私は、私の書きたいものの設計図を書きたいわけじゃない
私は、書きたいものがあるから、書こうとするのだと思う。思うのだけれど、それは、文字や言葉、絵や、声、に出した途端に、奇妙に変換され、変質され、変化して、よく解らなくなってしまう。
子供の頃に、言葉など要らないと思った時もそうだった。
表現したいものは、いつだって、表出した途端に、奇妙に隠れて、変質し、見えなくなってしまう。
表現したかったものは、本当はそれだったのかすら解らなくなる。
だから、表現したいものは、本当に”それ”だったのかを擦り合わせる。
私の中の創作は、いつだってそうだ。ある意味、表出したものと、本当に表出したいものの差異が嫌で、だからこそ、本当に表出したいものにより近づけられるように続けている。
終わりに向けての創作とは、つまりは、自分の表出したいものと一致させることが出来ると思えた瞬間に終わる。
そして、それは、一つ、最悪な答えがある。
私は、本当に創作を終えられる時まで、私はずっと不完全で満足出来ないということ。
それは、もう一つの問題を内包している。
それは、私の満足する終われる作品というのは私の心の中と一致するものだということで、結局は、私は、”初め書こうと思った心の世界”の中から、飛び出すことは無い。
全て、自分の中で回り、サイクルを続ける。
妙な形。
それはすごく嫌だと思う。
嫌だと思うのだけれども、それは、嫌だと思うのだと思う。
それは、すごく嫌なことだと思うんだ。