第百十三話 忘れ得ぬもの
「涼しいねー」
木々の間を通り抜ける爽やかな風を受けて、相棒が気持ち良さそうに体を震わせる。
穏やかな木漏れ日の中で、その姿は妖精のようだった。
「しかし、何でこんな」
だが、心中には靄が掛かったような判然としない感情が浮かんでいた。 何故なら、たった数時間前まで俺達は灼熱の砂漠にいたから。
最初にここを見つけたときは、砂漠の中の小さなオアシスだとばかり思っていた。 けれど中に入ってみれば、鬱蒼とした原生林が見渡す限り広がっている。
まるでカット&ペーストでそのまま貼り付けたように、いきなり森林が発生していたのだ。 砂漠との境目は定規で引いたように直線的で、どう見ても不自然極まりない。
「ふん……」
ずい子も同様に感じているのか、この森に入ってからは終始不機嫌そうに顔をしかめていた。
呼び名について、相棒が頑としてずい子を譲らないので、結局俺もそう呼ぶことにしていた。 本人がどう思っているかについてだが、「別に呼び方など何でも構わん」 だそうだ。
「もー、二人ともどうしてぷりぷりしてるのさ」
戸惑いが顔に出ていたのか、相棒に態度を咎められてしまった。
「別に、怒ってる訳じゃないけど」
砂漠と比べれば断然こちらの方が過ごし易い。 日差しは木々で遮られているし、足場もしっかりしている。 なにより、気温が明らかに下がっているのがありがたい。
相棒のように、細かい事を気にせず喜んだほうが良いのかな。
「……現れたか」
と、先頭を歩くずい子が不意に足を止めた。
「どうし……っ!?」
隣に並んでずい子に問い掛けようとした時、目の前の光景を見て思わず言葉を失っていた。
「何あれ……」
ずい子の視線の先、そこだけ木が生えていない開けた空間に、それは存在していた。 柱に至るまでの全てが碧く透き通った素材で構成された、幻想的な神殿。 横の大きさは学校の校舎程だろうか、縦はそれ以上で、建物中央からは塔のような長いものが伸びている。
丹念に研磨されたかの如く全く曇りの無いその建物は、太陽の光を反射して爛々と輝いていた。
まるでゲームの現実感ある映像か、幻想世界を舞台にした大作映画のような光景を目にし、驚愕で頭がいっぱいになる。
「行くぞ」
戸惑う俺達には構わず、ずい子はさっさとその建物へ歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
慌てて追い掛ける相棒と共に、建物へ近づく。 ずい子はなんの警戒もしていないが、このまま進んで大丈夫なのだろうか、明らかに何か出て来そうな気配がしているのだが。
「誰も居ない……?」
左手を山札から離さず慎重に建物へ接近したものの、予想していた襲撃はなく、周囲には木々の揺れる音だけが響いている。
「お邪魔します」
聞こえているか分からない挨拶を告げて屋内に入ってみたが、ここにも人の気配は感じられない。 だだっ広い大広間が広がるのみで、人どころか家具等も何も存在していなかった。
まるで、誰も住んでいない空き家に入ったみたいだ。
ずい子はそのまま部屋の中央を直進し、正面の大きな扉をゆっくりと開け放った。
「よくぞここまで辿り着いた、若き召喚士よ」
俺達が続けて部屋に入った、その時。 遥か頭上から、威厳に満ちた声が響いた。
「お前が、あいつらの……!」
何処かの王室の謁見の間を思わせる部屋の中央奥、高い階段によって隔てられたそこに、絢爛な装飾に包まれた椅子がある。
そこに座る年老いた老人の姿は、純白の神御衣に包まれており、言い知れぬ威圧感を感じさせる。
髪も髭も純白で非常に長く、途中で繋がって箒のような形を為している。 顔に刻まれた皺は深く、それこそ6、70はゆうに越えた翁に見える。
「我が高貴なる計画を幾度と無く遮った報い、今こそ受けて貰おうぞ」
どうやら先方はこちらの事を認識していたようで、戦意はかなり高いようだ。
いきなり首領の出番とは思わなかったが、ここは一気に決着を……
「……いつまで茶番を続けている」
と、いきなりずい子が口を挟んだ。 重厚な声には、明らかな怒気を含んでおり、かつて俺と戦った時以上の迫力があった。
今までに無い感情の発露を見せるずい子を目にし、驚きで山札に伸びた手が止まる。
「まさか、君がここに来るとはね。 心境の変化でもあったのかな」
続けて起こった出来事に、更に心中の驚きが増した。 目の前の老人から、軽薄そうな男の声が響いてきたのだ。
「変わったのは貴様だろう? 大それた仕掛けを作って、一体何を企んでいる」
こちらの驚きを他所に、ずい子は謎の声と会話を続ける。 こうなることは予想出来ていたようで、全く動揺を見せていない。
「私はただ、世界を救おうとしているだけさ」
どう見ても老人の姿をしているのに、目の前の男が喋る口調や声色は、控えめに考えても3、40代の男のもので。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何がどうなってるの!?」
この奇妙な状況に耐えかねた相棒が、思わず叫ぶ。
「こっちの姿のほうが威厳があって色々と便利だったんだけど、まあ動きにくいやらなにやらで…… 君もそう思わない?」
その言葉を聞いたのか聞いていないのか、老人はあくまで軽快な口調でこちらに呼びかける。
「貴方……いや、あんたは一体」
目の前の男は一体何者なのか、台風のようにぐるぐる回る脳内の混乱をどうにか抑え、努めて冷静に問い掛けた。
「おっと、姿を戻すのを忘れてたよ、爺さんのままじゃ訳分からないよね」
軽快な笑い声の後、老人の姿はゆっくりと変わっていく。 投影された映像が切り替わるように、その顔は全く別のものへと変化した。
「何だ、普通のおじさんじゃん」
そこに現れたのは、黒髪の若年男性。 年の頃は20代後半程で、穏やかな垂れ下がった目が温和そうな印象を与えている。
相変わらず着用している神御衣を除けば、相棒が拍子抜けしてしまうのも分かる程に普通の外見だった。
「ご主人?」
「嘘だろ…… 何で!?」
しかし、俺にとっては違っていた。 その顔を目にした瞬間、体の芯に電撃が奔ったような衝撃を受けていた。
「ご主人!? どうしたの!?」
只ならぬ雰囲気を察して呼びかける相棒の声も、今は耳に入ってこない。
目の前で笑う男の名は、神威嚆矢。 彼がたった一人で創りだしたTCGは、ただのゲームという枠を超え、世界中で親しまれる一大ムーブメントと化した。
彼こそは、M&Mの創業者と呼べる男だった。