1.前夜
26になる誕生日までひと月をきって少しの今日。
母親から今月11回目になる電話がかかってきた。
お風呂上りの髪を拭きながら、少しうんざりしつつ電話に出る。
用件はもう分かっていた。
彼女の決め手はいつもこれだ。
“約束でしょう? ちゃんと誓約書もとってあるんですからね”
今年に入ってから、幾度となく言い訳を考えてきたが、母はこういうところ頑固だ。
どんなにうまいことを言っても、決して頷かないだろう。
この歳にもなって、親に従うこともないのではないか、ということももちろん考えはした。
しかし、うちには兄弟がいない。
家を継ぐとしたら、わたしが家族を作るしかないのだ。
また、育ててもらった恩がある以上、あまり悲しませたくもない。
約束は約束だ。
仕方ない。腹をくくるか。
わたしは電話の向こうに聞こえないように小さくため息をついてから言った。
「分かったよ。なるべく早く仕事辞めて、そっちに帰るから」
本当に恋人はいないのね? という念押しに苦笑して、残念ながらと答えると、母は少し安堵したように息をはき、また連絡するからと言って電話を切った。
やりがいがあって好きな仕事ではあったが、とうとう年貢の納め時が来たようだ。
わたしは、先月から用意してあった辞表を、そっと鞄の中へ入れた。
見ないようにしていても消えるはずのないその封筒は、しっかりと机の奥に居座っていた。
「いっそ、なくしちゃえばよかったのに」
ついひとりごちたが、そんなことをしてももう一度書き直すだけということは重々分かっている。
それでも、感傷のようなものが胸に苦く広がっていくのが止められなかった。
明日わたしは、5年勤めた会社に辞表を提出する。
まだまだやってみたいことは色々とあったが、一度決心した以上、もう悪あがきするつもりはなかった。
だからせめて、円満に退社できればいいと思う。
さてさて。
いつも穏やかなわたしの上司サマは、一体どのような反応をくれるだろうか。
考えてみれば、彼が動揺したり驚いたりしたところを見たことがないのだ。
退職の記念に、ちょっとでも上司サマらしくない反応が見られれば面白いな。
そんなことを考えながら、わたしはベッドに入った。
決戦は、明日だ。