2.とんでもない提案―2
そう。わたしの上司サマとは、HASUDA社の社長である蓮田淳季さんその人だ。
わたしは直属の秘書として、社長室の手前にある部屋に机を置いている。ここは応接室になったり、時には会議室にもなったり、お客様を奥まで通す場合には待合室にもなったりする場所で、わたしはだいたいここにいることが多い。
HASUDAでは、秘書は秘書室の所属となる。
そこで担当する部署や役員を割り振られ、フォローしあいながらもそれぞれの仕事をするという形だ。
また、重役には1人以上の秘書が専属でつくことになっているので、その担当になった者は基本的につきっきりで、秘書室に行くことはあまりない。わたしもこのタイプだ。
秘書は担当する部署や役員が上司となるが、それとは別に、秘書たちをまとめる人物がいる。
それが、秘書室室長である廿楽弥之介さんだ。
室長は、割り振りや仕事を調整したり、人手不足があればフォローしたり、細々した雑務を片付けたり、とにかく忙しそうなのだが、いつも笑顔を絶やさないすごい人だ。
また、噂によると、彼は社長の幼馴染なんだとか。28歳という若さで社長になった上司サマを、陰日向になり支えてきたらしい。たしか社長より5つ年上の37歳で、昔からの兄貴分だという。
わたしも4年前、秘書室に異動になった時には、とてもお世話になった。
余談だが、社長と室長は、社内でも五指に入るくらいかっこいいとの評判がある。
社長はくっきりした二重で、割と男っぽい顔立ちだが、雰囲気が柔らかく優しいイメージがある。
対照的に、室長は線が細くどこか女性的で、艶やかと表現したくなるような雰囲気がある。すっとした一重の綺麗な目だということもあり、着物なんかがとても似合いそうだ。
そんな“評判”も手伝い、秘書室は一般的な女子社員としてはなかなかにおいしい環境だと言えるらしい。
さすがに社長にはなかなか手が届かないとしても、秘書室は重役達の部屋と同じフロアにあるので、もしかしたらいい男を捕まえられるかもしれない、という希望を持つようだ。たしかに、見るからに育ちのよさそうなお客様も時々いらっしゃるので、自社他社含めいい男に出会う確率は高いかもしれない。お付き合いとなると、どうだか分からないけれど。
……いや、正確に言えば、勝率はほぼ0だ。さり気なくアプローチしている場面を何度か見かけたが、うまくいっているという話を聞いたことは今までに一度もない。
だからなのかもしれないが、社長付きになった時には、先輩方から相当冷たく……もとい、厳しく指導していただいた覚えがある。
しかし。しかし、だ。正直に言ってしまえば、わたしは年下が好きだ。
よって、社長も室長も全く好みではない! 人として、上司としては尊敬しているが、男性としてみたことはない。本当にないのだ。
冷たくされ始めてから、先輩方に幾度となくそう言ってみはしたものの、聞いてはもらえなかった。それでも当時は気にしていないつもりだったが、思い返せばあの頃が一番辛かったかもしれない。
社長付きになってから、3年と少し。本当に、色々あった。
毎日毎日、社長に同じように挨拶をして、1日の予定を伝える。
そんな日々も、今日辞表を出してしまえば、あと少しのことになるのだと思うと、やっぱり寂しさがこみ上げてきた。
「どうしました?」
どうやら、考えていたことが顔に出ていたらしい。普段ポーカーフェイスだと言われるわたしも、この3年の間に、社長には少しずつ分かるようになってしまったようだ。
「いえ、なんでもありません。本日の予定は以上ですが、何かございますか」
平静を装って、予定を伝え終える。どうやら、もう緊張してきたみたいだ。
「今のところは大丈夫ですね。では、今日もよろしくお願いします、末木さん」
上司サマのそんな言葉に、よろしくお願い致しますといって礼をし、わたしはコーヒーを淹れるために、秘書室の隣の給湯室へ向かった。
うちの社長の辞書に“社長出勤”という文字はないらしく、実はまだ始業時刻の少し前だ。
以前はもっと早く来ていたらしいが、わたしが社長付きになって以来、なにがあっても先に出勤しようとしたところ、始業時刻の20分ほど前に来てくださるようになった。
それはそれで申し訳ないと言ったこともあるのだが、どうせ大した仕事はないと言い、結局今の形に落ち着いたのだった。