ゲシュタルト崩壊とはまた別の現象
ゲシュタルト崩壊=ある図形を持続的に注視し続けることで全体的な形態の印象、認知が低下してしまう知覚現象のこと。
娘が先程からどんよりとした瞳で机に向かっている。女の子としてどうかと思う生気もなくゾンビのような顔なのだが、部活で身体を酷使し疲れきった状態で宿題に挑むと、こういう顔になってしまうのものらしい。
娘は勉強が好きな方ではないし、元々宿題は面白いものではないが、この英語の教材は学ばせる為のセンスがないと言わざるえない。スペルを覚えさせるのが目的だと思うのだが、同じ単語を縦一列三十箇所にひたすら書いていくというもの。一ページに五単語あり、それを一週間で十五ページノルマとして課されている。まあ普通にやれば平日に一日三ページやれば問題なく終わっていたのだろうが、部活動をして帰ってくる時間が九時、それでご飯を食べて〆切りの迫った宿題を優先的にしてきたら、この面倒な宿題が丸々残ってしまったようだ。そのテキストを見てみると、『go』『pen』『me』といった三十回も書かなくても覚えられるだろうといった単語もチラホラある。ただただ単純作業のその宿題は最早苦行の様相を呈している。やっている娘の顔もその瞳には何も映っているおらず無の境地にあるかのようにも見えた。
息子もそんな状態の妹を哀れむように見守る。
「終わった……」
そう呟きそのままバッタリと娘は机にうつ伏す。妹を労るように近付いた息子が、教材をのぞき込み顔色を変える。
「みっちゃん! 大変だよ! 『name』が全部『mame』になってる!」
兄の言葉に、娘は顔を上げ絶望したような表情になりそのまま固まる。迂闊に触るとサラサラと毀れてしまうのではないかと心配になる。息子も同じように感じたのだろう。
「だ、大丈夫! 俺が消しゴムで一つ山消して、『n』にしておくから。みっちゃんは、お風呂入ってきな! ね」
慌てたようにそう妹に言い聞かせる。
「お、お兄ちゃん……」
救いの言葉で息を取り戻した娘は、ウルウルと兄を見上げ言葉とならない感謝の気持ちを表情でしかと伝え、フラフラとお風呂へと消えていった。
息子は消しゴムで修正をしながらら溜息をつく。
「あのさ、他の単語は大丈夫かな? 見てみたほうが良い?」
私はその言葉に首を横にふる。
「余計な事はしなくても良いわよ」
生真面目な息子は、納得していないようだ。
「……でもさ、こんな感じで、みっちゃんスペル間違えたまま覚えてしまわないかな?」
親としては、ちゃんと最期までチェックして修正させるべきなのだろうが、このドリルのスペルの間違い探しは、希望を入れ忘れた厄介なだけのパンドラの箱のような物である気がしてくる。危険な香りしかしてこない。
「大丈夫! さっきの表情を見た? あんな顔で勉強したものが頭に入っている訳ないわよ。それに貴重な青春の時間こんなドリルの修正に使うなんてもったいない! 英語のスペルを覚えるには、このドリルよりも有効的でもっと良い方法もある筈」
納得したのか、息子は少し表情が明るくなる。
「そうだね、確かにこの教材よりかは良い手はイッパイありそうだもんね」
まあこのあまり効果のなさそうなドリルでも、娘はネームのスペルが『mame』ではなく『name』である事だけは覚えたのかもしれない。多分……とりあえず頭は『m』で始まる事はない事は理解したと思う。