2.とんでもない提案―1
翌日。
帰宅したわたしは、最近では一番と言っていいほど、ぐったりとしていた。
原因は、八月の嫌な暑さではない。また仕事でもない。
いつも通り業務はたいした失敗もなく、しっかりこなせたと思う。
問題は、退勤前にきり出した退職についての相談である。
結果から言えば、今日の決戦は大失敗に終わった。
上司サマの表情を崩すどころか、ひどい返り討ちにあってしまった。
しかし、この際そんなことはどうでもいい。問題なのは、辞表を受け取ってもらえなかったことだ。
いや、正確に言えば、受け取ってはもらえた。
ただし、文字通り“受け取ってもらえた”だけで、認めてもらえたわけではない。
彼は“とりあえず預かっておきます”と言い、にっこり笑ったのだ。
思い出しただけで、頭が痛くなってくる。いけないと分かっていても、今はただただ現実逃避することしかできない。
わたしは魂ごと抜けてしまいそうな深いため息をつき、ソファーに転がった。そして、お気に入りのクッションを枕に、うつ伏せになる。
しばらくそのままの状態で、無意味に今日飲んだとある喫茶店の新作メニューである“キャラメルラテ”の味についての考察をした。
大の甘党のわたしだが、この手のものはもったりとして重い甘さであることが多く、ものによっては最後の方はうんざりしてしまうことがある。
しかし、今回は当たりだった。
確かに糖分が多すぎる感じはあるのだが、すっきりした甘さで、最後まで美味しく飲めた。しばらくはマイブームになってしまいそうだ。
明日もお昼に買いに行こうか、と考えて、頭を抱えた。
そうだ……。明日も上司サマと顔を合わせなくてはいけないんだった!
行きたくない。会社、行きたくない!
とは言っても、行かないわけにはいかないし、もちろん明日はやってくるわけである。
そうなると、いつまでもこうしているわけにはいかない。とりあえず仕方ないので、今日の出来事を順を追って考えてみようと思う。
まずは、起床だ。
朝があまり得意ではないわたしだが、今日は比較的すんなり起きられた。もしかしたら、無意識のうちに緊張していたのかもしれない。
それから朝食に、いちごジャムをぬったトーストを一枚と、アイスティーを飲んだ。コーヒーも好きだが、どちらかと言えばわたしは紅茶党だ。
朝はあまり時間をかけられないので、マグカップにティーパックとお湯を入れた後、そこに多めの氷を入れてしまうというやり方で、アイスティーを作っている。
お湯を少なくして濃い目に淹れれば、適当に作ってもなかなか美味しいと思う。
次に歯磨きをして、化粧やら着替えやらを30分程度で終わらせ、予定通りに家を出た。
アパートから駅までは、だいたい歩いて15分だ。
予定通りに駅に着き、いつも通りの電車に乗り、昨日と同じように会社に着く。
そして、いつも通り自分と上司の机を綺麗に拭くところから始めた。そんなに汚れているわけではないのだが、少しでも気持ちよく仕事してもらえるようにと、今の部署に移動してからずっと続けていた。
それから、今日の予定の再確認など、細々した作業を片付けていると、上司サマが出勤してくる。だいたいわたしが出勤してから3,40分くらいのころだ。
扉が開く気配を感じて、立ち上がる。
“挨拶は微笑みと”が基本だ。あまりくだけ過ぎず、でも笑っていると分かる程度に口角を上げる。目元も不自然にならないように、しっかり笑う。
受付嬢時代に鍛えたこの微笑みは、普段冷たく見えるらしいわたしの印象を和らげると、概ね好評だ。
「おはようございます。社長」
部屋に入ってきた上司サマに、背中が丸くならないよう気をつけながら礼をする。
「おはよう、末木さん」
上司サマも、穏やかな笑みを浮かべながら言った。