3.戸惑いと攻防―1
上司サマがとんでもないこと言い出した翌日。
仮病を使おうか迷って迷って、結局意を決して出勤。
そうしたらなんと……何も起こりませんでした。
そう、何も起こらなかったのだ。それも、嫌味なほどに。
朝から会ったら何か言われるんじゃないかとか、態度も変わってるんじゃないかとか、それとなく答えを求められるんじゃないかとかびくびくしていたのだが、上司サマはと言えばいつも通りもいつも通り。
あまりにもいつも通り過ぎて“昨日のあれはもしかして幻覚?”とまで思った。
もしかしたら、自分の言ったことの突拍子のなさに気づき、無かったことにでもしたいのかもしれない。
わたしとしては、それならそれで一向に構わない。
だって、仕事も出来るし顔もかっこいい。その上どんな時でも穏やかだとあれば、もう怖すぎる。
そんな人と仕事もプライベートも一緒にいたら、いくら契約結婚だとしても息が詰まるだろう。
なにせ、わたしは仕事以外ではだいぶ怠け者だ。勉強が出来ないのも、興味が持てないことを徹底的に避けた結果だと言えば分かってもらえるだろうか。
そう考えているうちに、3日が経った。
その間上司サマは会社にいたりいなかったりしたが、総じていつも通りであった。
だからこそ、わたしは油断してしまったのだ。
愚かにも“3日も何もなかったのだから、あれは幻だった”と思ってしまったのだ。
油断したわたしは、まず今日が金曜日だということを忘れていた。
いや、明日が土曜日だということも、昨日が木曜日だということも分かっていた。
だが、金曜日が恋人たちにとって嬉しい曜日だということは、すっかりさっぱり忘れていたのだ。
事件は、あの時と同じ退勤間際に起きた。
「月曜日の予定は以上です」
上司サマのデスクの前で、わたしはファイルを持って立っていた。
そしてのん気にも、今週は色々あって疲れたから週末は家でゆっくりしようなどと、頭の片隅で考えていた。
「はい、分かりました。大丈夫です。お疲れ様でした」
上司サマが言った。
良かった。ここで上司サマの方から変更があったらスケジュールの調整だ何だと少し面倒なのだ。
「お疲れ様でした。失礼致します」
わたしはすっとお辞儀をして、扉へ向かおうとした。
しかし、上司サマの声がそれを止めた。
「そうだ、末木さん。今日この後のご予定は?」
予定? 今日は会食も無いし、他に何かあっただろうか。
「特に、無かったと思いますが」
わたしは当然、上司サマの予定だと思ってそう答えた。
けれど当の本人は何故か面白そうに笑んでいた。
「僕の予定じゃありませんよ? 末木さん、今そう思ったでしょう?」
僕の予定じゃ、ない?
「食事でもどうかと思いまして。一応、デートに誘ってるんですが」
で、でーと!?
デートって、あのデートですか!?
まさかこの場でそんな言葉を聞くことになると思っていなかったわたしは、一瞬理解するのが遅れた。
その様子を見て、上司サマはまた笑っていた。
もしかすると室長だけでなく上司サマも“いい性格”しているんだろうか。
あまり考えたくない話だ。本当に。
それはともかく、上司サマがわたしをデートに誘うなんて、一体何を考えてるんだ?
社長付きになってからも、2人で食事したことは一度もなかった。
わたしはそれを、上司サマなりの気遣いと自衛手段だったのではと思っていたのだが……
ほら、おモテになりますからね。なるべく関わらないようにしていたので、詳しくは知らないけれど。
そんな上司サマが、まだ何の返事もしていないわたしをデートに誘うだろうか。
いや、誘ってきたんだけども!
あれは幻だとばかり……思い込もうとしていたというのに。
ここはやはり、断るべきだろう。
「申し訳ありません、これから人と会う約束がありまして……」
こう言ってしまえば、どうしようもないはず。常套手段である。
「そうですか、それは残念」
案の定、上司サマはそう言った。
しかし、それだけでは終わらなかった。
「失礼なことを聞きますが、会われる予定の方は、男性?」
なんでもないことのように言う上司サマに面食らったが、ここで言いよどんでは思うつぼだろう。
意図はよく分からないけれど、とりあえず無難な答えをしておこう。
「いえ、女性の友人です」
相手が“デートの誘い”と言う以上、これが最適なはず。
「そうですか。では、帰りに連絡を頂けませんか?」
「は……?」
「送ります。女性だけでは、夜道は危ないでしょう?」
一体、何を言い出すんだ、この上司サマは……
目的は何だろう?
そんなにわたしと食事に行きたいのか?
いやいやいや、それこそ何のメリットが。
そもそも契約結婚のお誘いはまだ分かるが、いや分からないけど、デートのお誘いってどういうことだ。それは恋愛結婚に必要なもので、契約結婚に必要なものじゃないと思う!
もう分からないことが多すぎて何が分からないのかすら自信がなくなってきたが、今1つだけ分かることがある。
何が何でも断らなくては!
「い、いえ、社長。お気持ちは本当にありがたいのですが、社内の友人なので、あまりわたしと親しくしているところを見られるのはまずいのではないかと……」
よ、よし。相手を立てながら断る! これで良かったはずだ!
「僕はまったく構わないんですが……末木さんが困るなら、やめておきましょう」
よかった!
これで何とか切り抜けられそうだ!
「ところで、社内の友人というのは? 受付の中園さんのことかな?」
まだ何かあるんですか!? 社長!
泣きたくなるような気持ちを抑え、冷静に答えることを心がける。
「そうですが……ご存知なんですか?」
中園さんとは、わたしと同期入社の中園千比呂のことだ。同期といっても彼女は四大卒なので、2歳上だが。
千比呂は、クールだと言われる見た目と中身のせいでなかなか馴染めなかったわたしを、妹のように可愛がってくれる優しい人だ。
妹のようにと言っても、それはわたしが歳下だからではなく、彼女の性格が“姉御”だからなのだが、普段は“ちぃちゃん”と呼んで甘えさせてもらっている。
しかし、ちぃちゃんは入社からずっと受付のはずだ。上司サマと直接の関わりがあるとは思えない。
何故知っているのだろう? 社員を全員覚えているとはさすがに考えにくい。
おそらく、外出の時によく顔を合わせていたのだろう。5年もあれば、名前くらいは覚えてもいいはずだ。
わたしと仲が良いことを知っているのは、少し不可解だけれど。
「ええ、知っています。けれど、変ですね。中園さんは今日、僕の実家に行っているはずなんですが……」
「えっ……?」
僕の、実家? 実家って、あの実家?
「あぁ、すみません。驚かせました? 彼女、僕の遠い親戚にあたるんです」
「遠い、親戚?」
「そう。関係で言えば、祖父の従妹のお孫さん。なんでも、物が足りない時代に祖父が親戚の面倒を見ていたことがあったらしくて。今でも結びつきが強いんです」
それは、驚愕の事実だ。
ちぃちゃん、今まで一言もそんなこと言ってなかったのに……!
「特に中園さんは祖父に気に入られてましてね。この会社に入ったのも、祖父が半ば強引に誘ったからなんです。彼女は優秀なので、コネ入社みたいなこと、初めは嫌がったみたいですけどね」
たしかに、ちぃちゃんはすごく優秀だ。
大学もいいところを出ているし、留学の経験もあると聞いた。
それだけでなく、知識の幅が広いし、頭の回転は速いし……とにかく優秀なのだ。
「実は、僕が社長になってから、彼女を秘書室に誘ったんです。でも、振られてしまって。祖父が無理言った手前、あんまり無理強いも出来ないでしょう?」
「それで……わたしに白羽の矢が立ったわけですね」
「そうなりますね」
なるほど……
確かに、それは納得だ。
わたしは補欠だったのだ。
それについて、何か文句を言うつもりは毛頭ないけれど。
「けれど、勘違いしないでくださいね。中園さんは面識があった分、末木さんより有利だったんです。だから、先に声をかけた。人となりが分かっている方が、やはり安心できますから」
これは、励ましてくれているんだろうか。
わたし、もしかして暗い顔してた? やはりどこかで短大しか出ていない負い目みたいなものがあったのだろうか。
「まぁ僕としては、中園さんが断ってくれてよかったと思ってますよ」
「え?」
「だって、こうしてあなたと出会うことが出来たわけですから」
……甘すぎます、上司サマ。この砂糖みたいな甘さは何ですか。どういうつもりですか。とりあえず換気してもいいですか? 空気が甘ったるいです。非常に。
「あ、りがとうございます」
なんだか分からないけれど、とりあえずお礼を言っておくことにする。
でももうきっと、笑顔の仮面はほとんど剥がれていることだろう。
自覚しながらもどうにもならない顔を、出来るだけ微笑みに戻すことに奮闘していると、上司サマは何事もなかったように、それはさておき、と前置きして再び話し始めた。
「中園さんは、もう実家から帰ったんですかね。いつもは祖父が引き止めて泊まらせてしまうんですけど……」
この話、逃れられないんですね!
ちぃちゃん、お願いだからこういう大事なことは教えておいて!
心の中で友人に八つ当たりをしながら、わたしはなんて答えようか必死に頭を働かせた。
「あ……すみません、わたしの勘違いでした。中園さんとの約束は別の日で、今日は母との約束でした!」
お願いだから、騙されてください!
わたしは必死に祈った。
しかし、それは当然上司サマに届くはずもなく。
「そうでしたか。それは、丁度良い。僕もご一緒させて頂けませんか? お母様に一度挨拶をした方がいいと思っていたんです」
「なっ……」
それはもしかして、とってもまずいやつじゃ……!
しくじった! なんで母なんて言ってしまったんだろう! 上司サマが知らない友人なんて、何人もいるはずなのに!
というか上司サマ、外堀から埋めていく気ですか?
なんでそんなにわたしと結婚しようとするんですか!?
もうここまで来たら、素直に上司サマと食事をした方がいい気がしてきた。
ゆっくり話す良い機会だと思って、腹をくくろう。
色々聞かなきゃいけないのは事実だ。
「ごめんなさい、社長……。お食事、連れて行って頂けますか……?」
頭の中が疲れすぎたせいで力なく言うと、上司サマは小さくふきだした。
「ええ、もちろん」
穏やかに微笑んだ上司サマの顔が、今日は少し悪魔に見えた。
……全部、分かってやってたわけですね。