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断罪された負け悪女に転生したので、辺境に君臨する最強悪女を目指します! ~ついでに不遇な領地を救ってやり返します~

作者: 汐乃 渚
掲載日:2026/09/19

貞操観念などがほぼない、魅了タイプ悪女のお話です。

倫理観や恋愛観に苦手な要素がある方は、キーワードなどもご確認いただいた上でお進みくださいませ。


※こちらは長編連載中の『堕ちた悪女は辺境に君臨する』を短編としてまとめた作品です。ネタバレを含みますのでご注意ください。

※この物語はすべて創作上の世界観・人物によるフィクションです。



面白みのない人生で、面白みのない結末を迎えた私の転生先は――なんと『悪女』だった。


それも既に断罪された後の、悪女の成れの果て。

負け悪女とでもいおうか。



エラディア・ヴェルミリオン公爵令嬢。

彼女を一言で表せば、匂い立つ魔性の女だろう。


妖しく輝く深紅の瞳に、緩く波打つ濃紫の髪は、生まれ持った強大な魔力の証。

人々を魅了する美しい顔立ちに浮かぶのは、蠱惑的な表情。

深窓育ちの白い肌と、豊かな曲線を描くしなやかな肢体。

その姿は異性のみならず、見る者すべてを惹き付ける抗いがたい魅力を備えていた。


簡単な魔力運用程度しか教わっていないにもかかわらず、魔術にも才覚を発揮し、身体強化や破壊系魔術を見事に使いこなす。

優美で妖艶な彼女が時折見せる苛烈な面ですら、魅力の一つとして数えられた。


全てを兼ね備えていたエラディアは、愉しいことを求めた。

大勢の人間に囲まれた、退廃的で享楽に満ちた日々。


対して、高貴な血や地位に付随する責任を、何よりも疎んだ。

自らを何かの犠牲にすることは許せなかった。



稀代の悪女として君臨した彼女は、かつて婚約者だった王太子セレヴィオとその新しい婚約者候補の侯爵令嬢アリエレットによって捕らえられ、敗北し……そして断罪された。

これまでの傲慢で奔放な彼女の生き方が、とうとう正義感が強く清廉な彼らの許容範囲を越えてしまったのだった。


並べられた罪状は背徳行為の助長に始まり、犯罪教唆に禁制品の密輸、人身売買への関与。

そして極めつけは、強大な魔力を用いた殺人未遂。


どれもエラディアにとっては真実とは程遠い罪状だったが……これまで父親として彼女の起こす問題を拭い続けてきたヴェルミリオン公爵は、家門を守ることを優先した。

結果――エラディア・ヴェルミリオンは王城の広場で、衆目に晒されながら裁きを受けた。



豊かにうねる濃紫の髪が、乱雑に切り落とされる。

粗末な囚人服の背を力任せに裂かれ、そこへ何度も、鞭が重たく振り下ろされた。


沸き立つ観衆の熱気に晒されながら、見る影もなく痛めつけられた後、エラディアはその身に宿す強大な魔力を筆頭魔術師によって封じられた。

左胸に刻み込まれた術式は、エラディアが魔力を使おうとする度、ぼんやりとした光を放ちながらその身へ耐え難い激痛を与えた。



王太子を筆頭とする連中は、エラディアを『悪女』だと断じたが……彼女にとって、狂っているのは彼らの方だった。

エラディアはただ、自分の望むように生きただけ。


けれど彼女は断罪によって命を落とすことも、これまでの生活を続けることも許されず――居場所を奪われた。


父であるヴェルミリオン公爵は、最後の恩情とでもいうように、娘の結婚相手を見繕ってみせた。

実際は、困窮した辺境領主への多大なる支援を引き換えとした、体のいい厄介払いだった。



憔悴したエラディアが送られたのは――魔物が跋扈する呪われた辺境領地、ノワジア。


頭上から圧し掛かってくるような、鈍く沈んだ灰色の空。

長大な暗色の城壁の中心にそびえる、無骨な城砦。

まるでどこへも逃れられない、冷たく薄暗い監獄のような場所だった。


その主である夫予定の男に冷たくねめつけられ、エラディアの精神は限界を迎えた。


壊れたのではない。

けれど湧き上がる紛れもない怒りと拒絶の炎に晒され、彼女はいつの間にか擦り切れてしまっていた。



――なんて鮮烈な生き様なのだろう。


気づけば私は、エラディアに魅せられていた。

ただ生きるために生きただけの冴えない異世界での記憶に比べれば、彼女の人生は眩い刺激に満ち溢れていた。


奔放で、傲慢で、享楽的で、退廃的で――周囲を翻弄するくせに、誰のことも愛さない、魔性の女。

一人で痛みを抱え続けた強さや気高さを、私は知っている。

堕ちてもなお、美しく君臨している。


敗北は、エラディアを大きく傷つけた。

けれどまだ、終わってはいない。

再起の芽は、十分に残っている。



濃紫と深紅が混じり合う不思議な空間で、私は彼女の魂を見た。

傷に霞む、薄れて透けてしまった光の欠片。


このまま、終わらせたりしない。


断罪された負け悪女だろうが、構わない。

彼女の魂が癒えるまで、私が居場所を作ってみせる。


また、新しく始めよう。

無理に変わる必要なんてない。

エラディアが、エラディアらしく生きられるように。


今度はもう、誰にも咎めさせたりなんてしない。



――そして、私のエラディアとしての人生が始まった。



***



「貴女と結婚したのは、公爵家からの申し出を断れなかったからだ。夫人として遇しはするが、俺は貴女を愛するつもりはない」



初夜だというのに、そんなお約束の台詞を口にしたのは、夫となったばかりの男だった。


――カイラン・ノワジア。

齢三十にも満たない辺境伯でありながら、自ら騎士団を率い魔物の討伐実績を誇る精悍な武人でもある。


出迎えの際には野獣じみた蛮族のような姿をしていたが、身なりを整えた彼はエラディアの美貌に並び立っても見劣りしない偉丈夫だった。

この地の人間の多くは茶髪に灰色の瞳をしていたが、彼もまた黒褐色の髪に鈍い青灰色の瞳の持ち主であった。



結婚式の最後、誓いの口づけを適当に済ませようとした新郎の襟首を掴んで引き寄せたのは、炎のように湧き上がった衝動的な苛立ちからだった。


望まぬ婚姻だったのはお互い様で、公爵家の支援が必要だったのは彼の落ち度だ。

それを棚に上げて、エラディアを侮辱する真似は許せなかった。


あのときの噛みつくような口づけを思い出し、ふと指先で唇を撫でる。



望むままに生きるためには、敗北から学ばなければならない。

肩書きこそエラディア・ノワジア辺境伯夫人となったが、それだけでは足りないのだ。


一人で何もかも抱え込めばどうなるのかは、既に経験している。

――私たちに必要なのは、協力者。


特に夫となったカイランは、必要不可欠だろう。

けれど……私たちは、彼の口にした愛(・)が欲しいわけじゃない。



幸い、今夜は初夜(・・)だ。


口角を上げて厚い胸板を押せば、カイランはそのままベッドの縁へと腰を落とした。

驚愕の表情を浮かべてはいるものの、その場から動く気配はない。


先程の御大層な宣言と違って、彼の身体は随分と正直だった。

この鍛え上げた体躯であれば、魔力を封じられ身体強化の使えない細腕を拒絶するのは容易いだろうに。



「――愛は要らない(・・・・・・)わ。ねぇ、私の評判(・・・・)は知っているでしょう? 夫となったのだから、義務を果たしてちょうだい」

「な……っ、君は……!」



相手の欲を煽るのは、エラディアの得意分野だ。


むしろこの手の男は、得てして堕としやすいと相場は決まっている。

腹芸の一つもできないあたり、この男は本質的に、領主というよりも騎士なのだ。

彼もこれまでの男たちと同様に――きっと、どうせ、抗えない。


肉体はともかく、魂の経験不足から一抹の不安が過ったものの……エラディアの名に傷を付けるわけにはいかない。



燭台の灯りが薄布越しのまろやかな輪郭を描き出し、妖しく揺らめく影を躍らせる。


匂い立つ魔性の女の魅力は、断罪をもってしても削ぐことは叶わなかった。

むしろ影を纏ったことで、より成熟した妖艶さを漂わせている。


強い視線が突き刺さり、彼が息を呑むのを、じっと見つめる。



「ねぇ……だから、愉しみましょう?」



私は深紅の瞳を細め、ゆったりと笑みを浮かべた。



***



試みは、概ね成功したといって良いだろう。

思惑通り、カイランは私に夢中になった。


一抹の不安はあったものの……むしろカイランには、時折どうしても滲み出てしまう初心らしい反応が刺さったらしく、当初の拒絶は影も形もない。

むしろ大型の忠犬さながら、甲斐甲斐しく妻の面倒を見る始末。


この妙なお人好し加減が、カイラン・ノワジアという男の一面なのかもしれない。



背中に残る傷跡や左胸に刻まれた紋様を見ても、彼は何も言わず、ただ何度も指先でそっと撫でた。

治癒魔術に長けた教会の聖職者ですら消し去ることのできなかった――エラディアの魂にまで刻みつけられた、汚辱と敗北の証。


けれど武人であるカイランにとっては、ただの古傷と同じなのだろうか。



彼は、かつてエラディアが傍に置いていたような、一時の享楽を得るための相手ではない。

だから裏切ることのないように……大切にしてあげる。



「――カイ」



彼女(・・)がそうしていたように、呼びやすく短縮した名を口にする。

見上げれば、少し照れたような無防備な視線と交わった。



***



「こんなに綺麗な奥様にお仕えできるなんて……っ、ほんと、夢みたいですっ!」



自ら辺境伯夫人(私)の侍女を志願したというリナは、素直で可愛らしい少女だった。


あどけない顔立ちに、温かみのある栗色の髪と明るい青灰色の瞳。

灰色の瞳は、この地の空を思わせる。

カイランの瞳が昏い夜を映したものだとすれば、彼女の瞳は夜明けの色だ。


左右に短い三つ編みを垂らし、暗い色の丈長なワンピースに白いエプロンのお仕着せ姿は、年長者の多い使用人たちの中でよく目立っていた。



思わず毒気を抜かれてしまうほど屈託のない笑顔を浮かべる侍女は、エラディアのこれまでの悪評をまるで気にしていない様子だった。

若さなのか、性格なのか。

その澄んだ眼差しと憧れにも似た純粋な好意に、少しだけ胸が温かくなる。



カイランを懐柔したおかげか、リナの素直で好意的な雰囲気が伝播しているのか。

たった数日のうちに、城砦内で働く使用人たちの態度も軟化してきた。


リナが言うには、使用人たちの多くは年のせいで素直になれないだけで、そもそも最初からエラディアを嫌っていたわけではなかったらしい。

ここへ来たばかりのころに感じていた疎外感は、もしかすると……私や彼女(・・)の精神がささくれ立っていたせいなのかもしれない。


そう思える程度には、この無骨な城砦を私も受け入れ始めていた。



***



夢の中で、大きな傷をいくつも抱える小さな光の欠片を見た。

わずかに輝きを取り戻した彼女の魂に、そっと寄り添う。


濃紫と深紅の混じり合う、この不思議な空間で――いつか貴女と溶け合うことができたなら。


そんな想いを拒むように、大きく浮かび上がる魔術の紋様の向こう側から、解放を望む意思が濃度を増した。



目が覚めると、夢の内容はきれいさっぱり忘れてしまっていた。



***



ノワジア領は北部に位置しており、王都に比べるとかなり気温が低い。


そのせいか、カイランもリナも私に厚着をさせようと躍起になった。

首元まですっぽりと隠すドレスは着慣れないものだったが、今はこれで丁度よかった。



カイランの腕に抱えられ城塞の屋上から見下ろしたノワジアの中心地は、大規模な城塞都市だった。


黒っぽい石造りの城壁が囲む赤茶けた街には、驚くほど人の影がなく、賑わいは感じられない。

冷たく整然と住居が立ち並ぶその造りは、恐らく城砦内の騎士団詰所や厩舎から即応できるように設計されているのだろう。


背後にそびえる山の斜面は断崖絶壁で、その頂を万年雪が白く覆っている。

長大な城壁の右手側には、深く暗い森が広がり――遠くなるほど靄に包まれ、その全容は計り知れない。



「あの森が、魔物との境界になる」



魔物はあの森の奥深く、その更に向こうから現れるのだという。


森と街を隔てる城壁上の歩廊には、何人もの騎士が巡回している。

その様子からは、平時であっても警戒を欠かしていないことが見て取れた。



街の中心地からやや森側に、たった一人の司祭が預かる巨大な教会が鎮座している。

かつては『教会に合わせて街が作られた』などという逸話があるのだと、カイランが失われつつあるこの地の歴史を口にした。



「うふふ……面白いわね」



ノワジアについて語るカイランの瞳の奥に、誇りが滲んでいた。

私にはまだこの地に対して、そこまでの思い入れはない。


けれど、私はここを――エラディアに相応しい領地にしてみせる。


滅びを待つばかりの、空虚な場所にはしておけないのだ。

私は一人、胸の奥で決意を固めた。



***



「これも職務ですので」



領主夫人としての仕事を学ぶために執務室を訪れた私に、思っていた通りの反応を返したのは、カイランに代わりこの領地で采配を振るう男だった。


ルネ・マルセラン。

主な肩書きは領主補佐官だが、カイランの不在時には領主代理まで任せられている優秀な家臣であり、ノワジア家に代々仕えてきた男爵家の若き当主。

一目見ただけでわかる、典型的な堅物インテリ眼鏡だ。


左右へ撫でつけた艶のないくすんだ淡茶の短髪、窓の外から覗く空と同じ色をした瞳は、やはりこの地の人間らしい色合いをしている。


薄暗く乱雑な執務室の惨状に、ひょろりとした細身が浮かぶ。

無骨な肉体派が多いこの城砦内では明らかに浮いた部類だが、彼のような人間が支えているからこそ、領主が魔物討伐に向かっても領地を管理できているのだろう。



領主夫人としての地盤を強固なものにするには、領主補佐官からの信用も不可欠。


そして――この堅物男を陥落させたら、どれほど愉快だろう。


獰猛なエラディアの本能がそう囁く。

けれど同時に、こういう手合いの仕事人間に誘惑は逆効果だということも理解できた。


それに……エラディアが男に媚びるしか能がないと思われても癪に障る。



たった数日のうちに、ルネは私の仕事ぶりに舌を巻いた。


転生前は会社員だったので、長時間のデスクワークには慣れている。

そして本人を含め意識から外れがちだが、エラディアはかつて次期王位継承者と肩を並べて高度な授業を受けていたのだ。

貴族の屋敷としての管理をはじめ、毛色の違う軍事施設としての側面を持つ城砦の運用に関わる部分に関しても、書類を捌く上で何ら問題はなかった。


このような即戦力が現れたことは、領地に関する業務のほとんどを一人で執り行っていたルネにとっても、ありがたかったのだろう。


むしろ彼が反発もなく私を受け入れた事実や、あまりに手が足りていない現実が悩ましい。



「……失望されましたか? 風前の灯のようなこの領地を」



いつになく感情の籠ったルネの声に、私は唇の端を引き上げる。

困窮した領地を救うための婚姻であることは、当事者である私が一番よく理解している。


――滅びを目前に、ノワジアは薄氷の上に立たされている。


けれど私を、贅沢を封じられた可哀想なお嬢様のように扱うルネの口ぶりが気に入らなかった。



「勘違いしないでちょうだい。私がただ贅と権力を望んでいたのなら――その気になれば国母にだってなれたのよ? そっちこそ、『罪人』の『悪女』を押し付けられた被害者じゃない」

「……いいえ。貴女は既に、罪を償われたではありませんか。故に、貴女はもう罪人ではありません。私共の女主人なのですから、ご自身を卑下なさらないでください」



険を帯びた私の言葉を、ルネは淡々と訂正した。


言い合いにすらならない短いやりとりは、思った以上に深く私を満足させた。



***



魔物討伐のため、カイラン率いる騎士団はひと月おきに境界となっている森を巡回する。


領主不在の間に、私は補佐官への誘惑を始めた。

仕事一辺倒の堅物男は、心を許し始めた女の魅力に抗えない。



ルネの中に燻る熱を高めるのに、そう時間はかからなかった。

今や眼鏡のレンズ越しに覗く濡れた灰色の瞳は、手元の書類ではなく私だけを映している。



「――ルネ(・・)」



はじめて口にした彼の名が甘ったるく響くと、次の瞬間には視界が反転していた。

箍が外れ余裕をなくした男の顔越しに、薄明りに照らされた天井が映る。


私は降ってくる性急な口づけを堪能しながら、彼の首へゆったりと腕を回した。



冷静さを取り戻しかけたルネに対し、エラディアが凡庸な倫理の外にいる存在であることを突き付けた。

彼の中に生まれる罪悪感を、赦しの言葉で上書きしていく。



――カイランは出立前から、私の思惑を察していた。

夫として他の男の存在を気にかける素振りどころか、無条件に受け入れる姿勢を見せるほどの寛容さを示した。


もしかすると……肩書き程度でエラディアという存在を所有(・・)することはできないのだと、本能的に見抜いたのかもしれない。



そうしてルネは、私の協力者となった。



***



「アンタ面白いね。……どうして俺に気付いた?」



夜の闇に紛れ、背後から首筋に冷たいものを当てたのは、私の監視者だった。


首筋に当たる何かを気にすることもなく振り返れば、慌てたように手を引っ込める。

気配を(・・・)完全に消したせい(・・・・・・・・)でカイランが察知したのだと伝えれば、彼は降参したように手を広げて笑った。



シルヴァと名乗った彼の名が本物なのかどうか、私に確かめるすべはない。


夜闇に溶ける黒髪に、つり目気味の金色がかった琥珀色の瞳は、気まぐれな猫を思わせた。

鞭のようにしなやかな体躯をしているが、顔立ちにはまだどこかあどけなさが残る。


彼は本来、一流の暗殺者だ。

しかし殺気を含め、何もかも気配を消して忍ぶのは、長期的な監視には向かない。

優秀な監視者というのは『そこに溶け込む』ものだが……何らかの事情で、暗殺者を送り込むしかなかった。

微塵の殺気も纏っていないのはそのためだろう、というのがカイランの見立てだった。


気づいた時期からして、対象がエラディア(・・・・・・・・)であることは想像に難くない。



わかっているのに、ただ監視されてあげるのもつまらない。


一度存在を知ってしまえば、何の気配もしない場所(・・・・・・・・・・)を探るのは私でもたやすかった。

私はカイランの遠征中、この未熟な監視者が姿を現すようにあらゆる挑発(・・)を仕掛けた。


そうして現れた謎の青年は、愉しげに琥珀色の瞳を細めている。

私はゆったりと笑みを浮かべて、彼の耳元で囁いた。



「私の傍にいれば、もっと面白いものをたくさん見せてあげる」

「……俺に、雇い主を裏切れって?」

「それじゃあ愉しくない(・・・・・)わ」



肩を抱き、顔を近づけるシルヴァに、私も腕を巻き付ける。

余裕を装う監視者の瞳の奥には、欲が燻っていた。


若い男(・・・)の監視者に、これまでのエラディアとしての行いを見張るのはさぞ忍耐を要したことだろう。



二人で陰に溶け合う中、私は知りたいことを一つ一つ聞き出していった。



私はシルヴァに、護衛として傍に侍ることを許した。

監視者としてはこの方がはるかに情報を取りやすいし、私としても変なところから覗かれていると気を張らなくていい。



ノワジア辺境伯夫人となったエラディアを、一体誰が何のために監視しているのかはわからない。

既に目的を果たした王太子たちが気にする必要はないし、父が隠れて知りたがることもないだろう。


それでも一流暗殺者であるシルヴァが送り込まれてきたのだから、単なる興味本位とは考えにくい。



私は王都を離れてもなお、エラディアが注目を受けている事実を噛みしめたのだった。



***



濃紫と深紅の混じり合う夢の中で、私の一部が小さな光の欠片に溶けていく。


傷は消えない。

けれど眩い輝きを放ち始めたことで、それは随分と薄れて見えた。



空間全体を揺蕩いながら渦を巻く濃紫と深紅は、次第にその色を深めていく。

浮かぶ紋様は変わらぬ存在感を放っているが、その奥から伝わる解放を望む意思は、強い渇望を訴えていた。



***



リナの手のひらの中にある小さな石に目を留めたのは、偶然だったのだろう。



「ねぇ、それは何?」

「あっ、奥様……! これは灰石(はいせき)……使い終わった魔石です。すみません、お風呂の支度をしていたのですが、うっかり切らしてしまいました」



申し訳なさそうにしているリナに手を差し出せば、やや困惑した表情で白灰色の石の欠片を渡してくれた。


常に使用人に囲まれ、生まれながらにして強大な魔力を身に宿していたエラディアにとって、魔石というのはあまり触れたことのないものだった。


小さな欠片であれば平民でも明かりや水を沸かすのに使う、魔力の籠った石。

大きく高品質のものになれば、複雑な魔術ですら使えるのだという。


魔力が含まれていれば複雑な色味で輝く魔石も、内包する魔力を使い切った後では光も通さない、ただの石屑だった。



遠く薄れた記憶の中で、かつてごく短期間だけ受けた魔術の授業を思い出す。


――悠久の時を経て魔力を蓄積した魔石に、再び魔力を込め直すのは現実的ではない。


魔力を保持する性質を持つ数少ない素材のため使い捨てるには惜しいが、さりとて躍起になって再利用するほど希少なものでもないのだ。


……けれど裏を返せば、理論上不可能ではないということ。



好奇心に駆られ、灰石を左胸に当てる。


魔力を封じた筆頭魔術師は、特殊な魔力の源泉を塞ぐのでは不十分だったと言っていた。

だから魔力の通り道を、バラバラに組み替えたのだと。


そのせいでエラディアは、封じられた魔力を諦めるまで……身体の内側を細かくちぎり取るような激痛にのたうち回ることになったのだから。



不思議な確信が、胸を過る。

――魔力を意のままに操ることはできなくても、無尽蔵に湧き出る魔力自体(・・・・)を封じきることはできなかったのでは?



記憶にない、濃紫と深紅の渦が浮かんだ。

それはきっと心臓の近くから湧いているのだろうと、本能が囁いた。



目を閉じて、灰石を握り込む。

胸の辺りをわだかまっている魔力へ、使う意思を込めた。


そして次の瞬間――身体を起こしていられないほどの激痛の中、光が弾けた。



***



目を覚ますと、リナの泣き顔と焦燥したカイランの姿が目に入った。


――どうやら私は、あれから数日間意識を失っていたらしい。



代わる代わる心配する周囲をなだめるのに、大層な労力を使うことになった。


命に別状はないのだと伝えても、誰一人納得はしなかった。

ここまで壊れ物を扱うような待遇には慣れていないが、そう悪いものでもないことは理解し始めていた。



原因の説明も、今はまだ難しい。


灰石に魔力を込める試みは、失敗に終わった。

残されたのは、完膚なきまでに砕けた灰色の砕石。


どうせ廃棄される灰石を再利用できれば何かに使えるんじゃないかと思ったけれど、そう簡単にはいかないらしい。



けれど、収穫はあった。

弾けた光が魔力の塊だったのは間違いない。

灰石が砕けたということは、少なくとも魔力に何らかの反応を示したのだろう。


――封じられた魔力にも、まだ使い道がある。


むしろ留まり澱んでいる魔力を発散する方法が見つかったと思えば、大きな価値があった。



魔力を封じられて以来、久しぶりに感じたスッキリとした心地は、痛みの代償として余りあるものだった。



***



「悪いが、俺は商人だ。美人相手だからって、儲からない話に乗るほど甘くないぜ」



高価な異国の香水と葉巻の金煙を纏った男は、ノワジア領と外部の流通を支える商人だった。


バルニス・カヴァール。

赤銅色の髪を肩のあたりで緩く束ね、顎には洒落た形に整えた髭を蓄えている。

豪奢な衣装から覗くオリーブ色の肌と、異国訛りの混じった軽妙な語り口。

一見すれば、異国情緒溢れる遊び人にも見える。

しかし目尻に微かに浮かぶ皺と、深みのある翡翠色の瞳からは、食えない抜け目のなさと成熟した大人の色気が滲んでいた。


広い肩幅と上背のある体格は、かつて荒れ狂う海を股にかけたという逸話に、妙な説得力を与えていた。



お抱え商人とはいえ、彼は長年ノワジアで商売をしてきたわけではないらしい。

けれど風前の灯火であったノワジア唯一の産業ともいえる、討伐した魔物から採れる素材はここでしか手に入らない。

今はまだこの国で名の売れ始めた地方商人に過ぎない彼は、希少な商品を独占できる機会を逃さず、王都の一流商会に名を連ねようと画策していた。



一方で、ノワジア領の財政はひっ迫していた。

領主の婚姻を代償に得た、ヴェルミリオン公爵からの支援にも限りはある。


この状況を脱却するためには、新たな収入源が必要だった。



私が『取引』という言葉を口にした時点で、バルニスは人好きのする笑みを浮かべながらも、しっかりと釘を刺してきた。

こちらの懐事情は織り込み済みなのだろう。


バルニスが気前よく分け与えた最高級の葉巻を吸い、煙をくゆらせる。

応接室いっぱいに、特徴的な煙香が充満した。



「代金は支払うわ。貴方はただ、言われたものを調達してくれればいいの。……そして完成したものを売り捌くかどうかは、全て貴方に任せる」

「果たしてそれは、対等な取引だろうか?」

「対等である必要はないわ。得られる利は享受すればいい。私に必要なのは、貴方の目利きと販路よ」



私はもう一度黄金のラベルが巻かれた葉巻を心ゆくまで堪能し、悠然と笑みを浮かべてみせた。



「この取引を呑んでくれるなら――私が貴方を、もっと稼がせてあげる」



翡翠の瞳が、わずかに見開かれる。

目の前にいるのがただの辺境領主の奥方でないことを、ようやく理解したのだろう。



恭しく手の甲に唇を付けたバルニスは、私の要求が職人見習いと廃棄品となった大量の魔石だと聞かされると、ようやく腹の底から笑い声を上げた。



***



騎士団が定期的に魔物の現れる森へ討伐に向かう最大の理由は、当然ながらこの地の守護だ。

けれど同時に……この痩せた土地の数少ない産業でもあるという、皮肉な側面を持ち合わせている。


魔物の死骸は恐ろしくグロテスクな反面、珍しいものを収集したがる物好きはどこにでもいる。

大半ははく製にしたり、剥ぎ取った爪や鱗を観賞品に加工する程度だという。


毛皮などは防御や断熱に優れた反面、それを加工する人手自体がここノワジアには存在しない。



異世界の知識を持つ私にとって、おぞましい魔物の死骸は、同時に宝の山にも見えた。


剝いだ毛皮をきちんと加工すれば、粗野な蛮族じみたマントなどではなく、精鋭騎士団に相応しい品に仕立て上げられるだろう。

頑強な皮や鱗は鎧や盾、鋭利な牙や爪はナイフや矢じり。

硬い角や骨は、もしかすると大剣に化けるかもしれない。


何より、ノワジア領内で加工技術を確立できれば、武器や防具を大量に買い込む必要も減る。


剥ぎ取った素材そのものやはく製だけでなく、貴族たちの鑑賞に堪えうる工芸品として価値を上げれば、より高値で売りつけることも可能だろう。



バルニスは私の要求通り、貴重な新素材の加工技術を磨き、研究する意欲のある職人見習いたちを連れてきてくれた。


ノワジア領は魔物の現れる恐ろしい土地ではあるが、平和な王都で熱意を燻らせた若者はそれなりにいたらしい。

賃金の保証を約束したのも大きいのかもしれないが、人手が増えたことには違いない。


若く挑戦的な職人見習いたちがやってきたことで、僅かにノワジアの街も活気づいたようだった。



領主夫人の主導した投資は、何故か騎士団員のみならず街中の人々から好感を集めたという。

実家からの支援を自分のためでなく、領地のために使ったから、などというくだらない理由らしい。


そもそも私自身は贅沢な生活を望んでいるわけではないと何度説明しても、周囲は生ぬるい笑みを浮かべるばかりだった。


私(・)が要求して唯一取り寄せたものといえば、コーヒーの生豆と焙煎道具一式だ。

城砦内で常飲されているカフェイン摂取が目的の紛い物のようなコーヒーだけは、どうにも我慢ならなかった。



私の計画に商機を見出したのだろう。

バルニスは全面的に協力する姿勢を見せていた。



「美しい夫人に、これを。当然、計画があるんだろうが……色を無くした魔石に囲まれるより、貴女には宝石がよく似合う」

「ふふ……。貴方が付けてくれるなら、受け取ってあげてもいいわ」



思わせぶりな笑みを浮かべれば、バルニスは余裕の表情に歓喜を滲ませた。

彼が何気ない様子を装って差し出したのは、血のように紅く輝くいくつもの宝石が繊細な金細工で留められた、美しいネックレスだった。


背後に回った男の指が、するりと首筋に触れる。



「……鏡が見たいわ。私の部屋までエスコートしてくださる?」

「もちろん、喜んで」



優雅な所作で腕を差し出したバルニスを、私は寝室へ招いた。



***



馬車いっぱいに詰め込まれた灰石に、私のやる気は最高潮に達していた。

どうやって集めたのか、バルニスはごく小さな欠片から拳くらい大きな塊まで、様々な灰石を取り揃えてみせた。



リナの心配をなだめ、シルヴァの嫌味を聞き流す。


……もう、気絶して寝込むような轍は踏むまい。

封じられた魔力を多少なりとも解放することは、私の精神衛生上にも良い。


それを知ったカイランは私を信じて何も言うまいと決心したようだったが、ルネは領主不在時にだけは絶対に試さないでほしいと懇願してきた。

これが彼らなりの譲歩だった。



激痛には、耐えればいい(・・・・・・)。

繰り返したところで命を落とすようなものではないことは、牢の中で嫌というほど思い知っている。

あのころはただ、魔力が使えなくなった絶望に浸っていたけれど――今は違う。


魔力の輝きを失った、灰色の石。

これを再び使えるようにすれば、きっとたくさんのことが変わるだろう。

そんな予感が、胸を占めた。



それなりの大きさの灰石を、魔力封じの刻印が施された左胸に当てる。

少しずつ魔力を滲み出させるイメージで、私は慎重に澱みを押し出す。


身体の内側から徐々に食い破るような激痛に襲われ、無様に床に這いつくばりながら、それでも意識は手放すまいと集中する。


――白く薄れる視界の中、淡い輝きを取り戻した灰石に、透明なひびが走った。



***



「ようやく、貴女にお会いできました。エラディア様……どうか僕を、貴女の僕(しもべ)にしてください」



見知らぬ部屋で目を覚ました私を陶然と見つめるのは、遥か遠い過去、義弟(・・)となるはずだったかつての少年だった。


――アレンシオ・グランツ。

幼いころは病弱だったゆえに教会へ預けられた、この国の第二王子。

今や教会が擁する、純白と黄金の法衣に身を包んだ重要人物であり……シルヴァを監視者として送り込んだ張本人なのだという。


淡く透き通るような白金色の髪に、澄んで煌めく薄青の瞳。

かつての面影を残す儚げで繊細な容姿は、薄暗い部屋の中にあっても射し込む月明りを浴び、微かに発光しているようにすら感じられる。



ノワジア領から遠く離れた彼の秘密の別邸へ誘拐同然に招き入れたのは、灰石への魔力を再充填する試みに失敗を繰り返し、消耗を続ける私の身を危ぶんでのことだったらしい。

そもそも治癒魔術で回復するようなものでもなかったけれど、身体が軽いのは彼のおかげなのだろう。



かつてアレンシオが、エラディアに心酔していたことは知っていたものの……まさか、ここまで崇拝していたとは。

――狂信的、といってもいい。


もはや彼の中で、神(・)はエラディアなのだ。



「貴女を捕らえた兄と同じ血が流れているのに、救い出すことのできなかった、無力なこの身を呪いましたが……僕はもう、子どもではありません。謂れのない罰を受けた貴女に少しでも近づくために、同じ傷と痛みを刻みました」



背を向けた彼は、ためらうことなく煌びやかな法衣を剥ぎ取った。

――そこから覗いた、真っ白な肌を覆う醜く引きつった傷跡に、思わず息が詰まる。


彼が発した言葉の一つ一つを頭が理解していくにつれ、喉の奥から熱い塊が込み上げてきた。

震える顎を意志の力で押さえつけ、深く息を吸う。


赤みと熱を帯びた傷からは、多くの治癒魔術師に囲まれた環境にいながら、一切それを使っていないことが見て取れた。



思わず抱き締めた身体には、まだ薄さが僅かに残る。

けれど同時に、あのころにはなかった逞しさが伝わってきた。



「…………、馬鹿ね。私はもう、痛くないのよ」



アレンシオの浅い息遣いを感じながら、私は彼の狂気に他ならない信仰を受け入れた。


全身から歓喜を放つアレンシオは、そのまま足元へ跪き唇を押し当てた。

彼の青く澄んだ湖面のような瞳の中には、私しか映らない。



かつて私が子どもは対象外だと公言し続けたことで、アレンシオは律義にも自身が少年から脱するのを待ち望み続けたらしい。


月明りの中、彼は男へ成長したことをその身をもって証明した。



***



揺蕩い渦を巻く濃紫と深紅の混じり合う空間で、ついに私たちは溶け合い一つになった。


僅かに綻びた紋様の向こう側から、愛憎にも似た執念の咆哮が轟く。

けれどそれは、徐々に遠ざかっていった。



「――ありがとう、私(・)。おかげで私たち(・・・)は私(・)になった。もう、何も恐れるものはないわ」



鏡の前には、挑発的な笑みを浮かべ堂々と立つ『悪女』が映っていた。



***



「そんなやり方では、何百年かかったって成功するはずありませんわ! お姉様にはまず、魔術についてもっと詳しく学んでいただかなくては。だから私が、手取り足取り教えて差し上げます!」



小さな身体で精一杯威厳を示そうとするロゼは、封じたはずの魔力を感知した筆頭魔術師が送り込んできた、魔術師の少女だった。


くるくるとした長い赤毛に、アメジストのようにきらめく大きなつり目。

白い魔術師のローブではなく、リボンとレースがふんだんにあしらわれたドレスを着ているのは、彼女の趣味なのだろう。


尊敬する師匠が施した封印を破りつつある私に対し、ロゼは畏敬の念を抱いたのか、当初の皮肉屋な猫のような態度を一変させ、今ではすっかり懐いた様子だった。


――遅々として進まない、灰石再利用計画の救世主でもある。



やみくもに灰石に魔力を注いだところで、砕けずに残った例は数えるほどのものだった。

しかしそれも、しばらくすればまた淡い輝きを失い、割れてしまう。


ロゼは私に、それはただの無謀な挑戦であり、望む結果を得るためには専用の魔術陣を開発する必要があると説いた。



幼いころにさわりだけ受けた魔術教育を放り出したのは、学ぶ必要もないほど最初から己の意のままに魔力を使いこなせたから。

けれど自身の魔力を行使するだけでなく、魔術具を作り上げる以上の困難に取り組むのであれば、難解な魔術理論を理解しなければならなかった。


皮肉っぽいところのあるロゼだが、意外にも魔術に関しては優秀な教師だった。

これまで理論など無視して魔術を使ってきた私に驚きながらも、理屈として理解していなかった部分を冷静に分析し、わかりやすい説明で教え込んだ。



最終的に灰石へ魔力を再充填する装置を作り上げることができたのは、転生前の記憶とロゼの貢献のおかげだった。



***



「……へぇ、これがその再利用魔石か」



バルニスが指先に摘まんだ小さな欠片を、角度を変えながらじっくりと眺める。

灰色のまま淡く輝く石の中に、透明なひびが透けている。


変換効率の悪い魔力を大量に流し込む都合上、灰石を加工する際に魔力の流路が無理やり刻まれ、クラック(亀裂)が入ってしまうのだ。



同じ大きさの魔石と遜色なく使用できるが、魔力が切れると今度こそ砕けてしまう。

しかしその分、使い捨ての用途にも向いている。


量産の目途がついたので、既に城砦内や騎士団では通常の魔石の代わりにこちらが使われている。

今後は外部へ販売するだけでなく、ノワジア領内にも流通させていくつもりだ。


これでまた少し、戦闘や生活が楽になるだろう。



「私たちはこれを、区別のために傷石(きずいし)と呼んでいるわ」



――傷を抱えることで、再び輝きを取り戻した石。



「それはまた……いかにも貴女らしいが、随分と痛々しい名前だな」

「ふふ、あくまで身内だけの呼び名よ。商品名はそっちで考えて。……そういうのは、得意分野でしょう?」



バルニスは真剣な表情を浮かべ、再び手元の傷石を様々な角度から眺める。

顔を上げたとき、彼の顔には満足そうな表情が浮かんでいた。



「灰晶石(グレイス)……灰の中から蘇る輝き、なんてどうだい?」

「悪くないわ。流石、宝石も取り扱っているだけあるわね」

「美しいものには、美しい名前を。そうだろう?」



バルニスは渋い色気を滲ませながら片目をつむってみせた。


価格設定や販路について悩みだしたバルニスに、私は一つの提案を口にする。



「今はまだ、これで大っぴらに儲ける気はないのだけど――専属で、大量に買い取ってくれる当てならあるわ」



***



「君は……目にする度、興味深い存在になっていくな。まさか封じた魔力を無理矢理引き出すどころか、この世に存在しえない魂と融合まで果たすとは」



人払いするなり狂気に歪んだ笑みを浮かべたのは、私へ魔力封じの術式を刻み付けた男だった。


彼を表すセフェルという名は、魔術師たちを束ねる塔主となった者が引き継ぐ称号であり、同時にこの国の筆頭魔術師を指す。


冷たい輝きを放つ長い銀髪に、凍えるような蒼い瞳。

この世の美を全てかき集めて作られた化身のような、不気味なまでに整いすぎた容貌。

緻密な刺繍が施された白いローブを纏った姿は、あの断罪の日と同じ。


そして――私の深紅の瞳を覗き込む、冷たく燃える狂気を孕んだ視線も、変わらない。



この狂った筆頭魔術師(化け物)は、誰にも気づきようのないはずの私の真実を言い当てるなり、あっさりと私にかけた魔力の封印を解いた(・・・・・・・・・)。


長くしなやかな指先を、優美に一つ鳴らしただけだった。

たったそれだけで、あれほど私を苦しめた術式は、跡形もなく消え去った。



「しばらく経過を確認する必要はあるが、これで問題なく魔術を使えるだろう」

「……何故?」

「君が灰晶石を供給してくれれば、己の魔力の限界に苦しむ魔術師たちの研究も捗る。そして何より――これから君が成す、興味深い事象を視(み)ていたい」



貪欲な瞳に飲み込まれそうになりながら、久しぶりに身体中を巡り始めた魔力に、呼吸が乱れる。


思えばこの男は、私の持つ濃紫の髪や深紅の瞳へと色濃く現れた魔力に固執していた。

論理を無視した魔術の使い方にも、興味を持っていた様子だった。


つまり私は……魔術狂いの知的好奇心を満たすのに、最適な存在だと認められたのだろう。



「王太子の要請は、あの場(・・・)で君の魔力を封じることだけ。永続的な効果の約束も、封印を解くことを禁じられた覚えもない。魔術の――ひいてはこの世の解明に繋がる可能性があるのに、くだらない連中に付き合ってやる道理はない」



美しくも奇妙に響く声で、何を考えているのかわからない、感情を削ぎ落としたような表情を浮かべながら、筆頭魔術師はそう詭弁を宣ってみせた。



***



封印解除による影響を確認するために、筆頭魔術師セフェルは一晩の観察を申し出た。



白く長い指が、繊細な動きでむき出しになった胸元をなぞる。


この男にとっては、あくまで並外れた探求心を満たすための観察に過ぎないのだろう。

つい先ほどまで紋様が刻まれていた左胸のあたりを慎重に往復しながら、魔力の流れを確かめているようだった。



「いっそ、全身をくまなく探ってみたらどう?」



私が挑発するようにシーツへ横たわると、怜悧な貌に興味深そうな表情が浮かんだ。


魔術に関しては、好奇心の塊のような男なのだ。

この身体は、さぞ魅力的な検体に違いない。



「だけどセフェル卿にも、私を愉しませてもらうわ」



全身へ魔力が馴染み始めた私に、長身が覆いかぶさる。

そして了承するように、額へ唇が降ってきた。



「……エルミオス、それが私の真名だ。君ほどの存在になら、教えたところで問題はないだろう」

「ふふ……そう、それは光栄だわ」



理屈一辺倒のような男に原始的な快楽を教え込むのは、思っていた以上に心が躍った。


そして私は、久方ぶりに身体強化の素晴らしい恩恵を堪能したのだった。



***



ノワジア領の立て直しに、目をつむり続けてきた問題がある。


――この地に現れる、魔物たち。


大昔から人を襲い続ける、謎に包まれた存在。

どこから生じているのかも不明で、長大な城壁の先に広がる昏い森の、その更に奥からやって来ているということしかわからない。



定期的に討伐のための遠征が組まれ、倒して持ち帰った死骸は、碌な産業のないこの土地でほぼ唯一の金を生む材料になる。


全ては、悪循環によって生み出された現象に他ならない。


魔物が現れる呪われた土地などでなければ、大勢の人間が流出していくこともなかっただろう。

そして頑強で責任感の強い優秀な人間の多くが、騎士として短い生を終えることもない。


土地は痩せているが、それを補ってあまりある広大さを誇る。

しかし、十分に活用できるほどの土台がない。


城壁に囲まれた街は人口に対し不釣り合いなほど広く整えられ、がらんとした空虚な空間が広がるばかり。

多少活気づいてきたとはいえ、それでも古代の滅びた遺跡を思わせる陰鬱さを放っている。



長期的な視野で見れば――魔物との争いは、無益に等しい。


そもそも、命を脅かしてくる相手なのだ。

その日を生きるための、糧を得る手段でもありながら……その実、血を失い消耗していくばかり。


戦時中でないにもかかわらず、カイランを筆頭とするノワジアの騎士たちは、絶えず争いの渦中に身を置いている。

この国最強と名高い屈強な軍隊は数を減らし続け、いつしか少数精鋭と呼ばれるまでに成り下がった。



――このような忌まわしい状況から、抜け出さなくては。



私はエルミオス達魔術師の叡智を借り、魔物の秘密を探った。

その過程で、ノワジア領の失われた歴史が明らかになっていく。



太古の昔、勇者がこの地に魔王を封じた。

その褒賞に領地として与えられたのと同時に、魔王の封印を解こうと集まってくる魔物の討伐を任せられる。


古代魔術を駆使して対魔物用に造り上げられた城壁内は、かつて防衛と信仰の中心地として栄光に包まれていた。


……長い時をかけて、そうした知識や伝承は絶たれていったのだ。



私たちは、魔王と魔物について、もっと識(し)らなければならない。


観測魔術を得意とするロゼが、違和感のある場所を見つけた。

ノワジアの街の、ほぼ中心に位置する――白く荘厳で巨大な教会。

その地下深くに、周到に隠された魔力の痕跡があるという。


安直なようでいて、もし本当に魔王なる存在を封印しているのなら、逆にそこしか考えられない場所でもある。

物理的な空間があるわけではなく、古代魔術で形作られた入れ物というのが近いらしい。



濃紫と深紅の膨大な魔力が渦を巻く夢の中で、諦念を漂わせた気配が手招きをした。



***



「ようこそ、エラディア。……貴女がまさか、ここまで届くなんて想像もしなかった」



エルミオスの魔術によって訪れた、ノワジア領の教会地下に隠された封印の先――色のない空間で私を出迎えたのは、かつての私の姿(・・・・・・・)をした魔王だった。


緩く波打つ、長い濃紫の髪。

細められた目から覗く、深紅の瞳。

華美なドレスを纏い、滑らかな肌を惜しげもなく大胆に晒した、魅惑的な女。


――悪女として断罪される以前の、エラディア・ヴェルミリオン。



「それ(・・)があなたの今の姿なの? 随分と悪趣味ね」

「……どうにも、諦めきれなくてね」



私の皮肉に、魔王は力のない令嬢のように肩を竦める。

風もないのに、濃紫の髪とドレスがたなびいた。



「貴女の魔力と身体(新たな器)を得て封印(ここ)から出るのが、私の望みだった。そのために、この世の理から(・・・・・・・)外れた魂(・・・・)まで連れてきたのに――協力を拒まれるどころか、まさか融合まで果たしてしまうとは」



魔王の魔力の色は、濃紫と深紅――私の持つ魔力と、酷似しているのだという。


悠久にも等しい時間を封印の中で過ごし、ようやく見つけた、新たな器(・)たり得る存在。

しかし、様々な因果によって、ノワジアの地を訪れたエラディア・ヴェルミリオンという新たな器は……擦り切れて壊れてしまう寸前だった。


そこで、器を再び元の状態に戻すまでの一時の休息のために、連れてきた異世界の魂を容(い)れた。


敗北した悪女へ転生しても受け入れられる程度の親和性を持ち、いずれは元の世界へ還すという契約によって、意のままに御せるはずだった。

しかし新しく容れた魂は、悪女へ必要以上に共感し――元の魂の輝きを取り戻すべく、動き出してしまう。



「私が入り込むはずだった器は、もういっぱいだ。よかれと思って打った最後の一手が、決定的な喪失へ繋がってしまった。そして封印と魔物たちの関係について知られてしまった以上、私がとれる手はもうない」



諦めを滲ませた魔王は、拗ねたように何もない床を蹴った。


その姿を……私は盛大に笑い飛ばす。



「私の姿をしているくせに、辛気臭い顔をしてるんじゃないわよ。私は、エラディア・ノワジアよ? 舐めてもらっちゃ困るの。たとえ魔王だろうと――少しくらいなら、受け容れて(・・・・・)あげる」



大仰に差し出した手を、かつての私の姿をした魔王がまじまじと見つめる。

私の提案が理解できないとでもいいたげだ。


けれど自信たっぷりの私の顔を見て、愉快そうに手を伸ばす。

僅かなりとも退屈しのぎにはなると思ったのだろう。



そして私は――新しい私へと生まれ変わった。



***



「残念ながら、ご期待には沿えませんわ。だって私は――貴方たちが断じた『悪女』ですもの」



着飾った王族や貴族のひしめく王城のホールで、腕を大きく広げ唇を引き上げて嗤うのは、かつてここで『悪女』として裁かれた女だった。


伸びた濃紫の髪を頭上で複雑に結い上げ、際どいまでに露出したドレスの背中からは、いくつもの大きな傷が覗き――そして鎖骨のすぐ下、滑らかな曲線を描く左胸には、魔術による刻印が浮かんでいる。


深紅の瞳を細め、断罪の証をこれでもかと見せつける姿に、けれど人々は目が離せないようだった。



夫カイランのエスコートを受けてこの場にいるのは、ただ辺境伯夫人としてではない。


魔力を封じられたにもかかわらず――呪われたノワジア領を、永きに渡る魔物の襲撃から解放(・・・・・・・・・)した救世主。

そんな華々しい功績を称えるために招かれた、この催しの主役なのだ。



王太子セレヴィオが、苦々しげにこちらを睨みつけた。

私が心を入れ替えたのではないか――などという淡い幻想は、早々に打ち砕かれたに違いない。


本来は、あの男が英雄的に崇めるカイランを取り立てたかったのだろう。

しかし当の本人から断固拒否され提案を袖にされた挙句、かつて『悪女』と断じた女を今度は『聖女』として祀り上げるために、茶番まで用意したのだ。

この連中なりの、最大の譲歩だったのだろう。


にもかかわらず……こうも正面から侮辱されたのでは、立つ瀬がない。


だけど、そんなのは私の知ったことじゃない。



正義面をしたセレヴィオの背後には、やはり楚々として侍るアリエレットの姿もあった。

かつて意思を感じさせない人形のようだった侯爵令嬢は、王太子妃となって陰気な影を纏っていた。


これまで権力の座から遠く離れていた第二王子アレンシオが中心となり、ここ最近王都で勢力を拡大している『聖女派』がお気に召さないのかもしれない。


この会場でも、数割の貴族が灰色に輝く石(・・・・・・)を加工した装身具を付け、存在を誇示している。



今や灰晶石(グレイス)は、王都の権力者たちの救済が追いつかず、魔石の欠片すら手に入れることのできない下層民たちの生命線となっていた。


その援助を主導しているのが私だと、アレンシオが嬉々として吹聴して回り……それを支持する貴族たちは、長年の問題を放置し続けた王族への糾弾を繰り広げていた。

魔物に脅かされる辺境からの悲痛な要請を幾度となく跳ね除け、貧困に苦しむ王都民たちを救う政策を打ち出せていなかったのは、紛うことなき事実。


――正義を盾にしてきた連中が、今や不義の誹りを浴びている。


これほど愉快なことはないけれど、私がわざわざ王城まで足を運んだのは、こんな経過報告を確認するためじゃない。



「ふふ、何か勘違いされているようだけど……私は魔物の意識から、ノワジア領を外しただけ。私たちの大切な領地なのだから、守るのは当然よね。だけど……王都(ここ)は、そうじゃない」



左胸の魔術陣が、ぼんやりと光った。

エルミオスが施した魔力封じではなく、魔王の一部を受け入れたことによって浮き出た契約印だ。



魔王の封印を解くため、魔物はノワジアへ集い続けていた。


魔物は、世界の澱――根源的な負の感情とでも呼べるそれから生じる。

人間を襲うのは、澱を生み出す存在の多くが人間であり、これを本能的に取り込もうとするためだ。


そして魔王の一部を取り込んだことで、魔物の集う対象は新たに私へと移った。

同時に魔物の上位存在である魔王の能力によって、魔物たちの意識へ干渉し、魔王の気配をノワジア領から外すことに成功する。


魔物は魔王を求めるが、その気配をノワジア領内から感じられない。

私に宿る魔王の残滓を追い求めながら、けれどその周囲を彷徨うことしかできないのだ。



だけど私は今、安全なノワジア領ではなく――ここ王都にいる。



口元を歪めて嗤う私の頭上から、禍々しい漆黒の翼を持つ魔物たちがホールを襲った。


次々とガラスの割れる音に、大勢の悲鳴が混じる。



「これまでさんざんノワジア(私たち)へ押し付けてきたのだもの。魔物の襲撃くらい、自分たちの力で凌いでみせなさいよ」



せせら笑う私に、誰も応えない。

当然、そんな余裕などないのだろう。


即座に剣を引き抜き魔物へ応戦するセレヴィオと、そつなく防御魔術を展開したアリエレット。

そんな彼らに囲まれながら、今にも意識を失いそうな国王を、ゆっくりと眺める。



少し離れた壇上に、移動用の魔術門を開いたエルミオスが合図をした。

門は振り返ればこの狂乱を見渡せる位置にあり、彼の性根の悪さが垣間見える。



カイランに腰を抱かれながら、私は魔物の襲撃の中、悠然とホールを歩いた。


貴族たちの阿鼻叫喚を堪能していると、ふと視界の隅に見覚えのある姿が映る。



足を止めた視線の先には、ヴェルミリオン公爵――私をカイランの元へ嫁がせた父がいた。

この騒乱の渦中に於いても取り乱すことなく、一人影のように立っている。


視線が、引き合うようにぶつかった。


娘を庇うことなく、断罪を求める連中に引き渡した張本人。

そして追い出すように、私をノワジアへ送りつけた。


ずっと、恨めしく思っていた相手。

けれどノワジアを立て直すための支援を行い、結果的に私へ立ち上がる機会を与えたのも確かだった。


あの人の中で、どんな考えがあったのかはわからない。

私を地獄へ突き落としながらも、それでも救済の手を打った。


――だから私は今、ここに立っている。



罵り合うでも、睨み合うでもない、短い時間が過ぎた。


私はおもむろに、手首に着けていたブレスレットを外した。

灰晶石があしらわれたそれを、公爵の足元へ投げつける。



「私の自信作よ。……要るなら拾えば?」



あの人はただ図太いだけなのだろうが、同じようにこの場で騒乱を静観している人間のほとんどは、灰晶石の装身具を身に付けている。


灰晶石に込めた私の魔力は、どうやら魔物にとっては同族のもののように感じられるらしい。

そのせいか、身に付けていれば魔物に襲われないお守りのような効果が発揮される。

意図したわけではなく、偶然見つかった特性だった。


今後は、こぞって灰晶石を手に入れようとする連中が増えるだろう。



公爵の視線が床へ向いたのを確認して、私は再び歩き出した。


果たして拾うのか、拾わないのか。

けれどもう、私が気にすることはない。



魔術門を通る前に、ホールを見渡した。


私を求めてやってきた魔物たちが、けれど私を見つけられず、手あたり次第に付近の人間を襲っている。

セレヴィオたちが駆けずり回る姿は愉快だが、しばらくすれば飽きてしまいそうな光景だった。


私は彼らを見下ろし、優雅に微笑んだ。



「幸い、唯一の安全地帯であるノワジア領は広大よ。私の気が変わらないうちに――恥も外聞も、全てかなぐり捨てて逃げ込んでくるなら、受け入れてあげる」



誰にともなく告げ、悪女らしい高笑いを響かせると、私はようやく魔術門をくぐった。



***



かつて魔物の溢れる呪われた土地といわれたノワジア領は、唯一の安息地となった。


領地には人が増え、活気があふれている。


騎士団は遠征に代わり、領内の治安維持に尽力している。

魔物素材による産業は縮小したけれど、培った技術は他のことに活かして、新たな特産品が生まれた。


私の、領主夫人としての人生は安泰だろう。


けれど……ノワジア領が魔物に襲われず安全なのは、私が生きている間のことだ。

そんな未来のことまで保証する気はないけれど、寝覚めが悪いのも御免だった。



私は自身の中に眠る魔王の精神に、新天地を作ることを提案した。

魔王といえば、魔界(・・)だからだ。


どうにもまだ、魔王も魔物たちも、行動原理が原始的過ぎる。


人間を襲う理由も、こちら側からすれば理不尽極まりない。

血肉になるわけでもなく、ただ自分たちを形作るものを取り込もうという本能に従っているだけ。


――それは結局、生まれたから生きているだけに他ならない。


人間を襲って返り討ちに遭うのに一生を使うよりも、自分たちらしく生きられる場所を作ればいい。


私が死ぬまでは、魔王を説得し続けてみようと思う。



「ふふ……。さあ、次はどんな愉しいことをしようかしら」



引き入れた協力者たちは、変わらず私を支えてくれるだろう。

そして私を取り巻く環境は、これからも変わっていくに違いない。


――だってここには、奔放な悪女が君臨しているのだから。



断罪され敗北した悪女が、もう一度悪女として再臨するお話でした!

短編版では描ききれなかった部分も多いので、もっと詳しく知りたいよ~という方は連載中の長編版『堕ちた悪女は辺境に君臨する』もぜひよろしくお願いします!


少しでもお楽しみいただけましたら、評価やリアクションをポチポチっとしていただけますと嬉しいです。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

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