2.とんでもない提案―5
それからは特に何事もなく仕事を終えることができた。
しかし今考えれば、この時点で気づくべきだったのかもしれない。
少しでもいつもと違うことがあったと感じたならば、いつも以上に注意すべきだったのだ。
わたしは全て片づけた後、退職願を持って社長室のドアをノックした。
上司サマが社内にいる時は、挨拶と翌日の確認をしてから帰宅するので、上司サマも別段不思議がることもなくいつも通りわたしを迎えた。
退職願を出すのは最後にしようと思っていたわたしは、いつも通りを装って確認をし終えた。
問題は、ここからだ。
「翌日の予定は以上です」
「はい、分かりました。では、今日はこれで。お疲れさまでした、末木さん」
そんな上司サマの言葉に、普段は一礼をして下がるのだが、今日は違う。
わたしは、持ってきたファイルに隠していた封筒をそっと出した。
言葉が見つからず黙っていると、少しした後、上司サマが口を開いた。
「わけを、聞いても?」
一見いつも通りの穏やかな表情だったが、わたしはなんとなく冷たいものを感じた。
それもそうだ。いきなり退職願を出したきり口を開かないのだから、失礼極まりない。もっと怒ってもいいくらいだ。
しかし頭では分かっていても、こんな上司サマを見たのは初めてだったので驚いてしまった。今まで仕事上での注意は受けたことがあるが、上司サマは決して感情的にならず、どこまでも穏やかだった。
できれば一身上の都合で切り抜けたいと思っていた決心が鈍る。
「い……一身上の都合です」
恐る恐るそう言ってみたが、上司サマは先を促すような視線を寄越しただけで何も言ってくださらない。
「あの、家庭の、事情……なんです。この歳にもなって申し訳ありません。引き継ぎはしっかり致しますし、最後までわたしのできることは精一杯するつもりです……」
もう25だというのに“親との約束で”と言うのは恥ずかしい気がするし、それを言ってしまえばわたしの恋人事情も知られてしまうことになる。
なるべくこの辺で納得して頂きたいところだが……
残念ながら、上司サマはまだ黙ったままだ。
「あの……」
いたたまれなくなったわたしは、つい窺うように声をかけた。
「……確かに、法律的には無理やり辞めることも出来ます。ですが僕としては、末木さんが僕付きの秘書になってくれてから、信頼関係を築いてきたつもりでした」
上司サマは持っていたペンを置いた。
「もしかしたらこれは僕のわがままかもしれません。でも、出来れば話してほしい。不満があるなら改善していくし、何か困ったことがあるなら手助けしたいと思う」
ここで一度言葉を切った上司サマは、少し考えるように目を伏せてから、再びわたしを見た。
「もし、僕付きをやめたいということなら、廿楽に相談してください。なにも会社を辞めることはありません。末木さんとしても、仕事に慣れて楽しくなってきた頃ではないですか? そんな時にやめるのはもったいない」
どうやら上司サマは、自分に問題があってわたしが理由を言えないと思ったらしい。
一言一言ゆっくりと、わたしが後ろめたく思わないよう言葉を選びながら話してくださっているようだった。
とんでもない勘違いである。
ここは腹をくくるしかないようだ。
もしかしたら呆れられるかもしれない。
しかし、このまま勘違いさせておくよりは、わたしが恥ずかしい思いをした方がまだましだった。
「すみません、違うんです」
わたしは意を決して話し始めた。
けれど、やはり言い辛く言葉がとまってしまう。
なかなか続きを言えないでいるわたしを、上司サマは静かに待っているようだった。
「実は……親との約束なんです。あの、すごく個人的な話になってしまうんですけど……」
「末木さんが大丈夫なら、聞かせてください」
上司サマの答えを聞いて、少しではあるが安心したわたしは、無意識に強張っていた体の力を抜いた。
「わたしの実家は定食屋をやっているんですが、今は……跡継ぎがいない状態で。わたし、一人っ子なんです。それで両親は、わたしが大学を卒業したら定食屋を手伝わせながら花嫁修業を、と考えていたみたいなんです。やっぱり早く結婚して継いでほしいという思いがあったんでしょうね。“結婚するなら長男はだめだ”といつも言っていましたから」
視線を下げたままで話しているが、上司サマが真剣に聞きながら相づちを打ってくださっているのがなんとなく分かる。
「親としてはどうせ就職しても長く続かないだろうし、それだったら、っていう気持ちだったんだと思います。わたしも、その気持ちは分かるんです。勉強なんかずっとやってこなくて、入れた大学もレベルの低い短大。必死に打ち込んで続いた趣味も夢もない。だから、そう思われて当然で、むしろ両親はわたしのことを考えて言ってくれたんです」
言っていて情けなくなってきてしまったわたしの目線は、どんどん下がる一方だ。
「それでも、わたしは外で働いてみたくて……。バリバリ働く優秀な人間にはなれないと分かっていたんですけど、フランス語とか、覚えて。あ、旅行してのめり込んじゃって。言葉は案外覚えられたんです。ドイツ語とか、英語も勉強して……」
段々自分でも何を言いたいのか分からなくなってきてしまった。
しかし上司サマは、整理されていないわたしの言葉もちゃんと分かってくださるらしい。
「知ってます。僕に付いてもらう前に廿楽から聞かされてますから。絶賛していましたよ。“綺羅子さんの言語能力はすごい!”と。あの廿楽がですよ?」
そう言った上司サマを見ると、楽しそうに笑っていた。
「あ、ありがとうございます……」
そんなことを言っている場合じゃないと思っても、褒められたと聞いて素直に嬉しかった。
室長はなかなか人を褒めないのだ。今の話を聞いて、もしかしたら本人に言わないだけかもしれないとも思ったが。
「詳しいことが聞きたければ、廿楽に直接。でも、これだけは言っておきましょうか。彼は末木さんのことをかなり評価していますよ。僕に付けるくらいですからね」
上司サマは、わたしの辞める決心を挫きたいのだろうか。
辞めるために事情を話すはずが、なんだかずれてきてしまっている気がする。
これじゃいけない!
わたしは気合を入れなおした。
「ありがとうございます。嬉しいです……。あの、それで、勉強は出来なかったんですけど、わたしにもやれることがあるんじゃないかと思い始めて。反対を押し切って就職したんです。両親もここに内定を頂いたと言ったら、さすがに考えたみたいで」
詳しいことは分からなくても“HASUDA”という名前は、誰でも聞いたことがあるというレベルのものなのだ。
だからこそ、両親は初めものすごく疑った。
騙されているんじゃないかとか、何かの間違いだろうとか、それはもう散々なことを言われた。
わたしも何故内定を頂けたのかずっと不思議ではあったが、入社してから聞いた話によると、英語の成績が大卒の人と比べてもスバ抜けていたかららしい。
HASUDAには海外からのお客様も大勢いらっしゃるので、受付には英語をはじめとする外国語のスキルが求められる。
そのため、受付に採用される人間は最終面接を英語で受けるのだ。
わたしも当時の社長と一対一……ではなかったのだが、1時間くらい話したと思う。
何も聞かされていない状況で英語で話しかけ、どのくらい対応できるかを見るのだそうだ。
ちなみにわたしは幸か不幸か馬鹿だったため、英語で話しかけられた時点で社長を英語が母国語の人だと勘違いし、特に戸惑うこともなく返したのだった。
そして話していくうちにフランス旅行の話になり、フランス語を勉強した話になり……気づいたらフランス語が得意らしいお偉いさんを社長が呼んでいて、英語仏語入り乱れる不思議な面接が行われていた。
今考えると恐ろしいが、当時のわたしは“お偉いさん”が副社長だということにも気づかず、楽しく雑談をして帰ったのだ。
その後、志望理由も自己PRも言わずに終わったことに思い当たってからはさすがに少し落ち込んだが、これだけの大企業の最終面接を受けられただけでいい経験が出来たと笑っていた。
しかし、忘れた頃にまさかの内定通知が届き……思わず頬を自分でつねった覚えがある。