少なからず影響を与えることが怖かったからです。
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こういう、場所が私が好きなのは、一つ、”自らの他者性が見えてくるから”という部分にあります。
私は、私を他者として観察が出来る。
……ただ、それは、飾った自分や理想の自分である可能性もありますが。
……私を観察し動画で常に目の前に見せてくれるような他者が私には居ない為にこのような代用品で見ようとしているのかもしれない。
ぐちゃぐちゃな話になってしまっていて、申し訳ない。最初の話に戻りましょう。
さて、前提な訳ですが、空腹ではないのに、口にパンを詰め込もうとする行動は、果たして依存(パンへの執着)であるのか、未来で空腹になることを恐れるから(未来への不安を消すための行動)なのか、自らは、本当に認識出来ているのか(それは自己暗示であり、自らの本当に望む意志であるのか)それらを、自らは、判断出来るのかそういったことです。
その中で、私が一つだけ言えることがあるとするなら、”本当の部分は濁っていない”それだけだと思っていて。
”濁り”です。
……そうですね。そういったことを思います。だから、私は、解らないことは解らないことにしておこうと思います。
濁るのは
考えるだけで、嫌だからです