少女と靴屋 (童話24)
その靴屋は淋しい裏通りにありました。
店の間口はせまく、小さなショーウィンドウがひとつあるばかりでした。
さて、ある夜のこと。
ショーウィンドウに灯りがほんのりともり、店の奥では年老いた男が靴を仕立てています。
――まいったな。
靴屋はボソリとつぶやきました。
近ごろ、めっきり客足が遠のいていました。さらに店の家賃さえ、まともに払えないありさまだったのです。
少女は小さな食堂に住みこみで働いていました。遠くの田舎から出てきて三年、ここで皿洗いや給仕の仕事をしています。
そして……。
この食堂も裏通りにありました。
夜もふけると人通りが減り、裏通りはいっそう淋しくなりました。
「そろそろ店じまいをするかねえ」
女主人が表のカーテンを引きます。
「はい」
少女はうなずいてから、さっそく店の中のかたづけを始めました。
この店には、女主人のほかは少女しかいません。ですから毎日、少女は朝から夜おそくまで働きづくめでした。
そうであっても、店をやめようなんて思うことは一度もありませんでした。女主人は心根のやさしい人でしたし、亡くなった両親にかわってお金をかせぎ、田舎にいる弟や妹たちに送金しなければならなかったのです。
かたづけをすませた少女はいつものように自分の部屋にもどりました。
そこは粗末な部屋ですが、通りに面した出窓からは表の景色が見渡せました。
この出窓が、少女はたいそう気に入っていました。
つらいことがあったときや淋しいときなど、通りのようすをながめては田舎のことを思うのでした。
この夜。
窓辺に立った少女は、ぼんやりとした赤いものを通りに見つけました。
――あんな赤い花、いつのまに咲いたのかしら?
窓ガラスに顔をくっつけ、それをたしかめるように通りをのぞき見ます。
――靴だわ。
それは花ではなくエナメルの赤い靴でした。
ほんの目の前、手をのばせば届きそうな場所に、きちんとそろえられて置かれてあります。
――なんてステキなのかしら。
窓ガラスに両手を押しあて、赤い靴にじっと見入ってしまいました。それほど赤い靴は少女の心をとりこにしたのです。
――だれかが置き忘れたんだわ。
少女は窓を開け顔をのぞかせました。
――あらっ?
赤い靴がありません。
なぜか窓を開けたとたん、赤い靴は通りから消えていたのでした。
靴屋が目を上げると、店のショーウィンドウをのぞく少女がいました。年は十六、七でしょうか。長い髪をうしろで無造作にひっつめています。
少女はガラスに両手を押しあて、ショーウィンドウの棚に飾ってある靴を一心にのぞき見ていました。
――そうか、あいつが気にいったんだな。
今朝がた、ショーウィンドウに並べたばかりの赤い靴。それは腕によりをかけて仕立てた、とびきり上等なものでした。
――あれが売れると、次の材料が仕入れられるんだがなあ。
そう思いましたが、靴屋はすぐに下を向いて首をふりました。
――いや、見ているだけだろう。
なにしろ少女の身なりは、見るからにみすぼらしいのです。
靴屋が顔をあげたとき、いつかしら少女の姿は消えていました。手の出ない値札を見て、あきらめて立ち去ったのでしょう。
――そろそろ店じまいをするか。
靴屋は縫い針を道具箱にしまい、店を閉めようと立ち上がりました。
ショーウィンドウの灯りが消えると、そこにはもう靴屋があるとはわかりません。それほど目立たず、店はひなびていたのでした。
次の日も赤い靴は通りにありました。
少女は窓を開けることをためらいました。夕べのように消えてしまいそうだったからです。
それでも赤い靴は、窓を開けさえすれば手の届くところにあります。
少女はついに窓を開けました。
すると……。
赤い靴はまたしても消えてしまいました。
まるで幻のように消えたのです。
――自分のものにしようなんて……。だからステキな幻も消えてしまうんだわ。
少女はそう思いました。
その夜。
またも靴屋は、ショーウィンドウをのぞく少女を見かけました。
やはり赤い靴を見ているようです。
――よほどほしいんだろうな。ゆずってやったらどんなによろこぶだろう。
ふと、そんなことを思い顔をあげると、いつしか少女は立ち去っていました。
――いや、ダメだ。それでは店がつぶれてしまうじゃないか。
靴屋は頭を強くふったのでした。
赤い靴は翌日もあらわれました。
少女は窓を開けませんでした。
こわかったのです。赤い靴が幻となり消えてしまうことが……。
街灯の灯りに照らされ、赤い靴はいっそう赤く輝いて見えます。窓ガラスに両手を押しあて、あこがれるようにじっと赤い靴に見入っていました。
ふと、少女は不思議なことに気づきました。
いつかしら部屋の出窓が、靴屋のショーウィンドウに変わっています。さらにそこには紳士靴や婦人靴も並べられ、どれもが品の良いものばかりです。
――こんなことって?
あわてて振り返ると、そこはいつもの自分の部屋でした。
もう一度、ショーウィンドウを見ました。
ですがそのときはもう、それは少女の部屋の出窓でした。
赤い靴も消えていました。
次の晩も。
出窓は靴屋のショーウィンドウとなり、その中に赤い靴はありました。
不思議なことに幻の世界は、窓を開けたり目をはなしたりさえしなければ、そこからけっして消えることはありませんでした。
毎晩。
少女は出窓の前に立ち、靴屋のショーウィンドウをのぞき見ていました。時間が過ぎるのも忘れ、赤い靴をただじっと見つめているのでした。
ショーウィンドウにはいつも同じ靴が並べられていました。高額な値札がついているせいか、どの靴も買われてゆく気配はありません。
赤い靴を手に入れようとすれば、少女のひと月分の給金がそっくりなくなってしまいます。とても買うことのできない値段でした。
けれど……。
少女の赤い靴へのあこがれは、それからも日ましにつのっていくばかりでした。
そんなある日。
靴屋は店をたたむことにしました。
ひとつとして靴が売れず、ついに材料の仕入れができなくなったのです。さらには家主からは、家賃が払えなければ店をあけ渡すよう求められました。
靴屋は思い立ったように、ショーウィンドウの赤い靴を手に取りました。
――この靴は、あの子にゆずってやろう。
あの少女なら、だれよりも大切にしてくれそうな気がしました。
「あのー」
客の声に、靴屋は我に返りました。
「その靴、ほしいんですが」
客が靴屋の手にある赤い靴を指さします。
少女にやろうと考えていたところです。靴屋はすぐに返事ができませんでした。
ですが、ひさしぶりの客に心がおどりました。売ればお金が手に入りますし、それで材料を仕入れることもできます。
「あっ、はい」
靴屋はおもわず返事をしていました。
こうして赤い靴は、少女の手に届くことなく買われていったのでした。
客が帰ったあと。
靴屋は悲しい気持ちになっていました。がっかりした少女の顔が目に浮かびます。
――一足こっきり売れたところで、店が続けられるわけでもないのに……。あの子のよろこぶ顔を見られた方が、どれほどよかっただろうか。
ついつい欲が出て、赤い靴を売ってしまったことをひどく後悔しました。
その晩。
少女は赤い靴が消えたことを知りました。
――とうとう売れてしまったんだわ。
飾り棚のそこだけがポッカリあいています。
そしてこのとき。
赤い靴があった靴一足分のすき間、そこから店の奥がすっかり見通せることにも気がつきました。
店の奥には年老いた靴屋が座っていました。
――あっ!
つい声をあげそうになりました。
靴屋が手にしている材料が赤いエナメルなのです。
――同じものを作ってるのかも……。
少女の赤い靴へのあこがれは、ふたたび胸の中でふくらんでゆくのでした。
その日のうちに、靴屋は仕入れた材料で次の靴を仕立てていました。
――そろそろ来るころだな。
手を休め、ショーウィンドウに目をやります。
やはり少女が立っていました。
少女はショーウィンドウに両手を押しあて、じっとこちらを見ています。
靴屋は立ち上がると、いそいで玄関に行ってドアを押し開けました。
ですが、なぜか……。
通りのどこにも、少女の姿はありませんでした。
次の日の夜。
少女はふたたび赤い靴を見ました。
ショーウィンドウの棚に、あの赤い靴とそっくりのものが飾られてあります。
――靴屋さん、もう仕上げたんだわ。
うれしさで胸がいっぱいになりました。
ですが一方で、また買われてしまったらと、どうしようもない不安にかられました。
――今ならお金もあるし……。
少女はもらったばかりの給金をにぎりしめました。
このとき。
田舎のことが頭の中をよぎりましたが、赤い靴への思いにはかないませんでした。赤い靴へのあこがれが心の中いっぱいにふくらんでいました。
そして……。
赤い靴が幻だということも、少女の頭からはすっかり消え去っていました。
少女は給金をポケットに、夜の町に向かって食堂を飛び出しました。
裏通りから大通りへと進みます。
それからは夜の町をさまようように靴屋を探し続けました。かならず探し出して、赤い靴を買うんだと強く思いつめていました。
夜がすっかりふけます。
どの家の灯りも消えていました。
それでも少女は靴屋を探し続けました。
どれほどさまよい歩いたでしょうか、いつしか少女は見覚えのある場所に立っていました。
そこは出窓から見える風景。
いつかしら食堂のある裏通りにもどっていました。
灯りがひとつともっています。
「うちの食堂だわ」
少女は我に返ったように声をあげました。
――奥さん、心配して待ってくれてるんだわ。早く帰らなくっちゃ。
女主人にだまって出てきたことを思い出し、食堂の灯りに向かってかけ出しました。
その灯りは食堂のはずでした。……が、それは食堂ではありませんでした。
――ここって……。
灯りの前に立った少女はおどろきのあまり声を失っていました。
目の前には靴屋のショーウィンドウがあり、そこにはあの赤いエナメルの靴がありました。
――こんな近くにあったなんて。
ポケットの中のお金をたしかめ、おそるおそる靴屋の戸を押し開けました。
――えっ?
そこには女主人が立っていました。
テーブルも壁も天井も食堂のものです。
「どこに行ってたのかい?」
女主人がかけよってきました。
「あたし、あたし……」
「きゅうにいなくなったんで、ずいぶん心配してたんだよ」
女主人が少女を抱きしめます。
少女は気持ちが落ちつくと、それまでのできごとの一部始終を打ち明けました。
「その靴屋って、もしかして……。
いえ、ここはね、わたしが食堂にする前は靴屋だったのさ。そのときは、まだショーウィンドウがあってね。ほら、オマエの部屋には出窓あるだろ、それなんけど。
そうそう、これは聞いた話だけどね。
店にあった靴、一足残らず家主が持っていったそうだよ。たまっていた家賃のかわりにさ。
でも、そのときね。
靴屋はなぜか一足だけ、そうエナメルの赤い靴だけは、どうしても手ばなさなかったんだってさ。それだけは大事そうにかかえてね、店を出ていったそうなんだよ。
もしかしたら、その靴がオマエの見たものかと思ってさ」
女主人は思い出すように語りました。
「わたしったら、つい変な話をしちゃって。そんなことって、あるはずないのにさ。もうおそいから早くおやすみ」
少女はうなずき、自分の部屋へと向かいました。
女主人の話をすっかり信じたのです。
少女は部屋にもどると、出窓にかけより通りをのぞき見ました。
そこには靴屋のショーウィンドウがあり、赤い靴をかかえた靴屋がいました。
少女と靴屋の目が合います。
「おー、やっと来たか。ずいぶん長いこと待ってたんだぞ」
そう言ったとき。
靴屋はもう少女の目の前に立っていました。
赤い靴を少女の前にさし出します。
「これがほしかったんだろ」
「うん」
少女は赤い靴を受け取ると、うれしそうにそれを胸に抱きしめました。
「さあ、はいてみるがいい。きっとオマエによくにあうだろうよ」
「でも、その前に……」
少女はポケットから給金を取り出し、それを靴屋に渡そうとしました。
顔をあげると、目の前から靴屋は消えていました。
ショーウィンドウの灯りも消え、そこには部屋の出窓があるばかりです。
「ありがとう」
少女は赤い靴を出窓に置きました。
そこがあたかも靴屋のショーウィンドウであるかのように、赤い靴を飾ったのでした。