雪に願いを
楠木 千歳さん主催の『あなたの恋に落ちる音』企画、参加作品。
とても、とても寒い夜だった。
夜空には星は一切瞬かず、それらを覆い隠す黒の舞台幕のような雲が天を覆っていた。
街灯がベンチを寒々しく照らし、そしてそこに並んで座っている男女二人。何か言いあぐねた様子だった。
お互いに、何かを伝えなくてはいけないような気がしていた。けれど、言葉が選べない。どの言葉を紡いでも、相手の耳に届くまでに凍ってしまいそうな。そんな、そんな寒い夜だった。
吐き出した息は白く、街灯の光にちりちりと照らされながら。ゆるやかにその輪郭を淡く広げ、最後には夜に溶けてしまう。
――まるで、私のよう。
女性は、隣に座っている男性を見ることなく、マフラーの端をつまんだ。
自らの気持ちが、分からない。そうやって迷っているうちに、浮かんだ気持ちは靄のように拡がって、まるで最初から無かったみたいに消えてしまうんだと、そう思った。
隣の男性は、スーツの上から重たい色のコートを羽織っている。
お互いの、仕事の帰り。待ち合わせて言葉数少なめに連れ立って歩き、少し座って話そうかと公園のベンチに腰を降ろしたのだった。
二人の間にたゆたう冬の空気が、その場に沈黙を落とす。
女性は先週、男性からプロポーズをされており、そしてそれを受けた。数年越しの交際の末のプロポーズ。もちろん、嬉しかった。幸せだった。
人生で最も幸せな瞬間だと、間違いなくそう思ったし、プロポーズを受けたことに何の後悔もない。
それでも。
それでも、なぜだか怖い。膨らみ過ぎた幸せが、心の壁を押し破ってしまったようで。冷静になった彼女の心に、壁の隙間を抜けるように冷たい風が吹くようで。
――この気持ちを、私は何と呼べばいいんだろう。ああ、彼のことは嫌いじゃないのに。嫌いなはずが、ないのに。
男性は、何も言わなかった。彼もまた、冬の静寂に自らの言葉を奪われていた。
プロポーズをしてから、彼女の様子がおかしい。具体的にどこがどう、などとは分からなかったが、何かを思い悩むような姿を見せるようになった事に、彼はくすんだ色をした不安を抱えるようになった。
男性が空を見上げれば、街灯の光のその向こうは、何も映さぬ闇だった。
自らが彼女を不安にさせているのではないかと気を揉む日々。彼女を幸せにするために、そのために結婚を申し込んだはずだったのに。
彼女も、とても喜んでくれていたと、男性はそう思っている。それなのに、幸せそうに見えない彼女を前にして、男性は自らがその解決法を持たないことをもどかしく感じるのだ。焦りにも似た感情が込み上げてくる。ああ、それなのに、言葉が出ない。
男性も、女性も、どうすれば良いのかは分からないが、何とかしなければいけないとは感じていた。
空には、沈黙。
重たく垂れ込める雲。
○ ○ ○
男性が、急に立ち上がる。何か、暖かい飲み物を買ってくると言う。女性は控えめに微笑んで頷いた。小走りにコートを揺らしながら駆けていく男性を見送りながら、女性は何度目か分からない大きな息を吐き出した。
街灯の光から目を逸らすようにして、視線を落とす。
彼女は、思い出していた。これまで紡いできた二人の思い出を。アルバムのページをめくるように、ゆっくりと。
小さなことで言い争ったこともあった。お互いの仕事が忙しくて、連絡が絶えたこともあった。音楽の趣味は合わないし、好き嫌いもお互いに違う。
でも、少しずつ、少しずつ時間を重ねてきた。同じ時間を過ごしていると幸せで。暖かくて。燃えるような激しい恋ではないけれど、心の芯まで温めてくれるような、そんな。
理想に描いた王子様のような人では、決してない。女性自身も、きっと男性の理想とするような女神のような人物ではないだろうと自分を評していた。
それでも、共にこれまで歩んできたのだ。
――結婚しても、今までと同じように並んで歩いていくんだろうなあ。
とりとめもないことを考えながらぼんやりとしていると、いつの間にか戻ってきていた男性の声が上から降る。
見上げれば、街灯の光の中に輪郭を溶かす彼の姿。眩しくて、女性は二度三度とまじろいだ。
その、光の中にいる彼の肩に。
その肩に。ふわり、一片の雪。
光を透かして降りてくる小さな花弁たち。
揃って見上げた夜の天井からは、白銀の華が、小さく、冷たく、それでいてゆるやかに咲き落ちてくる。まるで音もなく星が降るようなその光景に、女性の瞳から一筋、涙が零れた。
男性は、買ってきた飲料をベンチに置き、女性の手を取ってそっと指を絡ませる。彼の温もりが彼女の心の隙間に沁みていく。
――ああ、私はこの人を愛しているんだ。
なぜだか分からなかったけれど、切り絵のようなこの一瞬が生み出す無音の雪景色に、女性は確かに恋に落ちた。いままでも、これからも、いつまでも、彼の温かな音は私を恋の中へと誘うのだろうと、そう彼女はすとんと納得した。直感にも似た感覚が、彼女の心をふわりと軽くする。
指で抱き合ったままの二人の手は、互いに熱を伝え合う。
温められ、ふわりと軽くなった彼女の心から飛び出た言葉は、寒さに凍み入ることなく彼へと届く。彼の耳へと、そして、彼の心へと。
「愛してる」
頬を伝う涙を拭おうともせず、ただ慈しみを込めて冬の空気を控えめに震わせた言葉は、静かに、しかし確かに彼だけに届く。
その声は、その音は、降り積もった彼の不安をも溶かしていく。女性の声もまた男性を幾度目かの恋に落とし、二人は雪花降る夜の舞台の中で微笑み合った。
それから、二人はこれまでの話と、これからの話をした。
どこかで食べて帰ろうと男性が手を差し出す。その手をとって、二人は歩き出した。
暖かい食事、そしてそれは、とても穏やかな、幸せの形。
もう、女性の心が冬の寒さに凍ることは無いだろう。
男性の心に不安が降り積もることも、また無いだろう。
うっすらと頬を紅潮させ、二人並んで歩く。
ふと見上げた夜空には、もう重たい雲は無い。
街の夜空には星が2つ3つと瞬き、舞台の幕が上がったことを二人に知らせているのだった。