感覚とスイッチと文字数 (カウントする)
本一冊が、大体、10万文字くらいだとしたら、長編を考えているのならそれぐらいの文字数は必要となる。長編の小説を書こうと思ったらそれくらいのスパンで書いていく心の中の分割をしなければならない。
私は、まだ、長編を書けるような心の中の分割が出来ていない。
これは、スイッチのようなものがきっとあるからだ。
短編のスイッチと、長編のスイッチは違う。
短編を書こうと思って短編を書いている訳でも、長編を書こうと思って長編を書いている訳でもない。
書きたいものを書いている……と、一言で済ませられる問題ではない。
私は、書いている最中、とても楽しいけれど、それが”本当に自分の書きたいものだったのかを楽しく書いている最中ですら、解ってはいない”
知らないまま、ただただ、書いているんだ。その時、楽しく感じるものを文字に置いて。
文字は積み重なって綴られていくのであって、私は、書いている最中に、短編にしようとか、長編にしようとか、小説と、詩の明確な違いすら、”本当は解っていないんだ”
レビューと小説と詩の違いすら、本当は解っていないのかもしれない。ぽっと思いついたように言葉にして、それを文字として書き留めて、それが積もっていったから、それがいつの間にか詩や小説という文字の塊、文章になっていっているんだ。
それらは、同じではない。本来なら、同じではない筈なのに、私の中では、きっと、同列なものとなっている。
それはひどいことではないだろうか、怒っても良いことなのではないだろうか、熱した鉄が、赤く赤く焼け付くようにひどいことではないだろうか。
そう言った意味で、私は、まだレビューを書くことが出来ていない。小説も書けていない。本当の意味で書けていない。ただただ、完結に向けて、終わりに向けて、積もらせているだけだ。
終わりにむけて、ただただ、文字を積もらせていく。終わりは、文字が知っている。そんな突き詰め方は、やはりおかしいのだと思う。短編とか長編とか、区切りを最初に作って、それに向かって進む、創作方法に今後、スイッチを作っていかなければならないのだと思う。
そういったものだろう。書きたいと思うものを書けなければ意味がないように思う。
意味だ。
そう思うんだ。それは、ただ、文字を稼ぐという意味じゃない。そのような思考にスイッチを変えるということだ。それはひどく具体的に、文字数という幅と書きたい分量をきっちり頭の中で纏められる能力だ。
それは、感覚的に、ぽっと出たものを文字を積んでいくような方法とはまた少し違うのだと思う。それは、やっぱり意味が違う。
頭の中で組み立てていく、それがすっきりと固まった整理整頓された思考だ。
それは、やっぱり必要なことなのだと思う。