2.とんでもない提案―6
「でも、その際に1つ条件を出されたんです」
「条件?」
「はい……」
とうとう本題に入る。
わたしはファイルをぎゅっと抱えた。
「26になるまでに結婚を約束した人がいなければ帰ってくるように、と」
「ほう……」
上司サマもさすがに少し驚いたようだった。
「両親もわたしが外国語がちょっと得意だということは知っているんですけど、趣味程度だと思っていて。それ以外学もないんだし、一生やっていける仕事じゃないだろうと」
「なるほど」
“趣味レベルでそこまで出来れば、苦労しないんですけどね”と言って苦笑した後、上司サマは少し考えるように口を閉じてしまった。
1秒が10分にも20分にも感じる。
わたしは裁きを待つ犯罪者のような気分だった。
実際には数秒のことだったのだと思うが、わたしの中では1時間ほど経った頃、上司サマが言った。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「は、はい」
「末木さんは、どう思ってるんですか? ご両親のおしゃるように、辞めたほうが自分のためだと?」
「それは……」
なんだかすっかりペースに乗せられている気がする。
ここで“辞めたくない”と言ったら、上司サマはなんと言うつもりなのだろうか。
「僕は、素直な気持ちを聞かせてほしいんです。ご両親のことは、今は少しだけ考えないで」
まるで悪魔の囁きだ。
わたしは甘い蜜に誘われるように、無意識のうちに口を開いていた。
「辞めたくないです……わたしは……」
うわ言のように呟いて、わたしは下を向いた。
決心して話したつもりだったのに、これでは引き止めてほしいと言っているようだ。
「そう、それは良かった」
わたしの願いどおり、上司サマはきっと引き止めてくれるのだろう。
一度言葉を切り、そして言った。
「では、僕のお嫁さんになりますか」
緊張しすぎて集中力も切れ始め“もういっそ一思いにやってくれ!”と思いが出てきた頃だった。
当然、脳は理解することを放棄し、ついつい元凶であるはずの上司サマに救いを求めるような視線を向けてしまった。
上司サマ!さっぱり分かりません!
これはわたしが馬鹿なせいでしょうか!
しかし返ってきたのは、いつも通りの穏やかな笑顔だった。
「僕としては、今末木さんに辞められるのは惜しい。あなたは優秀な人材ですからね。それに、末木さん自身も辞めたくないと思っている。希望は一致していますね? 問題は、ご両親との約束です」
上司サマは出来の悪い生徒に教えるように、それはもう丁寧に優しく分かりやすく言葉を並べてくださっているんだと思う。
わたしがさっぱり理解出来ないままだというのは、この際置いておこう。
「しかしご両親との約束は“26歳までに結婚”ではなく“結婚の約束”と聞きました。間違いはないですか?」
わたしは放心したまま、辛うじて小さく頷くことが出来た。
「良かった。そこが間違っていたら、少々難しくなりますからね」
何が難しいのか、わたしには分からない。
「末木さんの誕生日は9月ですよね? でしたら、まだ猶予があるということです。“結婚の約束”をするのは可能です」
確かに、誕生日は9月です。9月16日です。
「ですから、僕と結婚しましょうか、と提案しているわけです」
上司サマ、やっぱりどうしてそこに結びつくかわたしには分かりません。
「無理強いをする気はありません。結婚に色々夢がある方も多いでしょうし、それでなくても一生に関わる問題ですから」
夢? そんなものは両親と約束した時点で考えないようにしてきましたよ。
「もちろん“イエス”と言ってくださるなら、約束だけで終わらせる気はありませんので、そこは安心してください。ご両親にも許して頂けるよう何度でもご挨拶に伺いますし、末木さんの希望もなるべくききたいと思っています。どうでしょう?」
どうでしょうって、何がでしょう……
「僕と結婚して頂けませんか?」
上司サマは“自分で言うのもなんですが、お買い得だと思いますよ”と笑った。
すみません……全然笑えません……
「ど……どうして、そんな……」
とうとうわたしの口から疑問が溢れ出た。
もう失礼だとかなんだとか言っていられない。
これ以上頭の中だけで考えていると、破裂しそうだ!
「そうですねぇ……簡単に言ってしまえば、利害の一致でしょうか」
「利害の……」
しかし、先程聞いた理由だけでは、あまりにも上司サマにメリットが少ない気がする。
わたしの代わりに、もっと優秀な人を雇えば良いだけの話だ。
「実は、これは僕の勝手な事情も含まれているんです。元々僕は結婚を煩わしいと思うタイプでして。でももう、いい歳でしょう?最近祖父がうるさくなってきたんですよ。ほら、今日かかってきた電話……あれも見合い話です」
上司サマは困ったような顔をした。
なるほど。嘘か本当かは分からないが、いつも通りの怖い声でかかってきた電話の用件は、お見合いだったのか……
「ですから、僕としても末木さんが結婚してくれれば丁度いいんです。末木さんとなら、公私共にいい関係を築けそうですから」
“末木さんとなら”の部分がいまいち納得出来ませんけど……上司サマ。
「でもやはり一番は、僕があなたを手放したくないから、ですかね」
もしこれが愛の告白だとしたら、こんなシチュエーションを夢見る女性も多いのではないだろうか。
端整な顔立ちの男性に、真剣に見つめられながら……
いくら好みでないといっても、こんな風に見つめられたら揺らいでしまいそうだ。
……これが愛の告白だったら、の話だが。
現実はなんとも色気のない契約結婚のようなもののお誘いである。
もう、本当にわけが分からない!
頭がパンクしそうです!
いや、もうパンクどころか煙ふいてます!
上司サマ、説明してください!
違う、説明はもう十分です。理解できないのはわたしでした。
馬鹿でごめんなさい。謝るから許してください。
そうしてわたしが涙目になるのとほぼ同時に、上司サマがすっとハンカチを差し出してくださった。
「考えてみて頂けますか」
上司サマは最後まで余裕たっぷりな様子で、穏やかな笑みを浮かべていた。
それを見たわたしは、ああこの人には勝てっこない、と自分でも気づかないうちに敗北宣言をしたのだった。