スタンプラリーという娯楽に見合わない期待以上の報酬と結果
「花見香子スタンプラリー……なんだこれ」
夜七時過ぎ。大学から帰って自宅。
郵便受けに一枚の小さなカードが入っていた。厚紙製、ドラッグストアのみたいなスタンプカード。
なんかのキャンペーンかなあ、ふーんと適当に見ながら、帰り道で買ってきたコンビニ弁当をちゃぶ台に置き、ぼふんと座布団に座る。テレビをつける。
花見香子スタンプラリー。丸文字っぽいフォントで横書きされていて、その下にスタンプを押す四角い欄が三つ。……三つ?
「えー、難易度低っ」
誰に言うでもなく独り言。弁当を袋から取り出して開ける。今日はのり弁。割り箸ぱりっと割りながら考える。そもそも花見香子って誰だ。なんか、聞いたことある気がする。ちくわ天一口かじる。誰だっけ。タレント? 女優? 違うな。もっと身近で聞いたことあるような。ごはんをかっ込む。誰だっけなあー。結構もやもやしてきた。携帯開く。電話帳開く。一通り見てみる。いないか。いないよなあ。柴漬けを口に放り込む。ぽりぽり。誰だっけ。うーん。困ったときの人頼み。助けて蔵泉(友達が多い)。
「花見香子って誰か知ってる?」
メール送信。うーん。ごはんをまたかっ込む。ちくわ天を完食。ぶぶぶ。震える携帯。
「三年。美人。西洋美術史の講義にいる」
業務連絡みたいなメールだなーと思いながら「ありがと」とシンプルな返事を送信。そうか。美人だ。なんか誰かが噂してるの聞いたことあったかも知れない。三年ってことは僕の二つ上。西洋美術史って明日あるな。そっかあー。美人の先輩かあー。ちょっともやもやが晴れた。
で。
スタンプラリーってなんだ。
* * *
「あれだよ、あの、エロっちい格好した人」
教壇の上で教卓に手を付いて教授がゴッホじゃールノワールじゃーと喋る七〇二教室。
僕と蔵泉は教室の後部に並んで座り、こそこそひそひそしていた。蔵泉がシャーペンの先で指すほうを見る。僕らの四列ほど前。女の子が四、五人固まって座っている。
「エロっちい格好……ってどれ」小声で尋ねる。
「一番エロっちいのだよ」メガネをちゃかっとずり上げる蔵泉。
「一番、って言われても、それは人それぞれものさしがあるし」
「ごちゃごちゃうるさいなお前。あれ。背中ぱっくり開いてるの着てる人」
「なら最初っからそう言ってくれれば」
そうか露出度=エロっちさなんだな蔵泉的には。うーん、僕としてはどっちかっていうとその隣の隣の白ワンピの子のほうになんていうか清純な清純ゆえのエロっちさをうんたらかんたら、頭の中でぶつぶつ垂れ流しながら、改めて、花見香子を見る。
隣の子と何やら喋る横顔。あー、確かに美人。鼻が高くて、目もくりっとしてて、髪はあれ地毛? 赤茶っぽい髪色。全体的に日本人離れタイプの。それに加えて背中ぱっくり。挑発的な? わかんないけど。隣で蔵泉が補足説明を始める。
「花見さん、あれ、男喰いらしいぞ」
「オトコグイ」片言でリピートしてみる。
「先輩後輩果ては教授まで、めぼしいのはあらかた食ってるとか」
「アラカタ」片言リピート。
「しかもSMとか、結構アブノーマル的なプレイも好きらしく」
「アブノーマル」リピート。
「ちなみに今現在、判明してるだけでも七股だ。男との揉め事は日常茶飯事らしい」
「ナナマタ」もう妖怪の名前みたいだ。猫又の進化系。
はー。しかし。
怖。
大学入学半年目にして、もうなんというかこう、大学の暗部を見たような。大人の世界。高校とは違う。ふと、花見香子と目が合った、気がした。う。確かに、美人。大人っぽい。あれで男喰い。うーん。喰われてみ(たい)、いや、うーん。どうかなあ。隣の蔵泉がちゃっとメガネをずり上げながら小さく。
「ちなみに俺は喰われた」
「えっ」
それから、西洋美術史が終わるまでの数十分。僕はじっくり蔵泉が喰われた体験談を拝聴した。うーん。大人。
* * *
講義のあと、僕は一人、教室に残っていた。
席に座ったまま、スタンプカードを取り出し、裏側を見る。そこには小さく、手書きの文字。
「七〇二教室、前から七列目、左から二席目」
小さく読み上げてみる。読み上げて、少し深呼吸する。
七〇二教室って、つまりここだ。
そして今、僕は、書いてあるとおりの席に座っている。講義の前、教室に入ったときから、実は狙ってその指定の席に座っていた、ずっと。
でも、特に何も変わったことはない。花見香子から何か接触があったわけでもない。講義が終わって、すぐに彼女は友達らと一緒に教室から出て行った。目も合わなかった。うーん。わからない。講義が終わってかれこれ二十分。ずっと座ってみてはいるけど、特に何も変化も進展もない。うーん。わからない。
……帰るか。
スタンプカードをポケットにしまおう、として、ふいっと落としてしまう。机の下に。屈んで拾おうとしながら、でも別に義理固く拾う必要もないよなあ、何をどうするなんのカードかもわからないのに、と考えながらでもやっぱり拾おうとして屈んでしまっている自分。
と。
ふいっと視界に入った机の引き出し、引き出しじゃないけど、なんというかあの物を入れる狭いスペース、に。
赤い、何かが見えた。
カードを拾う。拾ってから、その赤い何かを掴み、引っ張り出す。
「わ」
下着。
女性ものの、下着だった。しかも上下セット。つまり、ブから始まるほうと、パから始まるほうのセット。どっちも真っ赤。真っ赤ですべすべ。どうしよう。どうしようというか、え? え、なんだろうこれ。スタンプカードの裏面「七〇二教室、前から七列目、左から二席目」の字を見て、赤い上下セットを見て、それからまたスタンプカードを見て、繰り返す。と。
何か小さな、筒状のものと二つに折られた紙切れが、ぽとりとと床に落ちた。下着の中(パから始まるほう)に挟まってたらしかった。また屈んで、紙を拾い、何か小さなもの、も拾う。拾って、拾ったり出てきたりしたもの全部を一度机の上に並べてみる。
何か小さな筒状のもの、の正体。
「……はんこ?」
正式名称はわからないけど、朱肉なしで使える、簡単な印鑑みたいなゴム印だった。
「スタンプ、あ」
スタンプ押せるんだこれで。気づいて、なんだかわからないけど少し嬉しくなる。よし早速。スタンプカードを広げる。と、教室の外、少し遠いところから話し声が聞こえる。近づいてくる。やばい、と思った。いや、何もやばいことなんてないんだけど……いや、ある。
下着。上下。真っ赤。を机の上に広げてる、僕。
* * *
自宅。夜。
ちゃぶ台の上には、スタンプカードと、はんこと、二つに折られた紙切れと、下着上下セット。
……持って来ちゃった。
つい、いやほんとに、出来心で、いや違う、持ってくる気なんてなかったんだけど教室に近づいてくる声を聞いて、つい慌ててポケットに、うん、事故で、事故事故、うん、と誰に言うでもなく、あえて言うなら自分の良心に対して脳内で言い訳をし続ける。それにしてもこれって。
花見香子の、下着なんだろうか。……と考えて、はっとして、ぶんぶんぶんぶん頭を振る。
「スタンプ! スタンプ押そう、うん。スタンプ」
誰に対して言うでもなく、独り言。
手早くはんこのキャップを外し、カードを開いて、一番左の空欄にゆっくり押していく。はんこを離す。
そこには、赤く、「あ」というひらがな一文字。
「あ」
声に出してみても、全然意味はわからない。三つ全部押したら意味がわかる、とかだろうか。きっとそうだろうなあ。あーもやもやする。今まであんまり自覚なかったけど、僕はこういうものに結構もやもやしてしまう性格らしい。あー気になる。続きが気になる。
「あ」
再度、あ、と声に出す。思い出して言う「あ」。そうだ。紙切れ。中、まだ見てない。折られた形状から言って多分、何かメッセージ的なものが書いてあるはず、という勝手な憶測。そのノートの切れ端みたいなそれを、ゆっくり開いてみる。
「大学前のセブンイレブン、電話ボックス」
それだけ。
……次のスタンプだろうか。
花見香子スタンプラリー、だし。
ふつふつと湧き上がる、好奇心。好奇心。好奇心。
「……」
* * *
自宅アパートから大学までは徒歩十分。その近さだけで今の家を選んだ。そして最寄りのコンビニは大学前のセブンイレブン、同じく徒歩十分。これはちょっと遠い。自転車買おうかなあとぼんやり考えながら歩いて、歩いて、到着。携帯を見ると時刻はもう夜八時。
ポケットの中に入れた紙切れとスタンプカードをズボンの上から押さえながら、電話ボックスを探す。探すまでもなく、電話ボックスはこの辺に一台しかない。セブンイレブンの前、駐車スペースの脇に、ぽつんと佇む青緑色の照明が灯ったそれ。に、近づき、なんとなく周囲をきょろっと確認してから、ドアを開け、中へ。
次のスタンプはすぐに見つかった。
電話の上に、ちょこんと乗っていた。例のはんこ。
そして、はんこ以外にも、置いてあるものがあった。二つ。
一つは、紙切れ。二つに折られたノートの切れ端。
そしてもう一つは、正方形で、平べったくて、中が円形に盛り上がっている、
「コン」
ドーム。
コンドームだった。
いや、あー、コンドーム。使ったことはない(いや避妊しないっていうクズ男的な意味じゃなくて普通にただただシンプルな意味で、使ったことないっていう)けど、見たことはあるし、一応、持ってる(高校んとき財布の中に入れてたけど特に意味がないのでもうやめて今は引き出しの奥のほうで眠ってる)。
下着、コンドーム。
下着、コンドーム。
下着、コンドーム。
ダメだ、なんかわけもわからずドキドキしてきてる。
気持ちを落ち着かせるために、スタンプカードを広げて片手で電話に押し付け、はんこのキャップをはずして、「あ」の一つ隣の欄に押す。押す。押す。じわっとはんこを離す。
「げ」
げ? 二つ繋げて読んでみると。
あ、げ。
まだ意味がわからない。残る空欄はあと一つ。あ、げ、○。何が入るんだろう、とあれこれ考えながら僕は、そうすることが当然のように、折られた紙切れを広げた。
「七〇二教室、前から七列目、左から二席目」
……ん?
これ、見たことある。スタンプカードを裏返す。そこには、「七〇二教室、前から七列目、左から二席目」の文字。
同じだ。
また?
と、ふと顔を上げると、スーツ姿の男性が電話ボックスの前に立っていた。立って僕を見ていた。え、待ってるの? え、この時代に? 電話ボックス使うの? 時代錯誤感に軽く驚きながら慌てて電話ボックスから出る。
コンドームは、ポケットに入れた。とりあえず。
(ちなみにスーツの男性は、電話ボックスの中の僕を見てたんじゃなくて、ボックスに貼ってあるちっこいピンクチラシを見てただけだった、ってことに後で振り返って気付いた。どうでもいいけど)
* * *
夜八時半過ぎ。この時間帯に大学に入るのは初めてだった。
とりあえず感想としては、暗かった。いや、明るいところもところどころあったけど。人もまばらにいたりいなかったりで、静かで、落ち着いていて、微かに空気がきんと張っているような、そんな感覚だった。
七〇二教室、前から七列目、左から二席目。
今日、真っ赤な下着を取り出した席。そこにまた、僕は座っている。
教室には僕以外誰もいない。
電気はつけなかった。他の誰かに見つかっちゃいけないような気がしたからだ。なんだか、なんとなく。
僕は教壇のほうをまっすぐ見たままで、ゆっくり、机の中に手を入れる。手で触れた感触。小さな筒状のものと、紙切れと、あと一つ、何かがあった。全部、掴み、引っ張り出し、机の上に置く。
はんこ。
折りたたまれた紙切れ。
そして。
「……縄」
荒縄、と言うんだろうか。がさがさした手触りの、長い縄。
下着、コンドーム、荒縄。
オトコグイ。
アブノーマル。
ナナマタ。
頭の中でぐるぐる蔵泉の言葉が廻り廻る。
なんか、こう、もう、言い逃れようのないくらい、大人な世界のにおいがぷんぷんとしてしょうがなかった。すごく、アブノーマルな。下着、コンドーム、荒縄。さっきからずっと汗が止まらない。
……あ、そうだ。
スタンプ押そう。
これにもう何の意味があるのかわからないけど、僕はほとんど機械的に、はんこのキャップを外し、「あ」「げ」の右隣にゆっくり、力いっぱいはんこを押して、ゆっくり、ゆっくり離した。
「る」
あ、げ、る。
「あげる……」小さく呟く。
あげる。
まあ、そりゃ、「あ」「げ」ときたら「る」だろうなあーとはなんとなく予想はしていたけど、でもそれにしても、改めて本当にあげるって言葉が完成したのを見てしまうと、胸の奥のほうが妙にぞくぞくしてくる。あげる。あげる。何を? ポケットの中にはコンドーム。家には真っ赤な下着。あげる。……何を?
紙切れ。
二つに折りたたまれた紙切れを、ゆっくり、広げてみる。
暗い中、目をこらす。
「七〇二教室、教卓の裏」
思わず顔を上げる。
教壇。その上には教卓。その教卓の……裏。
裏に、何があるのか。
花見香子スタンプラリーのゴール。
下着、コンドーム、荒縄。
今日講義中に見た花見香子の顔、姿が思い浮かび、頭がぐらぐらした。
で。
気がつくと、僕は立ち上がっていた。手に荒縄を持ち、ポケットの中からコンドームを取り出して。
非日常。
もう、なんだか全部非日常だった。この荒縄とコンドームでこれから教卓の裏にいる何と――誰と、どうなるのか、全部全部全然わからない、けど、もうなんだか頭の中は真っ白で、講義中に聞いた蔵泉が花見香子に喰われた話とかをありあり思い出しながら、自分の心臓の鼓動をはっきりと聞きながら、一歩、また一歩、教壇へと近づいていく。花見香子スタンプラリー。花見香子スタンプラリー。花見香子スタンプラリー。それだけをただひたすら考えながら、教壇にたどり着く。そっと、足音を立てないように、壇上へ上がる。一度、教室の中を見回して、誰もいないことを確認して、ぐっと喉に力を入れて、唾を飲み込んで。
教卓の裏を見た。
「…………え」
花見香子がいた。
予想どおり、と言えば予想どおりだった。
でも――予想どおりじゃないことが、三つあった。
一つめ。花見香子が、全裸で仰向けに寝ていたこと。
二つめ。花見香子が、息をしていなかったこと。
三つ目。花見香子の、首に、縄で絞められた跡があったこと。
死体。
スタンプラリーの、ゴー、ル?
思い出す、スタンプカードに完成した言葉。
「あげる」
え。
あげる、って、え? ……これを?
「え、いら、ない」
口から思わず出た独り言。
手に荒縄を持ったまま、花見香子を見下ろし突っ立つ僕。
教室の外から、うっすらと話し声が近づいてくるのが聞こえた。
頂いたお題「東京伝説やトリハダのようなガチホラー」ということで、完全に意識しきったものになりました。