4.逃亡ならず―1
それからと言うもの、わたしは週末に限らず、何だかんだと丸め込まれては上司サマと食事に行っていた。
何故このような状況になってしまったのか自分でも不思議でならないのだが、本当に用がある時はあっさり引くし、翌日仕事がある時は気を遣ってか早く帰してくださるし、負担になっていないことが大きいのではないかと思っている。わたしよりも忙しいはずの上司サマが、どうしてこんなに構っていられるのか疑問ではあるが。
そんなことを繰り返すうちに、少し変わったことがあった。
まずは、上司サマの態度だ。
仕事中は何の変化もないのだが、仕事が終わった途端、わたしのことを“綺羅子さん”と呼び、甘やかすようになった。
もちろん甘やかすといっても、あの上司サマだ。デレデレしたり、ただわがままを聞いたりということではない。いや、そもそもわたしはわがままなんて言っていないのだけれど。具体的に何がどうなったとは言えないのだが、恋人に愛情を注ぐような……砂糖3割増しの雰囲気になったのだ。
認めたくないことだが、社長はどうやら本気で落としにかかっているらしい。
わたしは、上司サマの態度が演技だとまでは言わないが、わたしが好きなわけではないと思っている。
なので、未だに何故ここまで結婚しようとしているのかさっぱり分からないが、とりあえずそれは考えないことにしていた。
今は上司サマが本気だということと、それでもわたしの気持ちは変わらないことが分かっていれば良い。
しかし、このままでは少々まずい。
何故なら、根本的な気持ちは変わらないまでも、上司サマとプライベートでの付き合いがあることに、あまり抵抗がなくなってきたのだ。
これが2つめの変化だ。
わたしは男女間でも友情は存在し得ると考えている方なので、恋愛対象にみる事は出来なくても、人として惹かれ始めているようなのだ。
正直に言ってしまうと、上司サマと食事に行くのが楽しくなってきている。
これは、まずい。少々どころか、非常にまずい。
まさに上司サマの思う壺である。
“お互いに歩み寄る”という言葉を信じるとすれば、このままずるずると……考えるだけでも恐ろしい。
自分でも、どうしてこんな“良い話”を受け入れたくないのかよく分からないが、上司サマと結婚したいとは思えない……いや、結婚したくないと思ってしまうのだ。
となると、どうにかして諦めて貰わなくてはならない。
今日から9月だ。もう時間がない。
このままだと引継ぎも間に合わないかもしれないし、誕生日までに退職するとしたら、円満とはいかなくなってしまうだろう。
なんとも頭の痛い話である。
やはり、どれもこれも丸く収めるのは無理なのだろうか。
わたしは、そっとため息をついた。
出来れば自分の問題である以上自分で解決したかったが、いっぱいいっぱいだ。誰かに意見を貰いたい。
タイミングの良いことに、今日は久しぶりにちぃちゃんと食事をする約束をしている。上司サマが会食の後直帰するとのことで、早めに終われそうだったからだ。
“上司サマに憧れている友人”だったら話しにくかっただろうが、幸いちぃちゃんは社長の親戚らしいので、変な問題が起こることはないだろう。この前は、どうしてよりによってちぃちゃんが親戚なんだ!と思ったけれど、こうなってくるとむしろ良かったのかもしれない。
時計を見ると、今から行けば約束の時間に丁度良いくらいだった。
もう一度終わらせた仕事と、明日の予定をチェック……しようとして、金曜日だということを思い出した。
「1週間が早いなぁ……」
進んで欲しくない時ほど、時間は早く進むものである。
とりあえず今日は、久しぶりの友人との食事を楽しむことにした。
いきつけの半個室がある居酒屋に行くと、ちぃちゃんはもう席に座ってメニューを見ていた。
「おまたせ」
わたしが声をかけると、ちぃちゃんは顔を上げてにっこり笑った。
「久しぶり! 大丈夫、わたしも今来たところだから」
「そっか、良かった」
ちぃちゃんは基本的に嘘はつかないので、大丈夫と言ってくれる時は本当に大丈夫な時だと思っている。
「キラ、なに飲む?」
もう決めたらしいちぃちゃんが、座ったわたしにメニューを渡してくれた。
「うーん。……とりあえずビールかな?」
「おっけー、じゃあビール2つね。あとはおまかせサラダと、なに食べたい?」
「からあげ」
いつも通りの答えに少し笑いながら、ちぃちゃんは了解と言った。
わたしは居酒屋に来ると、いつもからあげを頼んでしまうのだ。家ではなかなか面倒で作らないからかもしれない。
その他に2,3品足して店員さんに注文したちぃちゃんは、一息ついておしぼりで手を拭くわたしに、大きな爆弾を落とした。
「ねぇ、キラ。どうして淳季さんと結婚しないの?」
「……え?」
一瞬なにを言われたのか分からなかったわたしは、半ば呆然としながらちぃちゃんを見た。
視界に入ってきたのは、にやにやと楽しそうなちぃちゃん。
これはカマをかけたわけではなく“知っている”顔だ。それもおそらく、結構細かいことまで……。そうでなければ、こんなに楽しそうにしないはずだ。
元々、ちぃちゃんには家の事情を話してあった。
たぶんその時の話と、今回どこからか知った情報を掛け合わせて、わたしに起こったほとんどの事を知っているのだろう。
確かに、今日相談するつもりではあったが、まさかちぃちゃんから言われるのが先だとは思わなかった。
ここは“それならば話が早い”と割り切るべきか。
苦笑したわたしに、ちぃちゃんも考えたことが分かったのだろう。ますます笑いを深めると、先を促すような視線をよこしてきた。
「話す。話すよ。今日はそれ相談しようと思ってたんだもん。でもちぃちゃん、誰から聞いたの?」
少しすねてみせる。
すると、今度はちぃちゃんが苦笑した。
「ごめんごめん。わたしが聞いたのは、おじ様……会長から。もう知ってるでしょ? わたしが社長と親戚だって」
むすっとしたままうなずくと、ちぃちゃんはバツが悪そうにしながら、わたしの頭をぽんぽんと撫でた。
「それで、なんでか昔から会長に目を掛けて頂いてて。よくお宅にお邪魔してるんだ。その時に聞いたの。あとは……」
ちぃちゃんはここで一度言葉を切った。
「あとは?」
首を傾げながら、先を促す。
「……社長本人からも、少し」
とてもとても言い難そうにしながら出された言葉は、わたしに少なくないダメージを与えた。
やっぱり外堀から埋めていく計画でしたか!?
ううと唸り、頭を抱える。
ちぃちゃんは再び優しく頭を撫でてくれた。
「ごめんね、キラ」
「ううん。ちぃちゃんは悪くない」
そうしているうちに、飲み物とお通しが運ばれてきた。
「とりあえずお腹すいたから……食べてから、話聞いてもらってもいい?」
わたしが言うと、ちぃちゃんは優しく笑ってもちろんと答えてくれた。




