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線香番の夜

作者: 唐橋史

ようやくとれた夏休みも前日で終わり、その晩のうちにはもう新たなご葬儀の予約が入った。寝ぼけ眼をこすりつつ事務所で正装に着替えた私は、すぐに1㎞ほど離れた場所にある斎場へと車で向かった。みればすでに駐車場には黒いワゴン車が止まっていて、消し忘れたヘッドライトに蛾の群れが集まっていた。ご遺体がもう到着していることに気付き、私はそのすぐ横に車を止めた。すると若い女性スタッフが駆け足で斎場から出てきた。彼女は助手席のドアを開けた。

「すぐに来てください」

 彼女は言った。私が車を降りると、外は前髪が額に張り付くほどの蒸し暑い夜の空気で満ちていて、追加の保冷剤をすぐに発注するようにと私は彼女に命じていた。

 斎場には告別式を行うホールと、ご遺族が控える広い和室があって、そちらのほうにすでにご遺体は安置されていた。ご遺体の前に背中を丸めて正座をし、食い入る様子でそれを見ているご老人の背中が目に入った。はげあがった頭に大きな鷲鼻で、目つきは鷹のようだった。痩せた体にぶかぶかの浴衣を着て、しきりに額の汗を袖口で拭っていた。神経質そうに何度も足を組み替えていた。

 私は、彼の横に座ると、両手をついてお悔やみと挨拶を申し上げ、名刺を渡した。彼は「ん」と言っただけで、私に一瞥もくれなかった。

 亡くなったのは彼の妻だった。長い病気療養のすえにこの世を去った。ご遺体はきれいで、頬にも紅が差していて、とても病気で亡くなったようには見えなかった。小柄でちんまりとした人で、胸の上に組んだ手などは子供のようで、とても愛らしいおばあさんだった。残された夫のほうは、元警察官だとスタッフから聞いた。眉間の深い皺を見て、なるほど、と私は思った。

 スタッフたちと通夜、告別式の打ち合わせをしていると、続々とこの老夫婦の子供たちが駆け付けた。最初は灰色のバンに乗った長男夫婦で、その息子と思われる中学生は、携帯ゲーム機をいじりながら斎場に入ってきた。長男は細い銀縁のメガネをかけてスーツを着こなしたひとだったが、その嫁のほうは上下とも黒いスウェットで、下の子をだっこしたまま眠たそうにしていた。長男はすぐに父親に声をかけたが、父親はやはり「ん」としか言わなかった。

 次に真っ赤な外車でやってきたのが次男で、久々に故郷に帰ってきたのか、斎場に入るなり、長男に怒鳴られていた。彼はへらへらと笑ってそれを誤魔化していたが、母親の遺体に対面するなり、わっと突っ伏して泣き始めた。しかし、それでも父親は「ん」と言って、その場所を動かなかった。

 最後にやってきたのが、娘だった。彼女はタクシーでやってきた。料金を支払うと、釣りはいらないからと言ってすぐに、斎場に駆け込んできた。彼女は携帯電話を片手に「すぐ帰るからごはんは食べていて」と、彼女の夫や子供たちに伝言をしていた。そしてその電話を切ると、すぐに父親のそばへ行き、その手を握ろうとしたが、父親のほうは素っ気なくそれを引っ込めてしまった。やはり一瞥もくれなかった。

 喪主は長男が務めることとなり、私たちスタッフは、別室で彼との打ち合わせに入った。「料金はかけず、極力地味に」というのが、彼の希望だった。彼はずっとカタログに目を落としたまま、何度も何度もメガネを小指で押し上げて、徐に携帯電話を取り出しては、その中の電卓機能で予算を何度も計算しなおしていた。私たちが、花輪や献花を進めると、「いりませんので、そんなもの」と、即答するのだった。

 そのとき、怒鳴り声が聞こえてきた。

 驚いた長男が部屋を飛び出していったので、他のスタッフはその場に残し、私もそのあとについていった。

 見れば、ご遺体の前で、老いた父親は仁王立ちになって、顔を耳まで赤くして、荒い息をついていた。彼は、次男を睨み付け、ついに拳を振り上げようとした。長男と娘が止めに入ると、今度はその手を乱暴に振り払い、かなわないと見るや、その場にどっかと腰を下ろして、「はあ!」と、荒々しげな溜息をつき、天井を見上げた。顎の下から汗が滴っていた。

 次男のほうはというと、金のネックレスを片手でもてあそびながら、ふてくされた様子でやはり天井を見上げている。長男が問いただすと、父親そっくりの溜息をついて、こう言った。

「兄貴だって期待して来たんだろ。母さんの遺産」

 すると、娘のほうが、長男に対し、

「母さんの名義で持ってた土地のことよ。父さんが、絶対譲らないなんて言い出すから」

 これを聞いた長男は、静かに父親の隣に腰をおろし、顔をのぞき込むようにして、どういうつもりなのかと尋ねた。しかし、父親は薄い唇を噛みしめて答えない。鶏ガラのような首筋を、何度も何度も伸びた爪でかきむしった。

 そのとき、部屋の隅に座っていた長男の息子の携帯ゲーム機から、けたたましい音量でメロディが流れ始めて、その母親がこれをたしなめた。息子は慌てる様子もなく、無造作にゲーム機の電源を切って、自分の通学用鞄の中に投げ込むと、

「大変だね。これで借金返そうとしてたのにね、お父さん」

 と、言い放ち、そのままトイレへと行ってしまった。

 老いた父親は顔をあげた。

「そうなのか」怒りで目が充血していた「そうなのかと聞いているんだ」

 これに長男は答えなかった。嫁は廊下で赤ん坊をあやしている。こっちにはずっと背中を向けている。

「どいつもこいつも!」

 父親は大声をあげた。

「家も継がずにどこの馬の骨ともしれない女と駆け落ちしたくせに、何が遺産だ。二番目はいつまでもふらふらして、挙げ句に男同士で結婚するとか言い出す始末だ。娘が頼みの綱と思ってみれば、何がワーキングマザーだ、忙しいの一点張りで一度も母さんの見舞いにも来やしない」

 長男が拳を握りしめて立ち上がった。これには、私たちスタッフが止めに入った。女性スタッフが彼を何度も宥めたので、ようやく黙って腰をおろした。そのとき、中学生の息子が鼻歌まじりでトイレから戻ってきたものだから、老いたその祖父はいきなりそれを怒鳴りつけた。

 正直、こういうことは、我々の業界では少なくない。私は別室に長男夫婦、もうひとつの部屋に次男を案内して休ませようとした。しかし、彼らは、まだ父親と話すことがあるというふうに、粘り強く父親の前に座って動こうとしない。

 鉛のような時間がねっとりと過ぎていく。聞こえるのは、窓の外の蛙の鳴き声と、虫除けに焚いている電動式の蚊取り線香のモーター音だけだ。

 だが、まもなく、老いた父親が静寂を破った。

「遺産は、全部、タダシに遺す。わしのも、母さんのも含めて、全部だ」

「タダシ?」

 子供たちが一斉にお互いの顔を見合わせた。長男の嫁の赤ん坊がぐずり出す。女性スタッフが預かろうと声をかけたが、彼女はそれを無視して、騒ぎのほうに耳を傾けていた。

「誰よ、それ?」

 娘が怪訝そうに尋ねると、父親は向き直って、テーブルの上に置いてあった最中の袋を破ると、中を取りだしそれを片手で口の中に放り込んだ。何度かねばねばと口を動かしてから、彼は言った。

「お前たちの兄だ」

 これには、長男が素っ頓狂な声をあげた。次男も真っ青になって詰め寄った。しかしもう、父親はじっと口をつぐんで答えない。浴衣の袖で、口についたあんこを乱暴に拭い取って天井を見上げた。

「誰に産ませたの、信じられない」

 娘は立ち上がってそう呟いた。目に涙を浮かべて首を振ると、携帯電話を取りだして、夫にすぐに迎えにくるようにと言った。それを聞いた次男は、ジーパンのポケットから車の鍵を取り出して立ち上がった。長男はただその場でうなだれていた。再び赤ん坊がぐずりだしたので、嫁は夫から車の鍵を受け取ると、駐車場に止めてある灰色のバンへと戻っていった。それを見た中学生の息子もそのあとについていった。一瞬だけ、力なく座り込んだ祖父のほうを見た。しかし彼は母親に呼ばれると、前髪をかきあげながら、車の中へと戻っていった。室内灯が付いて、中で何か会話してるのが見えた。

「50歳もとうに過ぎてから、兄貴の存在を知るなんて」

 そう言うと、長男は力なく立ち上がった。そして、やはり同じようにそこに立ち尽くしていた次男の肩を叩くと、次男はふと正気を取り戻したようになって、兄に促されて部屋を出て行った。やがて、駐車場のほうから、車のエンジン音が聞こえてきた。

 父親は、ますます背中を丸め込んでいる。呆然と妻の遺体のほうを見ている。しかし、その目は焦点があっていない。虚空を見つめたままだ。浴衣の襟ははだけ、帯もゆるんでほどけかかっていた。

 私は給湯室へ行くと、熱いお茶を入れた。目が覚めるほどに濃いお茶だ。私はそれを茶托にのせると、そっと戻ってテーブルの上に置いた。しかし、老いた父親は、こちらを振り向こうとはしなかった。私はスタッフたちに言って、引き続き、長男に連絡して告別式の段取りを決めるよう命じた。そしてそれはできるだけ、この老いた彼の耳に入らないようにして進めるように言った。

 しばらくして、彼はラジオはないか、と、私に尋ねてきた。私は、倉庫に防災用の大きな古いラジオがあることを思い出し、これを持ってきて、テーブルの上に据えた。すると、彼はそれをじっと見つめ、チャンネルを回し始めた。しかし、蚊の鳴くようなかすかな雑音ばかりで一向に電波が入らなかった。

 私は彼に向き直ると、再び、明日からのスケジュールを確認したあと、彼の希望などを手持ちのファイルにメモした。

 私は、尋ねた。

「ところで、タダシ様は?」

 彼の鷹のような目がぎょろりとこちらを向いた。白くぼさぼさになった眉毛がわずかに動く。私は極力、心を無にしようと努めながら、

「お通夜にはいらっしゃいますか?」

 と、通り一遍の実にビジネス的な質問をした。すると、彼は、突然、手足を投げ出し、大の字になってその場に寝転がった。

「来ない」

 彼はそう言うと、まるでどこか清々したとでもいうように、風呂上がりのような溜息を何度もついた。投げ出された手足は細い。日焼けして黒ずんだしみの多い肌に、青い血管が浮き出ていた。何十年も使った革製品のような光沢を放っていた。彼は言った。

「タダシは、一ヶ月しか生きられなかった。栄養失調でね。玉音放送の次の日だった」

 彼はぼんやりと天井を見ながら、

「次の日だったんだよ、次の日だったんだ」

 と、繰り返した。

 駐車場から怒鳴り声が聞こえてきた。長男の運転するバンが発進するときに、次男の赤い高級車をこすったらしい。二人の大声が、熱帯夜の湿った風にのってこちらまで届いてきた。


 

 

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