道端の仙人
私は幼い頃仙人を見たことがある。
といっても中国の伝説に出てくるような仙人ではなく、常識的見地からするとホームレスということになるのだろうが、彼は仙人と名乗っていたし私はそれを信じている。
私が住んでいたのは山と海に挟まれた小さな町だった。その町の真ん中を貫く道路が小学校時代の私の通学路で、道のまわりにある民家や畑に勝手に侵入して抜け道を探したり、土をほじくったりするのが日課になっていた。何しろ同じ方向に帰る友達の家は皆私の家より学校に近い位置にあったし、田舎なので大人たちは町の外に働きに出ている。一人で帰る帰り道は完全に私のテリトリーだった。
ところが季節が秋に差し掛かろうとする頃、下校途中に探検場所を物色していると、テリトリーの一角に異物があるのを私は発見した。
とある家の庭先、石を並べて道と畑の境界を区切ってある場所に小柄な男が座っていたのだ。服は上も下も灰色で、上着の方がやや黒っぽかった。頭には褪せたオレンジ色のキャップを被り、その中から白髪がはみ出している。顔は白い髭をで覆われており表情は読み取れないが、少なくともかなりの年寄りであろうことは分かった。
私は人見知りする方だったし、今まで大人たちに見つからないように他人のうちの庭に侵入していた後ろめたさもあって咄嗟に目をそらして通りすぎようとした。
「おい。坊っちゃん。」
突然男が話しかけてきて私は飛び上がりそうになった。
「足、速くなりたくないかね。」
男の声には張りがあり、老人とは思えないハキハキとしたしゃべり方だった。
「あの……。」
私はどう答えればいいものか、そもそも答えていいものか迷って、中途半端に男の方を向いて口ごもった。
「足、速くなりたくないかね。」
男は同じ質問をしてくる。
「速くは……なりたいです。」
私がそう答えると、男はふむ、と頷いて少し離れた場所にある草を指差した。
「俺は、仙人だ。仙人だから皆が知らない秘密を知っている。あの草を食べると足が速くなる。」
「え。」
男が指を指す方を見ると、確かにそこには地面から生えた草があった。だが、それは私が見たところではただの雑草にしか見えなかった。何か効能があるとは思えない。
困惑していると男は再びふむ、と頷いた。
「疑うのも無理はない。何しろあれは雑草だ。だが、あれを食べると足が速くなるのは本当だ。むしって、食べてみろ。」
「……。」
私は男に言われるがままに草を抜いた。
完全に信じたわけではなかったが、小学生の男子にとって足が速くなるというのは抗いがたい魅力だった。加えて、私は「仙人」という言葉は知らなかったが、その響きがもつ神秘性から説得力を感じとる感受性は持っていた。
私は草を口にいれて噛んだ。
草の繊維が噛み潰された音と共に苦味とも臭みともつかない味が舌の上に広がった。
「よしよし。そのまま噛みきって飲み込め。」
私は言われた通り雑草を噛みきって飲み込んだ。喉の奥から雑草の臭みに鼻を突かれて私は顔をしかめた。
その様子を見て男は口許の髭を動かした。口はよく見えないが、笑ったらしかった。
「坊っちゃん、よく食った。これで足が速くなる。」
男はそれきり黙りこんでしまった。私はどう反応していいか分からず雑草を握りしめたまま男を見つめて立ち尽くすしかなかった。そのうち時間が遅くなりそうなことに気がついた私は会釈だけしてその場をあとにした。
次の日、早速足が速くなるという雑草の効果を試す機会がやってきた。
私の小学校では冬が近くなると五分間走というものが行われるようになる。これは二時間目と三時間目の間の長めの休み時間を使って五分間の間グラウンドを走り続けるというものだ。累積五週ごとにカードにスタンプが押され、カードがスタンプですべて埋まると花丸がついて教室の後ろ側に飾られる。このカードは小学生にとってはステータスである。
私の成績はどうだったかというと、男子の中では下から数えた方が早かった。おそらくカードは五分で五週走ることを想定して作られているのだろうが、ペース配分など知らない私は出だしで全力失踪し、1週走った辺りでばて、ひいひい喉をならしながら後ろから走ってきた生徒に追い抜かれていきいつも結局3週か3週半ほどしか走れないというパターンだった。
そしてその日も私は最初から全力疾走した。
あの雑草の効果でひょっとしたらばてないかもしれない、という淡い期待があった。
しかし私の喉はいつものように一週したあたりから鳴り始め、ペースはがた落ちしし、次々に抜かれた。それでもなんとか走り続け、5分経ったときには何とか4週走り終えていた。
普段よりいい記録は確かに出た。ただ、4週という記録は調子のいいときに出したことがあり、今までの最高記録は4週と3分の2だった。いい記録は出ていることは確かなのだが、雑草の効果があったかどうかは疑問である。
私は釈然としないまま下校した。
すると、なんと前日と同じところに男が座っている。褪せたキャップに灰色の服までそっくり同じだった。
私は恐る恐る男に近づいた。
「あのう……。」
「おお、坊っちゃん。」
男は少し頭を動かしてこちらを見た。
「昨日の足が速くなる草のことなんですけど。」
「ふむ、どうだった。」
「今日、持久走があったから走ったんですけど、あんまり効果無かったような気がするんです。記録もそんなに良くなってないし……。」
「それはそうだ。」
男は頷く。
「どういうことなんですか? やっぱり嘘だったんですか。」
「嘘ではない。あの草はウサギや馬が好んで食べる草だ。ウサギや馬は生まれつき足が早いわけではない。足が速くなる草をいつも食べているからだんだんと足が速くなるのだ。つまり、あの草は一度食べただけではあまり効果はないしその効果もすぐに消えてしまう。毎日食べることで、足はウサギや馬のように速くなるのだ。」
男の説明を聞いて私はがっくり来た。足が速くなるためにはあの不味い雑草を毎日食べなければいけないらしい。いくらステータスのためとはいえ、それは流石に勘弁してほしい。
「もっと、すぐに効果のでる草は、無いんですか。」
私の問いに男は目を細めてこちらを見た。
「ない。」
男は畑のそばに生えている木を指差す。
「あの木に成る実は猿がよく食べる。食べると木登りが上手くなる。」
男は次に畑の奥の茂みを指差す。
「あそこにいる虫は鳥がよく食べる。食べると空が飛べるようになる。」
男は視線をこちらにもどす。
「たが、どれも食べてすぐに木登りが自在にできるようになったり、空を飛べたりはしない。食べることを習慣にし、生活の一部にしたときその効果は自分の力として身に付くのだ。どうだ。もっと食べてみないか。」
私はそれを聞いてますますがっかりした。一度食べただけで魔法のようにきくものは何一つないだけでなく、男が本当に仙人であることも怪しくなってきたからだ。足が速くなる草や木登りが上手くなる実はともかくとして、空が飛べるようになる虫は流石にあり得ない。
騙されて不味い雑草を食べさせられたと思うと腹が立った。
「仙人、さん。」
「何だ。」
「それ、嘘なんでしょ。」
「本当だ。」
私は男の表情を伺おうと男の顔を見つめた。
すると、私は男の口の辺りの髭に緑色の汁が所々ついていることに気がついた。明らかに草の汁だった。
背筋がぞっとした。
目の前の男は自分自身で言ったことを信じているのだ。信じて、本当に草を食べているのだ。
ここにきてようやく私は目の前の男の正気を疑った。
「俺の頭がおかしいんじゃないかと思ってるな。」
男は私の心の中を見透かしたような言葉を投げかけてきた。私がどう答えていいか分からず固まっていると、それを見た男はがっかりしたような表情になりため息をついた。私が初めて見る男の表情らしい表情だった。
「そのようすだと、どうしても信じる気はないらしい。久しぶりに山から降りてきて、いい弟子になりそうな子を見つけたと思ったんだが、残念だ。」
男はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がった。何かされるのではないかと身構えた私には構わず、男はくるりと私に背を向けた。
そして地面を蹴ると、馬のような速さで走って畑のそばの木の根本まで行き、猿のようにするすると木をのぼった。私が目をしばたいているうちに、男は木のてっぺんから両手を広げて跳んだ。地面に激突するかと思われたがそのまま男は両手ではばたくとふわりと宙に浮かび、鳥のように空を飛んで山の方へいってしまった。私はぽかんと口を開けたまま小さくなっていく男の影を眺めていることしかできなかった。
それっきりである。