2.とんでもない提案―4
「社長。会長からお電話です」
わたしがそう声をかけると、書類から少し目線を上げ、穏やかに言った。
「わかりました、ありがとう」
こういうことが自然に出来てしまうのは、すごいと思う。
たまに秘書仲間から話をきくと、やはり威張りくさっている上司もいるらしい。
普段なら、このまま失礼しますと言って下がるのだが、今日は食事をとっていないらしいことが気になって、つい言ってしまった。
「あの……。昼食は召し上がりましたか?」
上司サマは、外に出ていることも多く、昼食時に社内にいるのは少し珍しいのだ。今まで、休憩の途中で出て行ったり、帰ってきたりはあったのだが、丸々社長室にこもりっぱなしというのは、わたしが知る中で初めてのことかもしれない。
だから、いつもは出先でどこかに寄っているのだと思っていたのだが……。この分だと、もしかしたら食べていない時もあったのでは……。
社長は、いつもならすぐ下がるはずのわたしが声をかけたことに意外そうな目をしたが、すぐにいつものふんわりした笑顔を作って言った。
「いえ、実はまだなんです。そういえば少しお腹が空きましたね」
「では、お電話が終わったころに何かお持ち致しましょうか?」
電話を待たせているために、少し早口になりながら尋ねてみた。
すると、上司サマは一瞬考えるような素振りを見せてから、にこりと笑った。
「大丈夫です。でも折角なので、緑茶を2人分お願いできますか? それと、廿楽にいつものを持ってくるように、と伝えてくれるかな」
「かしこまりました。失礼致します」
急ぎながらもそっと扉を閉め、ふぅ、と息をついた。
何のことだかわたしには分からないけれど、室長に“いつもの”をお願いしなければならない。
社長が会長と電話で話す時は、20分程度のことが多いので、お茶を入れるにはまだ少し早い。内線で室長に伝えてから、10分後くらいに給湯室に向かおう。
自分のデスクに戻った私は、予定通り室長に内線をかけた。そして、言われた通りに“いつものをお願いします、とのことです”と言うと、ちゃんと伝わったらしく、後で持って行きますと返事を頂いた。
その後、これからやるべき仕事を軽く確認し、給湯室へ向かった。秘書室の前を通る時になかをちらりと覗いてみたが、室長はいなかった。もしかしたら“いつもの”を用意しにいったのかな、とふと思った。
給湯室に着くと、まずはお湯の準備をした。そして普段あまり使わない良い茶葉を棚の奥のほうから出す。あまり使わないと言っても定期的に入れ替えているため、まだちゃんとおいしいはずだ。余談だが、この高級茶葉が入れ替えの時期まで残っていた場合、秘書室の皆で飲むことになっている。わたしも何度かおこぼれにあずかったことがあるが、茶葉でこんなにも違うのかと感動したものだ。
特に、室長手ずから淹れてくださった時のおいしさと言ったら、この先自分で入れたお茶が飲めなくなるのではないかと思ったほどだった。もちろん、普通に飲んではいたけれども、やはり少し物足りなく思うようになってしまった。
そんな事があり、わたしは必死にお茶の淹れ方を練習した。おかげで今ではそこそこおいしいと思えるようになったのだが、そこに至るまでのことはあまり思い出したくない。
とりあえず、室長は“いい性格をしている”とその時学んだとだけ言っておこう。そうは言っても、誤解はしないで頂きたい。室長がすごい人だ、といった言葉に偽りはない。ただ、ちょっとばかし黒い面がある……かどうかは置いておこう。もしそんなことを少しでも考えたことがばれたら、とても良くないことが起こりそうな予感がする。
そんなことを考えながらお茶を淹れ終え、おぼんの上にお湯飲みを2つ用意し、ついでにお手ふきも一応乗せてから社長室に向かった。
自分のデスクを通り過ぎ、扉の前で気を引き締め、ノックをした。
「どうぞ」
上司サマの入室を促す声が聞こえて、わたしは静かに扉を開けた。
「あぁ、綺羅子さんお疲れ様」
中に入ると、手前の応接用のソファーに座った廿楽室長が、にこやかに声をかけてくださった。
まさかいらっしゃると思わなかったので少し驚いたものの、顔に出すことはせずに応える。
「室長、お疲れ様です。こちらにいらしたんですね」
そう言いながら、室長とその向かいに座る上司サマの前に、持って来たお茶をそっと置いた。
「ありがとう」
上司サマの言葉に、わたしは微笑むことで応えた。
その後、わたしはすぐに退室しようと思っていたのだが、室長が何やらごそごそやり始めたのに気をとられて、出るタイミングを逃してしまった。
なんとなくタイミングを計りながら室長の手元を見ると、持っていた白いビニール袋から出てきたのは、なんとお団子と大福だった。
「見られちゃいましたね」
楽しげな声が聞こえ、ビクッとしながら視線をずらすと、深刻そうな顔を作った上司サマがこちらを見ていた。
「あ……も、申し訳ありません」
冗談だと分かっているはずが咄嗟に謝ってしまったわたしに、室長がふき出した。
「あはは、綺羅子さんは真面目なんだから。怒ってないのは分かるでしょうに」
「は、はい、すみません」
怒っているとは思っていなくても、まだ深刻な顔のままの上司サマと、その前にあるお団子と、いつも掴めない室長が面白そうに笑っているこの状況にわけが分からなくなったわたしは、再び謝罪の言葉を述べ、もう一度室長の大笑いを頂くことになった。
「ああもう、おっかしいなー、綺羅子さん! どうしちゃったの。いつもはあんなに冷静なのに」
それはこっちのセリフです、室長。
とは口が裂けても言えないが、思わず言ってしまいたくなる程の衝撃だった。
一見優しげではあるが、接したことがある人ならまず間違いなく“クールだ”と言うであろう室長が大笑いしている姿なんて、想像がつかなかったからだ。
また、いくら兄貴分とはいえ、社内で2人を見かけた時は完全にビジネスライクに徹していたように見えた。そこからすると、今のようにお団子を囲んで談笑するなんて考えられない。
そして、室長も室長だが、社長も社長だ。
甘いものが好きなことは知っていたが、どこか日本人離れしているような雰囲気のある社長が和菓子を食べることにまず驚いたし、普段から穏やかではあるが、冗談を言うなんて初めてだった。
半ば呆然とするわたしに、笑いが収まったらしい室長が続ける。
「これね、社長のお気に入りなんですよ。このビルから駅と逆方向に行くと、細い道があるでしょう? そこを入ってすぐのとこにある和菓子屋さんのものなんです。綺羅子さんも、1つどう? あ、せっかくだから座ったら?」
そう言って上司サマの隣を指差しながら、小豆の粒が少し透けて見える大福を差し出してきた。
「い、いえ、結構です。ありがとうございます」
「そう? 今日は特別ですよ?」
いくら室長がいつもより砕けた雰囲気でも、まさか仕事中に社長の隣に座って大福を食べるわけにはいかない。
そう思い、さりげなく退室しようとしたのだが、予想外の上司サマの言葉にに引き止められた。
「大福、嫌いですか? あ、それともお団子の方が好きですか?」
「……どちらも、好き、ですが」
思わずきょとんとするわたしに、上司サマはいつものように穏やかに微笑んだ。
「そうですか。では、おひとつどうぞ」
上司サマは、近くに立つわたしに直接握らせるようにして、大福を渡してきた。
「見つかってしまったからには、仕方ないです。これで手を打ってください」
手を打つも何も、別に悪いことをしているわけではないのに。そう思いつつも、上司サマが真剣な顔を見せた後、悪戯っぽく笑ってみせたので、ありがたく頂戴しておくことにした。
「では、これで共犯ですね。ありがたく頂戴致します。ごちそうさまです」
“共犯”などという言葉を使ったわたしに一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った上司サマは、そうしてください、と言って笑った。
やっと自分のデスクに戻ったわたしは、なんだか疲れたような気がして、ふぅと小さくため息をついた。そしていつもよりのろのろと椅子に腰掛けると、手に大福があることを思い出した。
丁度甘いものが食べたくなったし、せっかく頂いたのだから柔らかいうちに食べてみようか。
そう思い、包みを開けて、一口かじった。
「おいし」
普通に見えた大福は、とても温かい甘さで、体に染み渡るようだった。