第百一話 君の名は
一応の照明が付いた操舵室の中で、誰に聞かせるでもなく呟く。
「すぐ帰ってくるって言ったのに……」
外は真っ暗で、打ち寄せる波の音が静かに響くのみ。 数時間続いた退屈な時間の中で、湧き上がってくる不安は限界に達しようとしていた。
もしかして、探索に行ったカムロっちに何かあったんじゃ……
あれだけ強いんだから、ちょっとやそっとじゃやられないと思うけど、何があるかは分からない。
ここに物凄く楽しい場所があって、アタシを置いてっちゃったとか? いや、まさか。
と、船外から砂を踏みしめる音が聞こえて、もやもやとした考えが中断する。 しかもその音は、段々とこっちに近付いてくる。
近付くものの正体について考える間も無く、音は船体のすぐ近くまでやって来て、船の扉がゆっくりと――
「うひゃぁ!? アタシは食べても美味しくないっすー!」
「何驚いてるんだ、俺だよ」
扉の前では、操縦席に体を縮こませたアタシを、カムロっちが呆れたように見つめていた。 よかった、アタシを置いてったんじゃないんだ……
安心しながらその姿を見て、アタシは微かな違和感を覚える。
「か、カムロっちにボーちゃんと……誰っすか?」
何時もカムロっちの傍にいるボーちゃんはともかく、そこには三人目の人物が居たのだ。
カムロっちに背負われている、見慣れない銀髪の少女。 まっ白な肌のその子は、何故か服を全く着ていなかった。
※
「なるほど、もう誰もいなかったんすね」
操舵席に向かい合って座るアメリアは、こちらの話を聞き終えても、特に取り乱す様子は見せなかった。
「あんまり驚いてないな」
「一応古代文明の話は師匠から聞いてるっすから」
仮にも科学者なのだから、大陸の外がこうなっていることもある程度予想していたのだろう。
「今の所、目新しい情報は手に入ってない」
ここにかつて優れた文明があった事と、その頃の機械が生き残っていた事だけだ。
一体この場所は何処なのか、俺達の大陸に迫ってくる脅威は有るのか無いのか。
まだ初日なのだから、そこまで思いつめるのも良くないと思うけど、焦る気持ちは止め難かった。
「この子が起きれば、何か分かるかもしれないんだけど……」
床に仰向けに寝かせた少女を見る。 銀髪の少女は運んでくる前と変わりなく、吐息も立てずに眠ったままだ。
「カムロっちを襲った時は、起きてたんすよね」
「多分そうだと思うけど、こっちの呼び掛けに何の反応も無かったんだよな」
何の意思も持っていないように、半自動的にあの機械は攻撃を仕掛けてきた。
中にこの少女が乗っていたことは確実なのだが、そこに少女自身の考えはあったのだろうか。
「とにもかくにも、この子が起きない事には話が始まらないっすね」
そう喋りながら、アメリアは少女の体に手を伸ばしていた。 しかも、膨らんだ胸部に向かって。
「アメリア!? 何処触って……」
「そんな照れなくてもいいじゃないっすか、生身の体って訳でも無いのに」
気にする様子も無く、アメリアはぺたぺたと体を撫で回している。
「いや、そうなんだけどさ」
人間ではなくただの機械と考えれば、別に何処を触っても構わない筈だ。 でも俺は、まがりなりにも少女の体をしたそれを、ただの機械だとは思いたくなかった。
「ほれほれ、ここがええのんか?」
「なにその口調……」
楽しむように体に触れ続けるアメリアを、相棒が呆れ顔で眺めていた、その時。
「ん?」
「えっ?」
何かが嵌るような、スイッチが入るような軽い音がしたかと思った瞬間。
少女の目が開き、探るように体を動かし始めたのだ。
「う、動いた!?」
「アメリア、相棒、俺の後ろに!」
右往左往する俺達の前で、少女はゆっくりと体を起こす。 立ち上がった少女の姿を見て、思考が一瞬停止していた。
睫の長いぱっちりと開かれた目は、宝石の様な碧い輝きを放つ。
感情の窺えない整った顔と、白すぎるほどに白い肌が、この世のものとは思えない美しさを構成している。
気を抜けば今すぐに襲い掛かってくるかもしれない存在に対して、俺は完全に見惚れてしまっていた。
「リカバリープログラム作動、システムを再起動します」
こちらの反応を知ってか知らずか、焦点の合わない瞳を宙に向けたまま、少女は無感情に言葉を発した。
「ユーザーアカウント設定、管理者情報を登録してください」
そう告げ、少女はゆっくりと片手をこちらに差し出す。 まるで、握手を求めるように。
「あど……?」
「ご主人! 危ないよ!」
戸惑うアメリアの言葉と、静止する相棒の言葉が響く中、俺は何かに引き寄せられるように、少女の手をしっかり握っていた。
金属部品がそのまま露出した硬い手は、意外にも暖かかった。
「アカウント登録完了、 ……設定開始……を……して……」
俺の手を握ったまま、少女の口から高速で言葉が紡がれていく。
最初はなんとか聞き取れたそれも、次第にただの雑音になっていた。
「だ、大丈夫なんっすか?」
少女の言葉が止むと同時に、胸の球体から眩い光が発せられ、一瞬視界が眩む。
「うわっ!?」
「ご主人!?」
光が収まった時、先程までとはまるで違う、柔らかな微笑を浮かべた少女が目の前に現れていた。
絵画からそのまま出て来たような美貌を前にし、俄かに高まる鼓動。 そして、少女の唇がゆっくりと開かれる。
「お早う御座います、我が殿」
柔らかな、それでいて透き通った声が、心地よく耳に届く。
まるでそれは…… ん? 殿って?
※
「拙者、名を……名を何と申すのだろうか?」
「覚えてないの?」
相棒の問いに、目覚めたばかりの少女は寂しげに首を振った。
「どうにも、再起動の際に情報が失われてしまったようで……申し訳ない、この場は腹を切って詫びるしか」
顔を曇らせた少女は、一瞬で右腕から鋭い刃を展開し、自身の腹に向けようとする。
「いや、切らなくて良いから!?」
「さすが我が殿、寛大でいらっしゃる」
冷や冷やもののこちらとは対照的に、少女は微笑みながら刃を収納した。
危ない危ない、止めなかったら本気で切腹しかねない剣幕だった。
「別にいいんだけど、その口調は何?」
さっきから疑問に思っていたのだが、なんでロボットなのに時代劇の口調なんだ。 行動も侍みたいけど、なんだか全体が微妙に間違っているような。
「先程読み取った殿の記憶の中から、最も親しみやすい言語を設定したので御座る」
そう言って少女は、自分の性能を誇るように胸を張ってみせる。
「そ、そうなんだ……」
M&M以外には殆ど興味を持っていなかったし、別に時代劇好きって訳では無いのだが。 まさか、単に俺の前世が日本人だから?
「あのさ、何であの時ボク達を襲ったの?」
「あの時、とは?」
きょとんとした顔で相棒を見つめる少女。
「街でボクとご主人を襲ったでしょ? でっかい機械に乗ってさ」
「むぅ……申し訳ない、再起動前の行動については……」
少女は切なげに頭を垂れ、途切れ途切れの言葉を述べる。
また切腹するとか言い出したらどうしようかと思ったけど、今度は大丈夫みたいだった。
そこまで融通が利かない訳ではないのかな。
「じゃあ、あの街についても覚えてないのか」
参ったな、この子が目覚めれば何か分かるかもしれないと考えていたんだけど、これで手掛かりが無くなってしまった。
「……うーん」
と、アメリアが、腕を組んだまま難しい顔をして唸っていた。
何時もの快活なそれとは違って、深く考え込んでいるようだ。
「まあ、振り出しに戻っただけで、後退した訳じゃないんだし……」
この先の指針が全く無くなってしまった事で、流石のアメリアも落胆してしまったのだろう。
「キカコちゃんってどうっすかね!」
「え?」
予想外の言葉に、思わず思考が止まる。
「名前っすよ、名前!」
「もしかして、ずっとそれ考えてたの?」
珍しく黙っていたのは、落ち込んでいたのではなく、名前を考えていただけとは。
まあ確かに、名無しのままでは色々と都合が悪いけど。
「実は、船の名前も考えてたんすよ、超アメリア号っていう超格好いいの! どうっすか?」
実は、船の名前について特に決めてはいなかった。
ベルナルドから船の命名権を譲り受けていたのだが、良い名前が思い浮かばず保留していたのだ。
でも、超アメリア号は絶対にあり得ないが。
「えっ……と、ま、まあ船の名前は置いといて。 なんでキカコなの?」
興奮気味に詰め寄るアメリアを受け流し、話を本題に戻す為に名前の由来について訪ねてみる。
「機械の女の子だから、キカコちゃんっすよ」
当然っすよ、と言わんばかりに、自信満々な態度のアメリア。
流石に適当すぎるというか、犬や猫の名前じゃないんだから、もう少し考えなきゃ……
「ふむ、良い名前で御座るな」
「え……?」
が、何故か当の少女が気に入ってしまっていた。
「分かってくれたっすか! 流石っすね!」
「ふ、拙者の名は……キカコ!」
「おお、決まってるっす!」
妙な構えを取って名乗るキカコを、拍手で囃し立てるアメリア。
穏やかな波の打ち寄せる音が響く中で、そのおかしな遣り取りは、暫く続いていたのだった。