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何十回目かの春が来た。
いや夏か、秋か、冬か……それとも違う季節なのか。
季節などもう『大きいヒト』にはどうでもいい事となっていた。
むしろ自動的にこなす仕事を、天候などの差で乱す邪魔な存在と化していた。
今日も『大きい人』は田畑を耕す。あまりにも小さな実を大きな手で丁寧に収穫する。
もうどれくらい昔から、これを毎日繰り返しただろう。
今日も畑のそばにある集落からは『小さいヒト』の楽しげな声が聞こえ、若い娘達が優美な舞いを拾うし、それにあわせて若い男が楽器をかき鳴らしていた。
初めて『小さいヒト』と暮らし始めた頃はすぐによってきた子供達だが、今はまるで興味を示す事は無い。いつのまにか『大きいヒト』という存在は、風景にも等しくなっていた。
とりあえずそこにいる。とりあえずそこに在る。それ以上でも以下でもない。
在るというにはあまりにも空虚な存在と化していた。そして、自分の置かれた立場の異変を知り始めた頃から、『大きいヒト』は出口の無い物思いを繰り返すようになっていた。
最初こそ出口など見えない。けれど何度も繰り返せば、例えそれが勘違いであっても出口らしきものはいずれ見えてくるもので。ついに『大きいヒト』も出口の傍まで来ていた。
――違うのか。もう違ってしまったのか。わからぬ、何もわからぬ。どこで我々がズレてしまったのかわからぬ。あの頃に見た未来は、ただのまやかしだったのか。いや、そんな事は無かったはずだ。あの時は確かに、我々は『仲間』となったはず。そうだともそうに違いない。
クワを地面に突き刺す。傍目には休憩に見える。そのわずかな間に、『大きいヒト』は混乱しつつある自分を何とかするために、とにかく落ち着くように言い聞かせようとした。
けれど心に向き合えば向き合うほど、考えを動かせば動かすほどに。
湧き上がってくるのは疑念。そして悲しみと怒りだった。
――だが何ゆえだ。例えそうだとしても、例えそうだったとしたならば。どうしてあまりも寂しく静かで冷たいこの場所に、わたしはたった一人でいるのだ。他の仲間はどこに、どこに行ってしまったのだ。あぁ、まるで『違う』ではないか。何もかもが『違う』ではないか。
ぐるりぐるりと回るだけの自問自答が続く。
ちらりと見た集落。自分が去っても気付かなさそうな世界。見ているだけで虚しく、どうして彼らと共に生きる事を選んだのか、忘れてはいけないのに忘れてしまいそうになっていく。
誰も気が付かないズレが、そのたびに大きくなった。
そう、誰も気づくはずがない。誰もが、そう本人でさえ思っていた。
それは『大きいヒト』と名付けられたそれは常に『使役される』存在で、神でもなければ本来は対等ですらないと。誰一人として気づかないが、誰もが気付き始めていたのだった。
――そうか、そうか、そういう事か。わたしはなんと愚かだったのだろう。結局、わたしはどれほどの時間を越えても『使われる』存在。ヒトと同じにはなれぬ。その証拠がかつての仲間たちの姿ではないか。あれを対等と、仲間と呼べるはずが無い、呼ぶ事などできはしない。
ついに『大きいヒト』が気付き、その瞬間に何もかもが夢のように砕け散った。
――なぜだ!
唐突に響き渡り、木々を、水面を、大地を揺らす音。
それは、むせび泣くような絶叫だった。
絶叫にして、嘆きだった。
その衝撃に『小さいヒト』の多くが地面を転がり、倒れ、突然の事に彼らは戸惑う。
しかし、すでにもう終わっていた。何もかもが終わっていた。
――どうしてだ、どうしてなのだ。あの時は、そう知り合ったあの時には。こんな未来など微塵も推測できなかった、可能性さえ見当たらなかったはずなのに、なぜだ!
大地を揺らし、『大きいヒト』は嘆いた。目を覚ましたあの時に描いた新しい人生を打ち壊された絶望と怒りに身を委ね、まるでかつての『小さいヒト』のように荒れ狂った。
荒れ狂う姿を恐れた『小さいヒト』は、かつてのように神と呼んで必死に祈りを捧げた。
身のうちから際限なく湧き上がる怒りを振りまき、それでいて強きものにひれ伏すことしかできない、あまりにも弱い『小さいヒト』を哀れむように、『大きいヒト』は叫ぶ。
――我らは常に対等な関係なのだと信じていたのに。上下関係など無いと、そう思ってくれていると信じていたのに。またもわたしを神と呼ぶのか、神と呼び蔑むのか貴様らは!
それでも『小さいヒト』は祈るのをやめなかった。それはまるで命乞いのようで、そう思った瞬間に『大きいヒト』の中から迷いも、彼らとの幸せな思い出も消え去ってしまった。
――今更、神と崇められてもその言葉に意味は無い。もうわたしは終わった。わたしのすべては終わってしまったのだ。これ以上、わたしという存在を穢すな!
一度激しく火が付いた思いは、そして暴れ狂ったその心は、聞きなれた声の叫びが上がろうとも止まらない。幾重にも重なる悲鳴の演奏会。それに合わせて舞うのは娘ではなかった。
地面を揺らし踏み荒らす。かつて自分が整えた集落の広場を。
手当たり次第に叩き壊した。かつて自分が作った家を。
掴んでは千切り捨てた。かつて対等だと信じた『小さいヒト』を。
そうして狂乱の一夜が過ぎて、残されたのは泣くように咆哮する『大きいヒト』と、荒れ果てた田畑や家屋、そして四肢を引き千切られ肉塊と化した『小さいヒト』だった。
一人になった『大きなヒト』は、足元に子供が転がっているのに気が付いた。それは自分に舞を見せてくれたあの娘によく似た、彼女の孫に当たる少女だった。
少女は泣いた。母を、祖母を、家族を求めて泣いた。けれどもそれは『大きいヒト』が踏み荒らした一面の赤い肉塊に埋もれて消えて、その残滓さえ見つかるとは思えなかった。
少女は泣いた。泣いて泣いて、飢えて死ぬまで泣き続けた。
そんな光景を『大きいヒト』は黙ってみていた。救う事も無く、かといって一思いに楽にする事もしないまま、風景を眺めるように物思いに耽るように、小さな命が散るのを見ていた。
泣き声が聞こえなくなってから、『大きいヒト』はついに動き出す。
ゆっくりと、地面をかすかに揺らしながら、ひたすら前を目指して進んでいった。
そしてその姿は山の向こう側へと消えてしまい、残されたのは腐りかけるか獣に食い荒らされた死肉だけだった。それさえもあっという間に消えて、集落は跡形も無く消えた。
それから『大きいヒト』がどこへ行ったのか。
記し伝えるモノはいない。