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前編

 天から大地を照らす太陽のごとく、金と銀の国ジーファンを照らすイブキという帝の御世のことです。

 アシハラ家という貴族にアヤメ姫がおりました。

 アシハラ家のアヤメ姫と言えば、特に悪いところはないけれど、何かにつけて妹のユリ姫にはかなわないという評判でした。

 ユリ姫は日輪に劣らぬ美貌を持ち、裁縫も舞も歌も近隣の土地で並ぶ者がいないと言われています。

 そのような妹を持ったことこそが、アヤメ姫にとっては不幸のはじまりだったのでしょうか。

 ユリ姫は齢十二になった時から、求愛の手紙を毎日のように受け取っておりました。

 中にはアシハラ家よりも格上の家の貴公子もいたほどです。

 ユリ姫のご両親は鼻高々で、娘を少しでも高く評価する家に嫁がせようと事あるごとに話しておりました。

 一方のアヤメ姫には何にもありません。

 美人かと言えば美人ですし、嫁に必要な技能も全て無難にこなせます。

 ですが、ユリ姫と比べれば至宝とくすんだ石ころ、ジーファン屈指の名人と凡庸な腕前となってしまうのです。


「ユリ姫とアヤメ姫を少しは引き離した方がよいのではないか」


 心ある人が二人の姫君にそう注意したことがありました。

 何をとっても水準くらいはあるのにも関わらず、全てにおいて最高級の妹姫が間近にいるせいで、アヤメ姫は何とも惨めなことではありませんか。

 距離を取りアヤメ姫個人を見る機会を増やした方がよいとの忠告だったのです。


「そのようなことをしても無駄です。アヤメには何も期待できません」


 対する両親の返事は冷淡でした。

 それもそのはずです。

 アヤメ姫は何をしても自分を圧倒する妹姫に対して、ぬぐいようがない劣等感を持ってしまっていました。

 二人を離して育てる時期があったとすれば、あまりにも遅すぎたのです。

 おまけに両親はユリ姫に届けられる恋文の多さ、やんごとなき貴公子が多くいらっしゃることにすっかり浮かれてしまい、アヤメ姫のことなどどうでもよいと言わんばかりでした。

 そのようなつらい日々を送っていたアヤメ姫が、何とか気丈にふるまえていたのにはある理由があります。

 それはキハチ家の御曹司、コマクサの存在でした。

 アヤメ姫とコマクサは互いの両親の仲がよかったため、物心のつく前からの付き合いだったのです。

 コマクサの家キハチ家はアシハラ家にも劣らぬ立派な貴族でしたし、コマクサは町娘から貴婦人までが頬を染めて息をつく、見事な男ぶりでした。

 アヤメ姫もひそかに一人の女性として彼の事を慕っていましたが、何分境遇が境遇でなかなか思いを打ち明けられないでいました。

 そんなある日、燦々と太陽に照らされる花畑で、コマクサはアヤメ姫にそっと一輪の赤いバラを差し出して告げます。

  

「君が好きだ。私と結婚してほしい」


 アヤメ姫は何を言われているのかとっさに理解できず、頭が真っ白になってしまいました。

 何もかもが妹姫に劣っている自分を、好いてくれる殿方がいるはずがないとなかばあきらめかけていたのです。

 ですが、コマクサの黒真珠にもたとえられる美しい瞳は、真剣そのものでした。

 とても彼女をからかっているようには見えません。


「あの、あの……」


 何か言わなければと彼女が焦るほど、彼女の口は喜びと驚きで麻痺してしまったのか、上手く動いてはくれませんでした。


「だめかい?」


 コマクサの顔が不安でくもり、アヤメ姫を後押しします。


「い、いえっ、喜んでっ」


 彼女の声はみっともなく上ずってしまいましたが、コマクサの顔は明るい笑みへと変わりました。


「よかった。嫌われていたらどうしようかと思ったよ」


「そ、そんな……コマクサさまを嫌うだなんて」


 アヤメ姫は柏扇で口元を覆います。

 いったいどうしてそのような誤解をされていたのか、彼女にはとんと見当がつきません。


「いや、私の勘違いだったのなら、それでかまわないんだ」


 コマクサは優しく微笑みます。

 彼女もそれにつられて口元をほころばせました。

 時の神の慈悲によって、空間を切り離されて二人だけの時を与えられたかのような、幸せな瞬間でした。



 コマクサとアヤメ姫の婚約は多くの人々を驚かせました。

 最も驚いたのはアヤメ姫の両親か、あるいは妹のユリ姫でしょう。


「えっ? うそでしょう?」


 ユリ姫が姫君にあるまじき表情で、あるまじきことを漏らしたのをアヤメ姫は聞いてしまいましたが、知らないふりをしました。

 彼女自身、まだ信じられない気持ちが強かったため、厚い雲に覆われてしまった空のような表情の妹姫の気持ちを察したのです。

 

「まあ、よかったじゃないか」


 そう話す両親の顔はとりつくろっているのがはっきりしていましたが、アヤメ姫は何も言いませんでした。

 両親に反対されたら結婚できないため、反対されないだけでも僥倖でしょう。

 コマクサの両親も「息子が選んだ相手なら」と賛成してくれました。

 あるいはこの二人はわが子の気持ちを知っていたのかもしれません。

 二人の家が婚約に賛成したため、二人は正式に婚約をして結婚の準備をはじめます。

 アシハラ家の姫とキハチ家の貴公子の縁談ですから、さぞ盛大な式になるだろうと世間の人々は噂しあいました。

 アヤメ姫は人生で最も幸福な日々を送っておりました。

 どれだけ頑張っても称賛されるのは妹ばかりという日がようやく終わったのです。

 長い長い雨が降りやみ、裂けた雲から顔を出す太陽を見た農民のような心境でした。

 ……ところが、彼女の幸せは長くは続きませんでした。

 ある時、コマクサが彼女のところを訪れて、婚約破棄したいと言い出したのです。


「……………えっ?」


 廊下でいそいそと婚約者を出迎えたアヤメ姫は、目の前の男性が何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。

 いえ、心が理解するのを拒絶して、脳の活動を止めてしまったのかもしれません。

 

「君には申し訳ないと思っている。だが、どうしても君とは結婚できないんだ!」


「……ご、ご両親は何と?」


 アヤメ姫は真冬の風に吹かれたように身を震わせながら、必死に言葉をつむぎます。

 両親の許しがないと婚約できないように、婚約破棄をするのもまた両親の許しが必要でした。

 一度は認められた以上、コマクサの一存で婚約破棄はできないのです。


「私の親も、君のご両親も許可はくれたよ」


 目の前の男性はとても言いにくそうに、彼女にとって残酷な事実を告げました。


「……う、そ、ですよね?」


 足元が突然崩れ去ったとしても、アヤメ姫は今のような恐怖は覚えなかったでしょう。

 今まで信じていたものが全て否定され、真昼が急に真夜中になってしまった、そのような気持ちです。

 

「うそじゃない」


 コマクサの声に罪悪感はありましたが、その端正な顔に宿る感情は、まるで聞き分けのない幼子に話しかけているものでした。


「ど、どうして?」


「すまない」


「破棄するくらいなら、どうして婚約を申し込まれたのです?」


 アヤメ姫の口からはとうとう恨み言が飛び出しました。

 一度は幸せの絶頂まで連れて行っておいて、そこから絶望の底に突き落とす。

 この世にこれ以上に残酷な仕打ちがあるのでしょうか。


「すまない」


 コマクサの表情は沈痛なものでしたが、若干焦れているようにも見られます。

 何しろアヤメ姫と彼は幼い頃からの付き合いなのですから、わずかな感情の動きも察するのは難しくありません。


「ちゃ、ちゃんと説明してください」


 アヤメ姫は気絶してこの世から逃避したくなっている自分を、懸命に叱咤しながら言いました。

 だいたい、婚約破棄をする場合、本人に最初に伝えるのが通例のはずです。

 どうして彼女の両親の後に彼女自身が知ることになったのでしょうか。


「それは……」


 コマクサはこれまでで一番言いにくそうに、口を閉ざしてしまいます。

 これ以上にまだひどいことが残っているというのでしょうか。

 目の前の貴公子はこのようにひどい男だったでしょうか。 

 混乱するアヤメ姫の背後から、若い女性の涼やかな声が届きました。


「わたくしと結婚するからですよ、姉さま」


「……ユリ……?」


 彼女のことを「姉さま」と呼ぶ女性はたった一人しかいません。

 華やかな赤い着物をまとった妹のユリ姫は、姉のアヤメ姫から見ても艶やかでした。

 ですが、その表情は彼女の記憶にあるものではありません。

 

「ど、どういうこと?」


 彼女の問いにユリ姫は黒い瞳を冷ややかに向けてきます。


「これが正しいのですよ、姉さま。コマクサさまにふさわしい女はわたくしなのですから」


「な、何を言っているの……?」


 目の前にいる少女はユリ姫と瓜ふたつの別人に違いない。

 アヤメ姫がそう思ったほど、妹姫は彼女に冷淡でした。

 さまざまなことがあったけれど、これまでの姉妹の仲は決して悪くはなかったのです。

 だからこそ、彼女は今起こっていることが現実だとはなかなか受け入れられませんでした。


「わたくしとコマクサさまは相思相愛だったのに、姉さまがはしたなくもコマクサさまを誘惑して婚約にこぎつけた。けれど、わたくしの真実の愛によってコマクサさまは目を覚まし、わたくしたちは今度こそ結ばれるのです」


 ユリ姫の可憐な唇によってつむがれる言葉は、アヤメ姫にとって信じたくないことばかりです。


「だ、だからあなたは何を言っているのよ……?」

 

 すがるように自分と同じ黒い瞳を向ける姉に対して、ユリ姫は明らかに嘲笑を浮かべました。


「姉と婚約破棄して、妹と婚約するなど、世間が簡単には理解してくれないでしょう? コマクサさまが悪く言われてしまうでしょう? それを防ぐためには工夫が必要なのです」


「そ、そのためにわたくしを悪者に……ありもしない事実を?」


 アヤメ姫はどうして自分だけが何も知らされていなかったのか、コマクサに後回しにされたのか、理解します。

 いやでも理解するしかなかったというべきでしょうか。

 キハチ家がいくら立派な貴族でコマクサが人気の高い貴公子だと言っても、アシハラ家の姉姫と妹姫の間をふらふら行き来するかのようなまねは許されません。

 貴婦人に対して非礼の極みであり、キハチ家から追放されても何も言えないほどの行為でしょう。

 しかし、本来結ばれるはずだった二人の仲を引き裂こうとした「悪」が、他にいるのであれば話は違ってきます。

 そしてそのために用意された「悪」こそが、アヤメ姫だとユリ姫は言っているのです。

 むろん、アヤメ姫自身にとってはとても許容できません。

 コマクサを誘惑したことなどないし、そもそもユリ姫とコマクサが深い仲など初耳でした。

 もし最初から知っていれば、断腸の思いでコマクサのことは諦めていたでしょう。

 妹相手に勝てない戦いを挑む勇気など、彼女にはなかったのですから。


「悪いのは姉さまなのですよ」


 ところが、非をとがめられたユリ姫は、あろうことかアヤメ姫のほうに罪があると言います。


「わたくしだってコマクサさまをお慕いしていたのに……愛しい殿方だと思っていたのに、姉さまが取り上げようとなさったからでしょう?」

 

 少なくとも今のユリ姫は誰よりも美しく、誰からも愛されて、アヤメ姫も憎めなかった可憐な姫君ではありません。

 怒りと憎悪の炎を身にまとう、女鬼とも言うべき存在でした。


「姉さまのことは嫌ってなかったのに! 不当に貶められてお気の毒だと思っていたのに! わたくしのせいだと申し訳なく思っていたのに!」


 ユリ姫は怨念とも形容するしかないような感情がこもった言葉を放ちます。

 ただ、これはアヤメ姫にも心当たりがありました。

 常に貶められる彼女に対して、ユリ姫はいつも優しく可愛らしく親切で、だからこそ二人の仲は険悪にならなかったのです。

 もっとも、それ故にアヤメ姫は、今の事態をまだ信じられません。

 たとえ両親に嫌な顔をされたとしても、きっと妹ならば喜んでくれる。

 そう信じていた相手からのまさかの裏切りでした。


「でも、姉さまはわたくしからコマクサさまを奪おうとしましたよね? これはもう、姉さまはわたくしの敵ということですよね?」


 アヤメ姫への仕打ちは当然のことだとユリ姫は、憎悪をこめた目で言います。

 コマクサが震えたのは、果たしてアヤメ姫への罪の意識からでしょうか。


「わ、わたくしがこのことを皆に明かせば……」


「誰がそれを信じると言うのですか?」


 ユリ姫の侮蔑のこもった一言は、鋭く彼女の胸に突き刺さりました。


「お父さまもお母さまも、おじさまもおばさまも、悪いのは姉さまだと言うのですよ? 世間は出来の悪い無能な姉が、妹に対抗しようとして、無様に返り討ちにされたと思うだけですよ?」


 妹の言う通りかもしれないとアヤメ姫は肩を落とします。

 誰よりも美しく、何をやっても一流の妹と、あらゆる点で妹にかなわない姉。

 両親の証言もある以上、誰も彼女のことを信じてくれないでしょう。


「お父さまとお母さまは、姉さまのようなふしだらな娘は家から追い出すようにおっしゃいましたよ?」


 ユリ姫はさらに追い打ちをかけてきます。

 身に覚えのない罪をかぶせられて婚約破棄されたあげく、それを理由に家を追い出すだなんて非道にもほどがありました。

 貴族の姫君と言えど、世間知らずの若い娘が一人、この世界で生きていけるでしょうか。

 家にいられると迷惑だから野垂れ死にしてしまえ、と言われたのにも等しい仕打ちです。

 しかしながら、ユリ姫の言葉にはまだ続きがありました。


「ですけど、わたくしがそれを止めました。だって姉さまのことは嫌いではありませんでしたから」


 彼女の顔も声も優しいものですが、先ほどまでの鬼のような姿を見せられた後では、何だかとても恐ろしく思えます。


「コマクサさまを奪おうとしてごめんなさい、泥棒猫の姉を許してとおっしゃるなら、わたくしは許せますよ?」


 ユリ姫のこのぬくもりのない発言は、アヤメ姫にとってはとどめのようなものでした。

 我慢の限界に達してしまった彼女は着の身着のまま、浅沓を履いて家から飛び出してしまいます。

 彼女に行く当てなどありません。

 でも、もうわが家に己の居場所など、どこにもないということは嫌でも分かりました。

 わき目もふらずに駆けていく若い娘の姿を、家の中から見た人はいましたが、誰も気にも留めようとはしません。

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